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【カナン再生記】擾乱のトリーズン(第3回/全3回)

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【カナン再生記】擾乱のトリーズン(第3回/全3回)
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■第37章 エリヤ

 部屋を抜け出した救出部隊の面々は、直会殿を抜け拝殿に戻ってきていた。
 はじめのうちこそ周囲に目を配り、見咎められはしないかと気を揉む者も何人かいたが、今ではそんなものはうっちゃって、人目も気にせず走っている。
 なにしろ、すれ違うだれもかれもが走っているのだ。彼らが拝殿を走っていたからと、だれが不審に思うだろう。
 断続的に起こる爆発音は、今では遠ざかっていた。拝殿の正面入り口を避けて、どうやら御饌殿の方に移動しているようだ。その配慮といい、やっぱりだれかが陽動として動いているに違いなかった。
「そこの通路を右へ」
 セテカの指示に従い、角を曲がる。
 直後、ズシンという重い振動が響いてきて、天井から漆喰みたいなカケラがポロポロ降ってきた。
「ほんとに大丈夫かしら?」
 椿が上に視線を走らせた。真っ暗な天井部は、何も見えない。壁近くで飾りらしい暗い影が見えるだけだ。
「ここ、古そうだし」
 と、視線を横に流して、孝明が何か考え込んでいることに気がついた。
「どうかしたの?」
 こそっと訊く。
「――いや。ちょっと気にかかることがあって」
 ここ数日、ずっと心にひっかかっていた奇妙な違和感。
 セテカはなぜ、バァルと会わなかったのだろう? 彼に民意を伝えるのが反乱の主意だと再三言っていたのに。
「孝明?」
「……バァルを説得できるとすれば、それはセテカだけだ。彼もそれを知っていた」
「え? そうね。バァルはわたしたちにいい印象を持ってなかったから」
 孝明が何を言おうとしているのか、不明ながらも椿は同意する。
「バァルと会話しないことでセテカは何を避けた?」
 自分たちに聞かれてはまずいこと。
 そして自分たちにはバァルと会話してもいいと言ったということは、バァルは決して自分たちに話さないと確信していることだ。
 その上で、捕虜としながら部屋に鍵もかけず、彼の剣も置いてきた。ほとんどの者が救出・陽動に出て、あの館は、かなりの手薄状態で――――
「――バァルを、脱走させたかった?」
 なぜ?
「ええっ? だってそんなことしたらわたしたちがここに向かったの、バレちゃうじゃない。バァルさんはネルガル側なんだから、ネルガルに報告されたりしたら作戦は失敗しちゃうし、それこそ彼自身の命だって危なくなるのよ?」
「だけどそれ以外に何がある? ――くそ。俺たちはなんだかやばいことに手を貸してるんじゃないか? これは本当に正しい行動なのか?」
 もし、バァルの方が正しいのだとしたら。
 エリヤを助けだしてほしくないという、バァルの方にこそ、自分たちはつくべきじゃなかったのか?
「でも人質としてエリヤが石化されてるのは本当だし、人質をとられている限り東カナンがネルガルに逆らえないのも本当でしょ。バァルやセテカの考えはともかく、子どもが石化されているなんて絶対正しいことじゃないもん。救助しなくちゃ」
「じゃあどうして俺たちに隠し事をするんだ? 知られたらやばいことが……俺たちが反対して、彼の意見に従わないかもしれないって考えたからだろ」
 そうだ。そういうことだ。
 違和感の正体。
 セテカは俺たちを操っている。情報をコントロールし、わざと与えないことで従わせている。
「でも…」
「ああ、椿の言う通りだ。エリヤの石化も人質も、間違ってはいない。救助しないと東カナンは隷従したままだ。救助する必要がある。だが気に入らないな。あとで真実を知るのは好きじゃない……特に、取り返しがつかなくなってからなんかに」
「うーん…。とりあえず、エリヤの石化を解くのは確かみたいだから、そこまでは従って、そこから先は両方に気をつけるってどう? いざとなったらルカルカさんのヒプノシスで眠ってもらうとか、あたしのカタクリズムで動きを止めるとか、これだけ人数がいたら、やりようはいくらもあるんだし」
「そうだな…」
 セテカがそれを考慮していないとはとても思えない。あとのまつりでなければいいが。
「…………」
 後ろを走る2人を、トライブはそっと振り返った。
 こそこそと、互いにだけ聞こえる声で会話しているつもりなのだろう。2人はトライブが聞き耳を立てていたことに気づいた様子はなかった。
 ぎゅっとこぶしをつくる。
(いいのか……本当に? これが、正しい方法だって?)
 ずっと逡巡してきた。
 ここはカナン、自分はシャンバラに属しており、彼らは当事者だが自分はよそ者。
 手助けする以外、見届ける以外、自分たちに何ができる? 彼らはもう、決めてしまっているというのに。
 ……だけど!!
「そこを曲がればつきあたりの部屋が貴婦人の間だ」
 冷静なセテカの指示が出る。
 なぜそんなにも無情でいられるのか。ここにいるだれよりもエリヤを知る彼が……エリヤを弟のように思っていると言った彼が。
 エリヤを死なせようとしている。

