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春をはじめよう。

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春をはじめよう。

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●花びらがまるで嵐のように

「まぁ侘助、よく似合うわね」
「その服じゃ駆けることは難しくはないか?」
「それじゃあ毬つきでもしましょうか」
 懐かしい声が聞こえた。
 温かい、声。
 けれど久途 侘助(くず・わびすけ)にはそれが遠くて、どうしても、壁一枚隔てた隣室から、あるいは、布団にくるまったその外側から、響いてくるように感じるのだった。
 声の主が誰かはわかっている。
 単なる記憶ではなく皮膚のレベルで、覚えている。
 いつまでもそこに浸っていたいという気持ちはあるが、それはある意味『逃げ』であることを理解していた。
「……」
 目を開いたら、いつもの天井があった。
 ――どうやら夢を見ていたらしいな。とても懐かしい昔のこと。
 侘助は小さな欠伸をした。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、寝具から脱するのは容易ではないだろう。
(「……まだ朝も早いよな」)
 決めた。
 よし、二度寝だ。
 絹でできた手綱を使って滑り落ちるように、するすると侘助の意識は眠りの虚空に落ちていく。

 ふわり、ふわり。
 満開の桜。花びらがまるで嵐のように。
 ひとひら掴まえようと、懸命に手を伸ばす。
 あっちへくるくる、こっちへくるくる。
「侘助、そっちじゃないぞ、もう少し右だ」
 あぁやはり――侘助は今、確信した――両親の声がする。
 夢だと言うことはとうに自覚していた。だけど、いや、だからこそ、侘助はこの夢に身を任せる。
 右だ左だと言う声に、まるで踊るようにくるくると桜の花弁を追う。
 くるくる、くるくる。
 心地良い夢だった。愛されていた日々。愛しき日々。
 母猫に抱かれる仔猫のように、侘助は夢に無垢なる身を委ねた。

「……」
 香住 火藍(かすみ・からん)はドアの前で逡巡した。
「侘助さん……?」
 遠慮がちに声をかけてみる。
 小一時間ほど前、侘助が眠そうに朝餉を済ませ、ふわふわと部屋に戻ったのは確認しているが、それきり戻ってくる気配はなかった。寝ているのだろう。今日は用事があるというのに。
「一応ノックしますよ。一応ね」
 返事はないのはわかっているが、念のため宣言してドアを叩きノブを回した。侘助が恋人と一緒の可能性もないではない。ドアの隙間から室内をチェックし、そろそろと開けて滑り込んだ。
 侘助が、ベッドに眠っていた。
 これを目にして火藍は、見てはならないものを見てしまったように思った。胸がちくちくと痛む。
 侘助は眠っていた。閑かに涙を流して。
 目を逸らそうとするも火藍はそれができない。
 彼が悪夢にうなされているところなら覚えがあるし、一人泣いているところも目にしたことはある。
 ところが穏やかに……本当に、赤子のように穏やかに眠りながら、しかも涙で頬を濡らしているところは、これまで一度だって見たことはなかった。
「あっ……」
 微かながら声が漏れてしまった。侘助に目覚める気配があったのだ。
 侘助は何かを探すように手を伸ばす。
 無意識に火藍は、その手をつかんでいた。

 あの日の桜の花弁を求めて、あの日の温もりを求めて、侘助は手を伸ばした。
 その手が、誰かに掴まれた。
 父上? 母上? いや、違う。

「……火藍」
 侘助の唇はその名を求めて、そして、与えられた。
 火藍は侘助を抱きしめていたのだった。
 理由は、ない。ほとんど反射的な行動だった。
 しかし侘助を両腕で包みながら、火藍は充足感を得ていた。
 これでいい。

「……」
 開いた扉から首だけのぞかせ、芥 未実(あくた・みみ)は動きを止めた。
 火藍が侘助を抱き締めている――それは以前、たまに見かけた光景だった。
 とはいっても、恋人ができてから侘助の泣く回数は減り、笑顔が増えた。以来、このような光景は展開されていない。
(「………はずだったんだけどねぇ」)
 侘助の顔は火藍に隠れて見えない。けれど、火藍の表情は未実にもちらりと見えた。
 優しそうに、笑っている。
(「これまでは、辛そうな顔で抱き締めていたのに……」)
 未実は未実なりの結論を出した。
 そうか、昇華できたのか、と。
 侘助はきっともう、悪い夢は見ない。だからこれは、これまでとは違う。もっと望ましいものに違いない。
 そこで未実は空咳した。
「二人とも、今日は空大まで懇親会に行くんだろう?」
 するとどうだ。互いの体温を確かめ合うようだった侘助と火藍が、磁石の同極同士のようにぱっと離れたのである。
「夜桜見学になっても構わないけどねぇ、女を待たせたらいけないよ」
 未実は苦笑した。