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あなたが綴る物語

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●現代ヨーロッパ 3

 自動車大国フランス、特にパリの渋滞はもはや名物と言ってもいいほどすさまじい。
「降りて歩こう。ここからならそっちの方が早い」
 もう何十分も前からこの状態で、2ブロックも進んでいないことに業を煮やし、少し焦れた声で不束 奏戯(ふつつか・かなぎ)は提案した。
「え? でもオルフェは場所をよく知らないのです」
「俺様は知ってる。
 運転手、俺たちここで降りるよ。精算して」
 クレジットカードでコンコンと窓をたたく。
「すみませんねえ、お客さん」
 もう慣れたやりとりか、運転手は言葉ほども申し訳なく思っている様子も見せず、さっさとタイマーを止めて精算した。
「さあ出よう、オルフェちゃん」
 夕方の5時半。まだ日は落ち切っていないが、ビルにさえぎられて歩道はすっかりかげっている。ヒーターの効いたタクシーの暖かさに慣れた肌には刺すような冷たさだ。オルフェリアはフェイクファーのついたコートの前を掻き合わせて、奏戯に続いてタクシーを降りた。
 きょろきょろと辺りを見回す。なにしろオルフェリアはセルマのマンションを知らない。招待状に地図は添付されていたがこの界隈に来たことは数えるほどしかなく、ここがどこで、どう行くのか見当もつかなかった。
「オルフェちゃんの足なら20分くらいだと思う。きっと間に合うよ。まあ、間に合わなくても文句言うやつじゃないけどさ」
 オルフェリアの表情から不安を読み取った奏戯は、安心させるように笑顔を見せると率先して歩き出した。ドレスアップし、ヒールを履いたオルフェリアに合わせて速度を落としたり、さりげなく路地からかばうように彼女との間に立ったりしている。オルフェリアは安心して彼の横を歩いた。
「にしても、次から次へと。セルマのやつはすごいなあ」
「すごいの?」
「うん。だってついこの間学園を卒業して就職したと思ったらもう会社興して。しかも全部父親の力なしだろ? ちょっと真似できないよね。俺様だったら絶対父さんのコネ使ってるよ」ははっと笑う。「あのマンション購入するときだって、こういった接待パーティーは頭に入れてたと思うし。今思うと、きっと学園にいたころから計画してたんだろうなあ」
 オルフェリアは少年だったセルマしか知らない。奏戯と3人、父親の代から幼なじみの間柄だが、別々の高校へ進学を転機にほとんど連絡を取らなくなってしまった。というより、ほぼ音信不通だったというのが正しいだろう。セルマの学校は全寮制で、はじめのうちはメールを送ったり、電話で話したりしていたが、どうしても身近な友達や学校のイベントを優先せざるを得ない日々が続くようになり、いつの間にか連絡が途絶えてしまった。
 だから今回パーティーの招待状が届いたとき、正直なところ出席するかどうか迷った。会いたくないわけではない。むしろ正反対だ。彼が今ごろどうしているのか、気にならないときはなかった。ただ、自分なんかが出席してもいいかどうか、不安だったのだ。あれから5年近く経つ。もし昔の彼とは違うセルマになっていたら、どう接すればいいかも分からない。奏戯も行くと言うから思い切って出席することにしたけれど、まだ半分不安だった。
 だが奏戯は違ったようだ。彼も別の学校へ進学したはずなのに、この口ぶりだとセルマとはずっと連絡をとり続けていたらしい。男女では違うと言われればそれまでだけれど。
「見えた。ほら、オルフェちゃん、セルマのマンションだよ。間に合ったね」
 こくっとうなずき、オルフェリアは歩く速度を速める。
「……こりゃ2人がゴールインするのも間近かなぁ」
 いかにもセルマのことしか頭にない、という様子のオルフェリアに、奏戯がさびしげなため息を小さくついたときだった。
 オルフェリアが下げているパーティーバッグから音楽が漏れ聞こえてきた。
「セルマかな?」
「違うのです」
 追いついた奏戯の前、取り出した携帯を耳にあてる。
「はい。オルフェです。――ええっ?」
 それは、会社で父親が倒れたことを知らせる秘書からの電話だった。