「――やっぱり駄目だ!」

 トライブが、扉の前に立ちふさがった。
「トライブ?」
「どうしたっていうんだ、おまえ」
 みんなが不思議がる中、トライブは、レンを押しのけ前に出てきたセテカと互いを見合った。
 セテカはこうなることを予想していたように無表情だ。対照的に、トライブは必死だった。
 これには、エリヤの命がかかっている。
「セテカ、お願いだ! 俺たちにチャンスをくれ! きっと助けてみせるから!!」
「――言ったはずだ。このほかに道はないと」
 答えるセテカの声は厳しく、これまで一度も聞いたことがないほど冷淡だった。
 まさか彼にこんな一面があるとはと、周囲を囲った全員が軽く目を瞠る。
 だが考えてみれば、彼は領主の側近として政に加わる身であり、東カナン軍の上に立って指揮する人間なのだ。優しさばかりでこなせる職責ではない。
「そこをどけ。おまえの方法では東カナンも、バァルも、自由になれない。北カナンがシャンバラになるだけだ」
「そんなこと…」
 ない、とは言い切れなかった。これは政治的判断だ。シャンバラもまた、戦争が激化している。今後、シャンバラとカナンの間で懸隔が起きた場合、東カナン領主の溺愛する弟という立場をだれも利用しないとは言い切れない。
 一学生のトライブに、絶対そうならないと保証する権限はなかった。
 だけど。
「もし……もしそうなったら、俺が全力で止める! きっとあんたたちを助けてみせる! だから――」
 セテカのこぶしがトライブの腹に入った。
「セテカさん!?」
 有無を言わせない暴力に、だれもがあっと声を上げる。
「入るぞ。エリヤはこの中だ」
 気を失ったトライブを担ぎ上げたセテカが振り返ったとき、何人かが、彼に武器を向けていた。
 そのだれもが、信じられないという顔をしている。
「セテカさん、どうしてこんなことを…」
 困惑気味に佑一が言う。
「何か俺たちに隠しているんだろう? 俺たちに知られたら困ることを」孝明が詰め寄った。「言えよ、セテカ。一体何の目的で俺たちを利用した?」
「利用だって?」
 不穏な言葉に、途端ざわめきが起きる。
 いつかこうなることは、セテカにも分かっていた。さすがにこのタイミングでとは思わなかったが、予想外とまではいかない。
 セテカは彼らの中で驚きが静まり、再び自分に注目が集まるのを待って、答えた。
「エリヤを救うためだ。そう言ったはずだ。俺は、このことに関してうそは言わない」
「そうだよ、みんな」
 たたっと後ろから走り寄ってきたイナンナが、セテカの横についた。
 気絶したトライブを見、セテカを不信の目で見つめる彼らを見、状況を理解したイナンナは、いたわるようにセテカの手を握る。
 自分はセテカの味方だと、公言するように。そして彼らを見渡した。
「あたしたちはエリヤを救いに来たんだ。それは真実だよ、みんな。信じて」
「イナンナ、足はやーい……って、ちょっとちょっと。一体どうしたの? これ」
 遅れて追いついたルカルカが、場の緊迫した空気を敏感に感じ取って、少し手前で足を止めた。
 トライブ失神してるし、なんだか空気重いし、武器抜いてる人たちいるし。
 説明を求めてダリルを見たが、ダリルは肩をすくめて見せるだけだ。彼も理解できていないのだから仕方がない。
(えーと…。なんか、よく分かんないけど)
「と、とりあえず、中に入ったらどうかしら? ここで固まってるの見つかったら、説明面倒だと思うんだけどー」
 と、貴婦人の間を指差す。
「開いておりますわ、皆さま。どうぞお入りになって」
 ルカルカに応じるように、つかさが内側から呼びかけた。



