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リアクション
●綾原さゆみ、ローラ・ブラウアヒメル
待っている。
綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)は待っている。
午後のオープンカフェ。秋の陽射しは、薄く淹れたジャスミンティーのように淡い黄金(こがね)色で、肌に当たる感覚はどこか絹のようで角がない。
平日午後のせいか客はまばらだ。屋外席にはさゆみとアデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)だけ。他には、片手でかぞえられる程度の人数が店内にいるだけだった。
さゆみは大きな眼鏡をかけ、髪がすっぽり隠れるような帽子をかぶっていた。
眼鏡は、伊達だ。レンズには度が入っていない。
帽子もいわゆる変装用、アデリーヌもここに来るまでの短時間で髪型を日常のものと変えていた。
ふたりのユニット、すなわち、コスプレアイドルデュオ「シニフィアン・メイデン」はこのとろますます人気が加速しており、こうして自衛しなくては、そろそろ街を歩きづらくなってきたのだった。
それに、普段ならともかく、今日これからの時間だけは、他の人や物事に邪魔されたくなかった。
さゆみは待っている。目の前のカフェモカにときどき手を伸ばしつつ、アデリーヌと一緒に『その人』の訪れを待っている。
やがて、彼女が来た。
「待った?」
見上げるような高い身長、ため息つきたくなるほど流麗な体つき、きめの細かいチョコレート色の肌……ローラ・ブラウアヒメル(クランジ ロー(くらんじ・ろー))だった。
「えっと……」
言葉を探すように手元に視線を落とすさゆみのかわりに、アデリーヌが顔を上げて笑顔を見せた。
「大丈夫。私たちも今来たところだから」
事実だった。ふたりが席についてまだせいぜい五分ほどしか経っていない。
だが、それはなんと長い五分だったことか。
気持ちの上では、もう二時間ほどいたような思いのさゆみなのだった。
よかった、と簡単に言って、
「注文してくるよ」
長い黒髪をたなびかせ、ローラは一旦その場を離れた。
――口調が硬い。
そんな気がする。気のせいかもしれないが。
仕方のないことかもしれない――アデリーヌは思った。
おそらくきっと、ローラもさゆみに、胸のうちを明かすため来たのだろうから。
女生徒の行方不明を発端とし、やがて邪なるもの八岐大蛇の復活に至った一連の出来事、グランツ教の神官カスパールが暗躍がもたらしたとされるこの事件を総称して、『八岐大蛇の戦巫女』事件と最近では呼ぶようになっている。
わずか二年ほど前のことだが、以後もパラミタの激動が続いたせいか、これら事件の記憶は世間では風化しつつあった。
ただ、さゆみにとっては、今なおこの事件はひとつの意味を持っている。
さゆみも捜査に参加し、その途上でローラと知り合っていた。太陽のように明るくてオープンなローラと、友人になるまでさほど時間はかからなかった。
そのためローラが魔剣『玄武』に魂を支配され逐電したと知ったとき、さゆみは迷わずその姿を追ったのだ。行動が早かったこともあり、人通りのない場所でさゆみとローラは対面を果たしている。
だがこのとき、魔剣に支配されたローラは彼女の説得に耳を貸さなかった。そればかりか剣を振りかざし斬りかかってきたのである。
やむを得ずさゆみは応戦した。だが全力を出すわけにもいかず、ついには一太刀を浴びてしまった。
そのままさゆみは倒れている。すぐにかけつけたアデリーヌに救われていなければ、命も危うかっただろう。
ローラはさゆみが倒れるや姿を消した。さゆみを振り返りもしなかった。
その後どのようなことがあったかは周知の通りだ。ローラは魔剣から解放され、八岐大蛇およびその眷属がおりなす百鬼夜行を打ち破る力となった。事件は無事に収束している。
ローラは元に戻ったといっていい。しかしさゆみはそうではなかった。
怪我は癒えている。だが以来、ローラとはやや距離を置くようになっていた。言葉を交わすことも、会いに行くこともなかった。とはいえその後、ある雑誌の水着グラビアの仕事で共演してから、仕事上の付き合いはするようになっている。
といってもそれは友人同士ではなく、表面上の付き合いにすぎない。
笑顔で挨拶はするがそれだけだ。せいぜい、近況について二言三言話せばいいほう。
さゆみは思う。底抜けに明るい素直で純真なローラとは、本来気が合うはずだと。
それがどことなく距離を置くような、微妙な関係に終始しているのは、やはり一度は命を奪われかけたことが大きく影を落としているのかもしれない。こちらは隔意を抱いて……表面上は普通に接してはいても、心の底では警戒を解けないのは、そのときの記憶が生々しいから。
この日の午前中、雑誌のグラビア撮影にローラとさゆみたちは同席した。会うこと自体数ヶ月ぶりだった。どうやらローラは近々モデル業を引退するということなので、会える機会がこれきりになる可能性もあった。
撮影の際は屈託なく笑顔を浮かべて絡みあったりしていた。しかし撮影が済み休憩に入ったとたん、すーっとさゆみは離れようとして、ローラに呼び止められていた。
「待って」
なに?――と内心でなぜか動揺しつつ、すぐに表面上は平静を保ち、さゆみは振り向いた。
「このあと時間ある?」
ローラはさゆみをお茶に誘ったのである。
断ってもよかった。
用事があるとかなんとか……理由ならいくらでも見つけられたはずだ。実際はオフだったが。
横目でアデリーヌに助けを求めようとするも、彼女は「自分でお決めなさい」とでも言わんばかりの眼をしただけだった。
このままじゃいけない――その気持ちが勝ったのだろう。
さゆみは「いいよ」と了承していた。撮影時に見せるあの笑顔で。
「このところ、あまり話してない、思って」
という言葉を口火にローラは近況を語った。
ローラがモデル業を引退するということ、実は交際相手からプロポーズされたということ、まだ返事はしていないということ……。
さゆみも語った。夏場は最近はずっと忙しくて、ようやくこのごろ、半日単位とはいえ休みが取れるようになってきた(たとえば今日だ)ということ、アデリーヌとの仲は順調だということ。
やがて、
――言わなくていいの?