 あかりの落ちたうす暗い病院の通路をセルマは小走りに歩いていた。本当は走って一刻も早く駆けつけたいのだが病院という場を考えると自重せざるを得なくてもどかしい。
 奏戯から教わった病室へ急ぐと、ドアの前にオルフェリアがいた。
「オルフェさん!」
 声をかけたあと、彼女の向こう側にだれかいることに気付く。奏戯ではない。背格好は似ていたが髪は黒だし、細身の彼と違ってもう少しがっしりした体格をしている。白衣を着ていることからして、救急で運び込まれた父親を担当した医師だろう。
 医師はセルマが来たのを潮に「では」と会釈をして反対側から去って行った。
 オルフェリアがセルマの方を向く。緊張し、青ざめていた暗い表情が彼を見止めた瞬間揺らいで、すがりついてきそうな泣き顔になる。
「セルマさん…」
 しかしそれはほんの数瞬だけだった。
 はっと何かに気付いたように彼に向けて伸ばしかけた手を止め、引き戻す。その一瞬で彼女の心が自分から離れ、一歩退いたのをセルマも感じて、数歩手前で足を止めた。
「あの……せっかく招待していただいてたのに、直前でキャンセルして、ごめんなさいなのです」
「ううん。そんなことどうでもいいよ。それより、お父さんの具合はどう?」
 まるで他人に接するようなオルフェリアの態度にとまどいつつも訊き返す。
 返答したのは奏戯だった。
「過労だよ」
 病室のドアが開いて奏戯が出てくる。そしてオルフェリアの元へ近付いた。
「お父さんが眠る前に少し話せた。まだ声は出せないみたいだけど、ほっとしている様子だったよ」
「そう、ですか…」
「もう大丈夫。俺様に任せて」
 目を伏せるオルフェリアを胸に抱き寄せ、よりかからせる。
「オルフェさん……奏戯?」
 意味が分からない。
 2人の親密そうな姿に少し混乱しているセルマに向かい、奏戯は言った。
「セルマ、多分すぐ知れると思うから俺様の口から知らせておくけど。俺様とオルフェちゃん、近々結婚することになった」




『いつかきっと結婚しようね、オルフェちゃん』
『はい。オルフェはずっとずっと、セルマさんを待ってます。オルフェのだんなさまはセルマさんだけなのです』

 それは幼いころにかわした約束だった。
 あれから十数年経た今となっては約束と言ってもいいものかどうかかなり疑わしいやりとりだ。第三者が聞けば、まず時効と言うだろう。だがセルマはいつか自分とオルフェリアは結ばれるのだと信じて疑わなかった。ずっとそのつもりでいたし、オルフェリアもそうだとばかり思っていた。
(でも、違ったということか…)
 5年。セルマは自分のたてた計画に従い、ひたすら邁進してきた。某企業の社長である父の力は一切借りず、自分の力だけで会社を興し、売り込みをかけ、大口契約をとってようやく軌道に乗せられそうだとの見込みがつくまでになった。そんなセルマにとり、5年はあっという短さだったけれど、オルフェリアや奏戯にとってはそうでなかったということか。
「奏戯も奏戯だ。オルフェさんとのこと、今まで何も言ってなかったじゃないか。昨日だって、俺が何をしようとしていたか知っていたくせに…」
 セルマは机の引き出しに放り込んだ指輪を思った。昨日、再会したオルフェリアにプロポーズしようと思って用意してあった物だ。まだ見込みがついただけで盤石とは言い難かったけれど、それでも一定のめどはついたから……それに、招待していたクライアントたちに婚約者として紹介したかった。
 今となってはただのひとりよがりな妄想だ。今はまだ見る気も起きないけど、そのうち宝石店へ戻しに行こう。
「セルマさん、さっきから手がお留守ですよ」
 ため息を聞きつけた隣席の部下が、パーティションパネルの上からひょいと顔を出した。
「1時間前と同じ画面じゃないですか。それ、午後のプレゼン用の資料でしょ? 間に合うんですか?」
「あ、ごめん」
 あわててキーボードに手を乗せるが、やっぱり集中できなかった。どうしても意識が昨夜のことに向いてしまう。
 奏戯の結婚宣言にうなずいたオルフェリアが少しも幸せそうに見えなかったのは父親のせいだけ? 奏戯が今までそれらしい素振りを見せていなかったように思うのは、俺が見ていなかっただけなのか?
(――だめだ。頭のなかがグチャグチャだ)
「あっ、セルマさん!?」
「悪い。午後はおまえたちだけで行ってくれ」
 上着を手に、セルマは事務所を飛び出した。



