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ようこそ! リンド・ユング・フートへ 2

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■第1章

 19世紀のフランス、パリほどヨーロッパで栄えた街はないだろう。
 花の都パリ、芸術の都パリと呼ばれたその地では、連日連夜舞踏会が開かれ、豪奢に着飾った人々が笑いさざめきながら通りにあふれ、夜を昼に変えるかのようなパフォーマンスを繰り広げる道化師たち。
 いたるところで酒場が開き、路上では階上の彼女の寝室に向けて愛の歌がかなでられる。応じるように開いた窓から花が振りまかれれば、しゃれ者たちはいそいそと壁を登りだす。
 華やかなり、パリ。
 他に類をみないほど豪華で、それでいて享楽的な街の大通りに、オペラ座はあった。



「うーん……やっぱり覚えてない」
 あかあかと照らし出されたオペラ座を前に、風羽 斐(かざはね・あやる)は頭をひねった。
 『オペラ座の怪人』は昔読んだ記憶はあるのだが、どこがどうだったのかサッパリだ。
 こうしてその場に立ってみれば、記憶中枢が刺激されて、ピーンと出てくるかもしれないと期待したりもしたのだが。
「オッサン、あんま考えすぎるとハゲるぞ」
 翠門 静玖(みかな・しずひさ)の言葉に、ピタリとそこで思考が停止した。
「……ハゲるかね? 夢の中でも」
 そんなこと知ったことではないが、静玖は真実っぽく見えるよう真顔でウンウン頷いた。

 男はハゲる確率が高い。オッサンだって今は大丈夫そうだがいつかハゲるかもしれない。つーか、長髪にしてるってことはそのヘンを気にしてるっぽい。気にしてるやつはいつかハゲる。
 4段論法だ。

「そうかね…」
 ふむ、と斐は顎に手をあてる。気にしているようで、そうでもなさそうにも見えた。

「ハゲなくても白髪になるぞ」

 こっちは間違いないな。ただし、考えすぎなくてもいずれなるという意味だが。
「白髪か…」
 後頭部をさする斐。
 2人の真顔での会話に、くすくす朱桜 雨泉(すおう・めい)が鈴のように笑った。

「お父様、お兄様も、そのへんになさったらどうです?」
 振り返る2人を見て、にっこり笑う。
「お兄様のおっしゃる通りですわ。考えても仕方ありません。私たちは私たちにできる範囲でリストレーションをして、記憶修復のお役に立ちましょう」
 雨泉の両手が、燕尾服姿の2人の肘にするりと絡んだ。
 そうすると、可憐な娘をエスコートする父親と兄、という姿になる。
 リストレーション開始だ。
 2人はドレス姿の雨泉に歩調を合わせて階段を上り、堂々とオペラ座に入っていった。

「ハゲるか…」



「ようこそおいでくださいました」
 3人の身なりを見て裕福な貴族と判断した案内係がさっそく近づき、2階ボックス席へと案内する。彼らは6番札のついたボックス席に入り、赤いビロード張りのイスに腰掛けた。
 小さな丸テーブルの上にはパンフレットが置かれている。演目は『マルガレーテ』。ただし、印刷された主演者カルロッタ・ジュディチェルリの名前には墨線が入れられ、その上に手書きでクリスティーヌ・ダーエという名前が入れられていた。

「へえ、今夜はオペラ座のプリマドンナじゃないんだな」

 静玖が少し高めに声を張って言う。
「ええ。今回は、急きょ代役がたてられたそうなんですよ」
「ふぅん。それは残念。プリマドンナの歌声を楽しみに来たんだが」
 静玖から受け取ったパンフレットを見て、斐がため息をつく。
「このクリスティーヌ・ダーエって誰だ? 聞いたことのない名前だ。メイ、知ってるか?」
「わたしも存じませんわ」
 首を振る雨泉。
 そのとき、カツン、とステッキが床を突く音が隣のボックスから聞こえた。
 大きくはないが、聞き逃すこともない音だ。
 バルコニーと敷居板の隙間から、ステッキとそれを握る白手袋が見える。

「クリスティーヌ・ダーエは、未来のオペラ座のプリマドンナです。そう、ほんの少し未来のね…」

 隣のボックスの男は低い声で、夢見るような口調でそう言った。



「私はつまずいて捻挫しただけよ!」
 綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)扮するカルロッタは憤慨しきった声で叫んだ。

