百合園女学院へ

薔薇の学舎

校長室

波羅蜜多実業高等学校へ

ようこそ! リンド・ユング・フートへ

リアクション公開中!

ようこそ! リンド・ユング・フートへ

リアクション


第5章 ロミオの絶望、ジュリエットの嘆き

 ヴェローナの大通りで起きた出来事は、あっという間に町中に伝わった。
 ティボルトの死によるロミオ・モンタギューの追放。それを不釣合いと怒る者もいれば、公平であるとささやく者もいる。だがだれも、公衆の場で声高に反論を口にする者はいなかった。ヴェローナの町で有力者とされるロミオの父母でさえも、大公に面と向かって異を唱えることはできなかったのだから、それも当然だろう。
 「二度と会えないわけではない。われらが会いに行けばいいのだ」嘆く妻を、モンタギューはそう言って慰めた。そしていつか、時を見計らって大公をとりなし、追放を解いてもらえばいいのだから、と…。


「って、あれ? なーんもないの? エピ」
 神妙な顔で黙り込んでいるエピに、シヅルが訊く。
「どういう意味? 何かミーに突っ込んでほしいの?」
「いや、うん……これでいいのかな? と思っちゃってさ」
「それはだれにも分からないよ。ミーにも、シヅルにも、ガンバってるリストレイターたちにもね!」
「ふーん。じゃあいくよ」
 ぱちん。シヅルが指を鳴らす。
 ぽつんと遠くで小さな明かりがともった。
 明かりの中央には黒髪の少女。何事かを叫び、枕を掴み、叩き、投げ捨てている。
 やがて明かりは光となり、世界となった。



 愛するいとこの死とロミオの追放。ジュリエットにとってこの世の終わりに等しい、悲しい知らせだった。今朝、彼女は愛する男と結婚し、この世で一番の幸せを掴んだかに思えたのに、半日を経て、いまや離婚が決定したように思えた。
 死が2人を隔てたわけではない。しかし、ヴェローナの町より一歩も出ることがかなわぬ身では、いつか愛する夫に会える日が来るとは到底思えなかった。
「ああ、ああ…! なんていうことを! どうしてこんなことに!」
「泣かないで、ジュリエット、ねえお願い…」
 すっかり混乱し、泣きながら手に触れる物であれば手当たり次第壁に投げつけていたジュリエットが、ぱっと両手で顔を覆う。肩を震わせ、わあわあと泣く彼女を、和葉は夢中で抱き締めた。
「泣かないで。そんなに泣くと体に悪いよ。病気になっちゃう。
 ボクがそばにいるよ。ボクはずっとキミのそばにいるから、だから…」
「和葉、わたしどうしたらいいの? こんなことになるなんて!」
 この知らせを聞いたとき、彼女は無性に腹が立った。すべてをだいなしにしたロミオの浅はかさが憎くて憎くてたまらなかった。ティボルトはたしかに乱暴で短気なところがあった。モンタギューをこの世界最大の敵、悪魔の申し子のように嫌っていたのも知っている。だが今までそれをうまくかわしてこれたのではなかったのか? なぜ今になってこんな騒動を起こしてしまったのか?
「ねぇ、ジュリエット」
 そっと両手をはずさせ、その手に順々にキスをして、和葉は優しくささやく。
「……ねぇ。ボクじゃ、ジュリエットの王子様になれないかな?」
「はい、アウト」
 ぽかり。後ろから緋翠のげんこつが落ちた。
「和葉。女性に優しくするのは一向に構いませんが、手を出すのはNGです。ここがどこか忘れていませんか?」
 むーーーっとにらんでくる和葉にそれだけ言って、緋翠はソファに戻る。
「和葉、わたしどうしたらいい?」
 ジュリエットは泣くのはやめたものの、ひっくひっくとしゃくりあげながら和葉の肩に額を押しつけた。
「朝になったらロミオさまと2人でお父様たちに結婚のご報告をする予定だったのに。わたし1人でなんて、そんな勇気はないわ」
「じゃあ言わなきゃいいよ。だれも知らないんだから」
 結婚自体、まだ成立してないんだし。
 しかしジュリエットはいやいやと首を振り、和葉にしがみついた。
「駄目よ。だって……だって、お父様はパリスとの結婚をお望みなんだもの!」