 セルマが向かったのはオルフェリアの父が入院している病院だった。昨夜は眠っているということで――それにショックな話を聞いたこともあって――結局会わずじまいだったのだ。オルフェリアとのことがどうあれ、家族ぐるみの付き合いをしていた相手が入院したのであれば、一度は見舞うのが筋というものだろう。
 昨夜と違って昼間の病院は人であふれかえっていた。看護師や患者の行きかう廊下を歩いて病室へ向かっていると、曲がり角でぶつかりそうになった。
「あ、すみません」
「いえ。こちらこそ」
 少し早口な英語なまりの仏語で答えた彼をセルマは知っていた。昨夜オルフェリアと話していたあの医師だ。胸には「研修医 涼介・フォレスト(りょうすけ・ふぉれすと)」とのプレートが止められている。
「あなたは」
「うん?」
 と、涼介はセルマの横をすり抜けようとした足を止めた。
「アリス氏の担当医、ですよね?」
「正確には違いますが、チームの1人ではあります」涼介もセルマのことを覚えていた。「お見舞いですか?」
「はい。昨夜は会えなかったので」
「そうですか。アリス氏なら回診が終わったばかりですから、目を覚ましておられると思いますよ」
 では、と去ろうとした彼をまたもセルマが呼び止める。
「あの……アリス氏は、本当に過労なのでしょうか?」
「と言いますと?」
「そのう……どこか悪くて、そこに無理がかかった結果なのかと」
「ああ。まあたしかにあのお歳ですから多少体にがたがくるのは仕方のないことでしょうね。でも今回は単純に精神的な疲労からくる失神のようです。ですが先ほどの問診で、昨夜ようやく心のつかえがとれたと笑顔になっていましたから、すぐ回復されるでしょう」
「そうですか…。ありがとうございます」
「いいえ」
 にこやかに笑って涼介は去って行った。
 セルマは考え込む。
 勘ぐりすぎかもしれない。単に娘の結婚話を聞いて喜んでいるだけなのかも。
 でも。
「ここで推測ばかりしているより、聞く方が早い」
 うん、とうなずき、セルマは病室へ向かって再び歩き出した。