「も、もう少し声を小さくしてもらえないかね…」
 オペラ座支配人の1人、アデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)扮するドビエンヌが、一生懸命とりなそうとするが、カルロッタはますますソプラノ声を張り上げる。

「足の捻挫と声は関係がないわ!」

 オペラ歌手の喉と声でわざとそうしているのは傍目にもあきらかだった。
 キンキンと耳を貫く声に、周囲のスタッフや群舞の者たちは両手で耳をふさぐが、カルロッタの目の前にいるドビエンヌがそうするわけにもいかない。
「それはそうだが……その足で舞台に立つのはきみだって大変だろう…」
「もとはといえば、あなたたちがいきなりあかりを消したからでしょう! だから段につまずいたりしたんだわ!」
 歯で爪をイライラと弾きながらカルロッタはさらに言い募った。
「しかし、その足では入る靴が…」
「だったら入る靴を用意なさい!」
「今だって立てないじゃないか…」
「ならイスを置けばいいでしょう!」
 『マルガレーテ』で!? 狂った女性がイスに座りっぱなしで何をするのか?
「カルロッタ……もうパンフレットは書き替えてあるんだ…」
「客席を回って回収して、パンフレットはなしにすればいいわ!」
「そんなぁ…」
 もう何を言わんやだ。
 ドビエンヌはぐるっと目を回して天を仰いだ。


「……さゆみさん、ノリノリね」
 喉が渇いたからお茶を持ってきなさい、と付き人を怒鳴りつけるカルロッタを遠巻きにして見ているスタッフたちの後ろから見ながら、三笠 のぞみ(みかさ・のぞみ)がつぶやいた。
「――あれが本当にプリマドンナ・カルロッタなんですか?」
 たしかに二重写しにはなってはいるが、と沢渡 真言(さわたり・まこと)はこめかみに指を添える。
 カルロッタをやっているさゆみというより、さゆみをやっているさゆみに見えるのはどうしてだろう?
「ここのプリマドンナだもん、何だって言えるよ。彼女が歌うかどうかによってお客さんの入りが左右されるんだから」
 ある意味、支配人よりオペラ座の命運を握っているともいえる存在。
「でも、それを言うならあたしたちだってそうだもん」
 いざ出陣。
 のぞみは胸を張り、堂々と2人の前に進み出た。

「支配人、どういうことなの? いつまで待っても幕が上がらないじゃない」

「こ、これは……申し訳ありません…」
 ドビエンヌは振り返り、金のモールに縁取られた青いドレスの女性を見るや、ぺこぺこと頭を下げた。
 一見しただけで上質と分かる服装に美しい立ち姿。貴族の令嬢であるのは間違いない。
「それに、パンフレットを見たけれど、カルロッタの名前が消されていたわ。オペラ座一と称される彼女の歌声を聞きたいから年間会員としてボックス費用を出しているのよ? それが聞けないのであれば、出す価値はないわね」
 ――パトロンだ!
 そうと知って、とたんもう1人の支配人、ポリニーがあたふたと駆け寄ってきた。
「大変申し訳ありません、お客さま。今すぐ幕をお開けしますので――」

「それで、このクリスティーヌ・ダーエというのは何者なの?」
 少し憤慨したようにのぞみは言って見せる。
 わがままな貴族のご令嬢という役回りを楽しんでいるようだ。

「……は。それは、そのう…」
 まさかデュエットでもなく、一度もソロ経験のないコーラスガールとは言い出しにくい。
 どうごまかそうか、算段しているポリニーを
「お嬢様が説明をお待ちです。きちんと返答をしなさい」
 後ろについた家庭教師(ガヴァネス)風の服装をした女が、ここぞとばかりに追い込んだ。
 口調こそ丁寧だが、ポリニーを見る視線は厳しい。
 ポリニーは観念し、下げた頭の下で目をつぶった。
「……はい。クリスティーヌ・ダーエは、村の若者役をしていた歌手にございます…」
「若者役?」