 そして一方、羽純たちによって運び込まれた安宿の一室で、ロミオは自身の追放の宣告が出たことを知った。
「そうか…」
 ロレンスからの使いの言葉に、ロミオが言ったのはただそのひと言のみだった。
 治療までが長すぎたためか、傷は治っても意識をとり戻さないマキューシオの枕元に椅子を置き、無言で頭を垂れている。
「ロミオ、死罪じゃない。追放だ」
 悲痛な背中を見かねて、羽純が言う。
 ロミオは首を振った。
「死罪の方がまだマシだ。ヴェローナの外に世界はない」
「何を言う? 世界は広い。おまえが知らないだけだ」
「ぼくの世界はここだけ。ジュリエットの傍らにしか世界は存在しない。ここから追放されることは世界から追放されるに等しい。世界からの追放とは即ち死。ぼくは死を生きねばならない…」
 世界を夢見て地獄で生きる……それはただ死ぬよりも恐ろしい罰だ。
 鳥であれば、あのひとの手でなでられる日もあるだろう。花であったら、そのかぐわしき唇に触れてもらえたかもしれない。
 もはや鳥にすら許される至福が、自分には遠き夢なのだ。
「ばかな! 生きてさえいればなんとでもなる! 未来に望みが持てるのも、生きていればこそだ! だが死んだらそれこそ終わりじゃないか!」
 振り返ったロミオの土気色した頬、落ち窪み、暗く沈んだ一片の光もない闇の目が、羽純から言葉を奪った。
 生きながら死ぬとはこういうことなのか。ロミオの絶望はあまりに深く、光は彼の心に届いていなかった。
「……とにかく、俺は認めない。生きている限り、絶対に幸せになる方法はあるんだ。俺たちがそれを証明してやる!」
 羽純は宣言し、仲間たちと合流するべく部屋を出て行く。言葉よりも行動で示さなければ、ロミオは決して納得しないと思ったからだ。この話で一番の権力者である大公・グロリアーナがああいう手に出た以上、そのためにはリストレイターたちが結集する必要がある。
 だが悲観的なことしか考えられない今のロミオには、それすらも、羽純が自分を見捨てたのだとった。
 ベッドのマキューシオに向き直る。
「……マキューシオ…………ぼくがそばにいれば…。すまない…」
 そしてジュリエット。わずか数時間だけだった、ぼくの花嫁。
 ロミオは泣いた。
 


 その夜。
 キャピュレット家屋敷に忍び込む2つの影があった。赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)クコ・赤嶺(くこ・あかみね)である。彼らは和葉の手引きであらかじめ鍵のかかっていなかった窓をくぐり、教えられた部屋を目指して歩いていた。
 壁に設置されていたキャンドルは既に吹き消されており、あるのは月明かりのみだ。
「こっちで正しいの?」
「うん、多分」
 霜月は、来る前に頭に入れてきた、部屋までの地図を思い浮かべながら答える。だが似たような扉ばかりで、ちょっと数え間違えると分からなくなりそうだった。
「父親の説得ねぇ…。考えてみれば、私たちもそうだったわよね」
 クコは、まだ独身で、2人の結婚の意思表示に赤嶺家を訪れたときのことを思い出した。
 結婚を猛反対され、それを押し切って結婚したクコとしては、あんまり結婚に父親の反対は関係ないような気がする。身内から反対された結婚だったが、この結婚は間違っていなかったし、今彼女は幸せだからだ。
(でもたしかに、父親からは反対されるより祝福された方がいいわよね)
「いいですか? 自分たちは話し合いに来たんです。くれぐれも興奮して怒鳴ったりしないでくださいね。大事な体なんですから」
 霜月からの念押しに、おなかの子のことを思い出して、口元が緩んだ。
 ここは夢の世界なんだから、とは思うけれど、たしかに胎教というのはある。夢の出来事がどう体に影響するかしれないと、霜月はそれが心配なのだろう。
「そっか。こっち方面からの説得もあるわよね」
 孫というのは祖父母にとって、とても強い説得力がある。
 うん、それでいこう、とクコが頷いたとき。
 腕を組んで歩いていた霜月が、ぴたりと足を止めた。彼の緊張が、手を通してクコにも伝わってくる。