というようにアデリーヌがちらとさゆみの顔を見た。
さゆみはためらったが、ローラも明かしたのだから、とついに決意した。
「実は……これ絶対秘密なんだけど、今年の六月、私たち、結婚したんだ」
ローラは目を丸くしたが、周囲をそっとうかがってから「おめでとう!」と満面の笑顔になった。
さゆみは少し、胸のつかえがおりたような気がした。
それでもまだ、ローラとのあいだには見えない壁があるような感覚はあるのだけれど。
不意の沈黙は、それから間もなくして訪れた。
ふっと会話が途切れたのだ。なんだか、話すべきことは話した、という雰囲気。互いに、用意して来た持ち玉を使い尽くしたというような。話題のストックが底をついたというような。
ローラが黙り、さゆみも黙った。アデリーヌは口を挟まず、静かにカップを傾けていた。
すぐ目の前は秋の遊歩道、ちらほらとだが親子連れやサラリーマン風が往来している。けれどそことこの場所とは、数千キロの距離があるようにさゆみには思えた。
音も聞こえない。言うなれば頭上から透明のドームが降りてきて、すっぽりと三人を覆ってしまったような、そんな静けさがあった。
気まずい。
沈黙は、味はしないが心に苦い。
ここでお開きにして手を振って、別れるという手がある。
そうすれば……もう二度とローラと会うことはないような気がした。会ってもこれ以上の関係は戻るまい。それもまたひとつの生き方だろう。それでなにを失うわけでも、ない。
だがなにを得られるわけでもないだろう。
さゆみは小さく息を吸って、ふたたび口を開いた。
「人の心って厄介よね……」
えっ、とでも言いたげにローラが顔を上げた。
「忘れちゃいけないことは簡単に忘れるけど、忘れたいことはいつまでも記憶にこびりついてさ。あのときのことは許してるのよ。嘘じゃないわ、私だって嫌なのよ。嫌だけど……あー、本当に嫌だよね。もう正直、自分が嫌に……」
「うん……」
ローラはうなだれている。魔剣に支配されていたときの記憶は、抜け落ちているということだ。しかし記憶にはなくても、自覚というものはあるのだろう。
「ごめん、ローラ、自分でもなに言ってるかわからない……」
「いや、私、わかるね」
ローラは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……さみしい、ってこと。ワタシも、同じ気持ち」
薄い氷の壁が、砕けたような気がした。
そうか――さゆみは、肩から荷が下りたような気がした。
もやもやしたものが邪魔して、素直になれない気持ち、それは、寂しさの裏返し。
短い期間だったがローラとは友達だった。
今はそうではない。
だが、やり直すことはできるはずだ。
さゆみは勇気を振り絞って言った。
「ローラ、私ってばこんなに頼りないバカな子だけど……こんな私でもよかったら、私と友達になってくれる?」
「さゆみ、それ、ワタシが言いたかった言葉ね。ワタシとさゆみ、友達! アデリーヌとも友達!」
ふっと遊歩道から雑踏が聞こえてきた。店から薄く流れていたクラシック音楽がまた聞こえるようになった。いまなら風の音も、太陽の音すら聞こえる気がする。
喉が詰まりそうになったが、どうしても言いたくてさゆみは声を振り絞った。
「うん……また仲良くしようよ!」
テーブルの上のローラの手を取る。
「うん! さゆみ、これからもよろしく。二年前のこと……本当にごめんね」
「いいって、私こそごめん……ごめんね……」
そこにアデリーヌが静かに手を重ねた。
「いい話ね、自分がかかわっていなくても、ウルっときたかもしれない」
さゆみとローラ、その両方の顔を見比べるようにしながらアデリーヌは言う。
「でも、自分はかかわっているのだから……もっと……」
そこから先は、ちょっと言葉が出てこなかった。
三人を見おろす秋空は、青い。
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