 夜。オルフェリアを訪ねてセルマがやってきた。
「どうしましょう? お嬢さま」
 オルフェリアは逡巡した。ここに奏戯がいてくれたらとの弱気がよぎる。だが遅かれ早かれ彼とは一度話さなくてはならないとはオルフェリアも思っていたことだった。
 自分のなかのけじめをつけるためにも。
「すぐ行きますから、客間にお通ししてくださいなのです」
「分かりました」
 一礼してメイドが出て行き、1人になったオルフェリアは大きく深呼吸をする。覚悟を決めて客間へ入ったオルフェリアだったが、ソファに腰かけもせず立っているセルマをひと目見た瞬間、彼の放っている怒りの波動に言葉も出ないほど気圧されてしまった。
「オルフェさん。こんな時間に押しかけてすまない」
「……お、怒っているのです…?」
「怒っているとも」
 口調は静かだった。表情も穏やかで理性的。それだけに、ただ怒鳴られるよりも恐ろしい。
 時として激しい怒りは氷の冷静さを呼び起こすものだから。
「あ、あの、オルフェと奏戯はですね――」
 しどろもどろになりながらも、昨夜数時間かけて奏戯と2人で練ったなりそめを話そうとする。しかし最後まで聞こうともせず、セルマは一蹴した。
「嘘はいい。きみたちが何を考えたか、ほぼ把握している」
「そんな…っ。う、嘘では……オルフェは――」
「お父さんに会ってきた」
 びくりと目に見えてオルフェリアの肩がはねた。そんな彼女の姿に、少しだけセルマの溜飲が下がる。だがあくまでほんの少しだ。彼女たちのついた嘘に踊らされ、どれだけ自分が絶望したか……目の前が真っ暗になって、この先の人生に何の意味も感じられなくなった、あの永遠とも思える時間を思うと腹立たしくてならなかった。自分が真実を探りあてなければ、それは今も続いていたのだ。
「お父さんの会社については心配いらないよ。俺が何とかする。奏戯と結婚する必要はない」
「そんな!」
 衝撃にオルフェリアは青ざめた。それだけは避けたかったのに。
 父親が倒れて、初めて会社が倒産寸前の瀬戸際にあることをオルフェリアは知った。今月中に何とかしなければ、資産の一切を失い負債だけが残る。優しい父親は娘のオルフェリアに知られまいとし、また従業員たちのためにもどうにか会社を存続させようと、その心労の末に倒れてしまったのだった。
 病室で秘書からそれを聞いて、オルフェリアは自分を責めた。父とともに暮らしながら、自分は一体父の何を見ていたのか。
「もう打つ手はありません…。来月になれば不渡りが出ます。そうなれば一斉に銀行が確保に動きだすでしょう」
 自分だけなら何とでもなる。屋敷を失うことも耐えられる。けれど大勢の従業員はどうなるのか? 不況で就職難のなか放り出されて、彼らの家族は?
 八方ふさがりに思えたなか、奏戯が結婚を提案した。そうすれば父親に疑われることなく奏戯が自分の資産を使って会社を助けることができるから、と。
「おじさんってば昔かたぎな人だからただ支援するって言ったって受け取らないだろうけど、娘の夫ならおじさんだってビジネスパートナーとして受け入れるのもやぶさかじゃないだろうし。面目保てるよね」
 実際フランスでも有数の資産家の不束家とつながったとなれば、それだけで大半の銀行はてのひらを返すだろう。
「ビジネス婚っていうの? これ、セルマには内緒にしとこうね。あいつ、このこと知ったら自分が何とかするって言いかねないから。起業して間がないのに、これ以上借金背負うとそれこそあいつもおじさんみたいになりかねないよ」
 本当の夫婦になるの、強要するつもりないし、と奏戯は言ったが、それでは奏戯が貧乏くじを引きすぎる。オルフェリアは彼の本当の妻になる決意をした。それが自分にできる唯一のことだと。
 そして思ったとおり、真実を知ったセルマはオルフェリアの父親の借金まで背負いこもうとしている。
 オルフェリアのなかでベッドで死人のようになって眠る父親とセルマの姿が重なった。
「た、奏戯と結婚するのは……父のためじゃないのです…。オルフェは……奏戯を…」
「俺を見て、オルフェさん。顔をあげて、俺と目を合わせて、それで言って。奏戯を愛しているから結婚するんだって。……まあ、もしそれをしても、俺は信じないけど」
「えっ?」
「約束したよね、いつかきっと結婚しようって。俺の気持ちは変わってないよ。俺はオルフェさんの夫になりたい。オルフェさんは?」
「だ、だめです! そんなこと……セルマさんが…っ」
「俺は大丈夫。だから聞かせて。オルフェさんは?」
 ずっとこぶしにして震えている彼女の手をとり、なだめるように口元へあてがう。
 セルマに触れられて。求められて。オルフェリアのなかで、彼への愛情が一気にふくらんだ。
 一度は押し殺した。でももう無理。
「……セルマさんの、妻になりたいのです…」
「結婚しよう」
 抱き寄せられた優しい腕のなかで、オルフェリアは涙をこぼした。



 晴天の冬のある日。2人は教会で式を挙げた。
 お互いの家族と親しい友人数十名だけが出席する、オーソドックスなものだ。派手さはないが、足りないものは何ひとつない。もちろん奏戯も出席している。
 青空の下でにぎわう披露宴のさなか、奏戯はそっとセルマを連れ出して、セルマが会社やマンションなど一切を担保にして作った借金を全部自分が肩代わりしてきたことを告げた。
「俺様からの結婚祝いだよ」
「おまえ!」
「おっと。怒る前に最後まで聞いて。言っとくけど、チャラにしたわけじゃないよ。返済相手が俺様になっただけ。何年かかってもいいから返してね。利子はつけないであげるから」
 ポケットに手を突っ込み、奏戯はただしとつなげる。
「ただし、オルフェちゃんを不幸にしたらこの限りじゃないよ。そのときは全力でおまえとおまえの会社をつぶしにかかってやるからな」
「奏戯…」
「約束する?」
「……ああ。約束する」
「そっか。うん。ならいいや。
 じゃあ俺様女の子たちと約束があるからこれで失礼するけど……幸せにね」
 手を振って歩き出して……芝生の端まできて振り返ると、セルマは見えなくなった彼を捜しに来たオルフェリアと何かを話していた。
 ウエディングドレスに身を包んだオルフェリアのセルマに向ける笑顔はきらきらと輝いている。
「……幸せにね、オルフェちゃん」
 つぶやき、奏戯は今度こそこの場をあとにした。