 キャピュレット夫婦の部屋の扉が、不自然に開いていた。



 そっと中を覗き込んだが、窓には重いカーテンが下りて、廊下からの月明かりだけではとても足りない。
 見えたのは倒れた女性の足と、光る2組の目。
「あら、見つかってしまいました」
 奥の方の目が、すっと細まる。
 あわてず騒がず、笑っているような声は、こういうことに慣れているのだとうかがわせた。
「問題ないよ。もう終わるから」
 もう1組の目が消えて――扉の方を振り返るのをやめて正面を向いた?――なにか、厚い肉のようなやわらかいものを殴打する音がする。続いてガツンと、固い床に何か――人の頭のようなものが打ちつけられた音。
 霜月はクコを背後に回し、闇に目を凝らした。
「おまえたち、そこで何をしている!?」
「そっちもしていることだよ。リストレーション」
 人を食ったような物言いをして、その影の主は肩を竦めて見せた気がした。
 霧雨 透乃(きりさめ・とうの)緋柱 陽子(ひばしら・ようこ)はこの世界へ来たときから、ジュリエットの父親殺害を狙っていた。理由はこれといってない。腹が立ったわけでも、それが正しい道のようだからでもない。
 ただ物語を引っ掻き回してややこしくしたかっただけだ。
 だから宴席で召使いとして入り込み、家の中の様子を探って修復状況を掴みつつ、一番いいタイミングを待っていたのだ。
 最後の最後で邪魔が入ってしまったけれど、事は完了した。あとは逃げるだけ。
「行くよ、陽子ちゃん」
「はい」
 透乃の合図で陽子が仕掛けた。
「うっ…」
 ヒプノシスを受け、霜月は膝をつく。霜月の名を呼ぶ暇もあればこそ、クコは強烈な睡魔に襲われ霜月にぶつかるように床へすべり落ちた。
 すぐ横をすり抜けた2人の足。ばたばたと遠ざかっていく足音は聞こえていたが、もう指一本動かせなかった…。



 ぱちん。シヅルが再び指を鳴らす。
 扉のそばで崩折れた2人を映した小さな明かりは消え、世界は再び暗闇に包まれた。
 何もない、真っ暗な世界。
 その中を、シヅルは1人、一歩一歩歩いていく。
 いや、1人ではない。彼の足元に当たっていたライトが、ほんの少しだけ、横に並んだ人々の靴先を捉える。
 リストレイターたちの靴先。

 シヅルは彼らの先頭に立ち、眼前に広がる闇に向け、両手を広げた。

 侵入した賊の手にかかり、キャピュレット夫人は死亡。夫の方はなんとか命はとりとめたものの、頭を強く打っており、意識不明の重態となった。
 そしてこれも、追放となったことを逆恨みしたロミオ・モンタギューの仕業ではないかとのうわさが、まことしやかにヴェローナの町を駆け巡った。
 それが真実か偽りか、断言できる者はいない。なにしろ犯人は捕まらず、目撃者もいないのだから。ロミオ自身、マンチュアへ去ったこともあり、だれもそのうわさを否定する者は現れなかった。
 そして――――


「――ジュリエット……かわいい娘…。わたしが生きているうちに、どうか、おまえの花嫁姿を見せてほしい…。パリス伯爵の結婚の申込みを承知してはくれないか…」
 ようやく意識を取り戻した父親からの言葉に、ジュリエットは小さく頷いたのだった。