「私です、お嬢様」

 前に進み出てきたのは、ほっそりとした儚げな風情の少女だった。
 カルロッタと同じ、マルガレーテの服装をしていたが、与える印象は全く真逆だ。
「ふう~ん、あなたなんだ」
 繊細なマルガレーテの姿に興味が沸いたと、のぞみは歩み寄り、ぐるっと彼女の周りを1周する。
「なかなかいいじゃない。声もきれいだし。――支配人」
「は、はいっ」
「あたし、彼女のマルガレーテを見てみたいわ」

「なんですってぇ!?」

 てっきり自分の味方とばかり思って油断していたカルロッタが、その瞬間お茶を吹いた。
 あわてて立ち上がろうとするが、捻挫した足では立てない。
「いい声しているみたいだし」
「……あ、はぁ……まぁ…」
 のぞみの笑顔とカルロッタの激怒をちらちら見比べるドビエンヌ。ポリニーはもみ手でのぞみばかりを見て、背後を振り返ろうとはしない。
「この方のおっしゃる通りにすると、なぜかうまく物事が進むのです。
 大体、あの状態のカルロッタで幕を開けたりすれば、チケットを払い戻せとのお客が殺到しかねませんよ。そうなれば大赤字の醜態、あなた方の勇退ガラ・コンサートがとんだ幕引きになってしまいます。あなたもこちらに乗ってみてはいかがですか?」
 ドビエンヌの横に並んで、こっそり真言が耳打ちをする。
 それで完全に決まった。

「お嬢様、どうぞ席にお戻りになられてお待ちください。すぐに開幕とさせていただきます」
「どうぞクリスティーヌ・ダーエの天使のごとき歌声をお楽しみください」
 2人の支配人が頭を下げる中、のぞみは真言の肘をとり、上機嫌で客席に戻って行く。

「これはあたしの舞台なのよ!」

 カルロッタの叫びには、だれもとりあわなかった。



 8番ボックス席では。
「よお。お帰り」
 ミカ・ヴォルテール(みか・う゛ぉるてーる)がパリポリ音をたてながら、持ち込んだお菓子を食べていた。
「ただいま……って、何食べてるのよ」
「ポテチ」
 いや、そんな物はこの時代存在しないだろう、とのぞみは言いたかったのだが。
(ま、いーか。夢の世界だもんね)
 細かいことは言いっこなし!
 食べる? と突き出されたポテチの袋から、のぞみも1枚つまみ出す。ぱりん、と音を立てて噛み割りながら、真言が引き出してくれたイスに腰をおろした。
「それで……あの…」
 グラン・グリモア・アンブロジウス(ぐらんぐりもあ・あんぶろじうす)が、隣にかけた主を心配そうに見上げる。
 彼女が何を言いたいのか察して、真言は安心させようと笑顔を見せた。
「大丈夫。うまくいったから」
「そうですか…」
 よかった、と胸をなでおろすグランの表情がやわらいで笑みになる。
「あ、始まるよ」
 ブザーが鳴り、照明が落ちたのを見上げた一瞬で、のぞみはパッとミカからポテチの袋を奪った。
「こんな音させちゃダメ!」
「――ハイハイ」
 どうせもうほとんどカラだし。
 ミカは口の中の1枚を飲み込んだ。
 ミカも、どうせ見るならしっかり楽しみたい。なんといっても演目は『マルガレーテ』……悪魔メフィストに魂を売ったファウストの悲劇の物語だ。マルガレーテが主役ということは話の軸はラブストーリーだが、それでも見ごたえはあるに違いなかった。
 するすると緞帳が上がり、舞台が始まる。
 老いたファウストが世界のすべてを知ることができないで死んでいかなくてはならないことに絶望するシーンからだ。

    私が夜通し熱心に問いかけても
    大自然と創造主は答えてくれはしない
    私に慰めの言葉をささやく
    ただの一音も どこからも聞こえてはこないのか…!


 無言で見入っている3人をちらと見て、グランはそっと背後の赤いカーテンに触れる。
 本物としか思えないその感触がなんだか怖くて、あわてて手をひっこめた。
(これが、お話の世界でしかないなんて…)
 舞台で歌っている人も、客席でそれに見入っている人たちも、みんなあんなにリアルなのに。
 みんな、私たちの無意識が作り上げたもの。
(私も魔道書のひとつであるからには、いつか、こういった現象になることがあるのだろうか…)
 ファウストの深いバリトンが響き渡る中、グランはぼんやりとそのことについて考えてみた。