 トラッパーで広間中に張り巡らせた罠により、全員が部屋に入ったのを感知したつかさは、声の限りにイナンナがエリュシオンと戦い、破れ、無残にカナンが滅ぶ描写をした悲しみの歌を歌った。
 いたる所で惨殺される人々。川は血に染まり、死体で埋め尽くされる。たとえ生き残ったとしても、故郷を焼かれ、難民となり、餓死するしかない。あるいは、モンスターに食い殺されるか。いずれにしても末路は悲惨だ。エリュシオンは苛烈で、容赦なくその強大な力でカナンを蹂躙し、その足下に踏み潰していく。
「……くそ…」
 耳をふさぐが、これは歌の姿を借りたつかさの力だ。そんなもので防げるようなやわなものではない。
 彼女はさらにその身を蝕む妄執を放った。
 エリュシオンによる攻撃とカナンの未来を悲しみの歌で描写されている今なら、相乗効果でおそらくその光景が幻覚となって見えて彼らを苦しめるはず、という目論見だった。
 彼らが見ているのがどんな幻覚かはともかく、全員がその場にひざまずき、苦しげに身をよじらせる。そこでようやく、つかさは重なり合った石像の影から姿を現した。
「この漆黒の神殿に侵入してきた愚かな皆さま、その風景の意味が分かりますか?
 このカナンはネルガル様に治められることで平和を維持できているのです。あなたたちがしようとしていることは、その平和を脅かすことにしかなりません。分かったのであれば、即刻この地より立ち去りなさい!」
 恐れの歌でさらに威嚇しようと息つぎをした瞬間を狙って、イナンナがバニッシュを放った。
「きゃあっ」
 すぐ真上を走り抜けたバニッシュに驚き、横向きに倒れるつかさ。
「女神様、今のは…」
「――うん。なんか今、一瞬だけど強い力が戻ったの。セフィロトがほんの少しあたしに近づいた感じ。……もう遠ざかっちゃったけど」
 バニッシュを放った手を見つめるイナンナ。幻のようなセフィロトの気配を、ほんのわずかでもそこにとどめたくて、きゅっと握り締める。
 そうする間にも、みんなは床のつかさを取り囲んでいた。
「たとえ拷問されたとしても、決して……決してあなたたちにイナンナ様の像を渡したりはしませんから!!」
 虚勢を張るつかさの前に、イナンナが進み出た。
「守るのはあたしの像だけ? ほかの像、たとえばエリヤとかはいいの?」
「……人質は……この際、解放されても仕方ないでしょう。ですがイナンナ様の石像だけは絶対に渡すわけにはいきません!」
「そっか。じゃあいいんだね。あたしの像はここにないし」
 イナンナはつかさの後ろに立つレンに視線で合図を送った。それに応じて、レンはつかさの後頭部を殴って気絶させた。
「秋葉さん……連れ戻すべきかしら?」
 つかさを見下ろして、ふむ、と緋雨は考える。
 ネルガル側について敵対した以上、学校に送って処罰してもらわなければいけない気がした。
「どうやって? だれがこやつを運び出すんじゃ? しかもこいつまでおる」
 コンコン、とつかさの後ろの石像を叩いた。つかさのパートナーヴァレリー・ウェイン(う゛ぁれりー・うぇいん)だ。
「こんな重たい物担いで走るなど、わしはごめんじゃ」
「そっか」
「ここに放っておくがいいさ。もういい歳なんじゃから、そのうち自分の浅はかさ加減にも気がつくじゃろう」
 とり返しがつかなくなる前にそうなればよいが…。
 麻羅は床のつかさを一瞥し、背を向けた。彼女に対する同情心は、その程度で十分。今はそれよりも優先しなければいけないことがある。
 つかさの登場でうやむやになっていたが、セテカのことだ。彼が、自分たちを利用したという孝明の懸念……そしてセテカは、それを否定しなかった。
「セテカはどこじゃ?」
 麻羅の言葉に、ぐるっと全員が周囲を見回した。いつの間にかセテカの姿が消えている。
 あらためて見た広間は、まるで舞踏会か何か、パーティーのさなかに全員が一瞬で石化されてしまったような光景だった。一体ここの管理者は何を考えているのか。像が無秩序に置かれてあるせいで、死角だらけ。クラシックなドレス姿の女性の石像も数多くあるものだから、ますます視界をふさがれて、これではどこに身を潜められても気づけない。
「まさか…………逃げたとか…?」
 ぽそっと椿がつぶやく。
「セテカさん?」
「セテカさん、どこ!?」
「こっちだ」
 セテカに逃げ隠れする気はないらしい。佑一とミシェルの呼び声に応じる声が、奥の方からした。
 はたしてセテカは、ばたばたと自分のもとへ集まってくる彼らを待っていた。
 セテカの横にあるのは、天蓋付きの豪華なシングルベッド。そこには、すやすやと眠る姿で石化されている少年の像が横になっている。それがだれかはバァルを知る者には明々白々。おそらくバァルもまた、この年ごろにはこんなふうだったのだろうと見る者全員に思わせるほど、バァルによく似た顔立ちの少年だった。
 彼らがつかさの相手をしている間に、セテカはエリヤの像を見つけだしていたのだ。
(――え? でも、これ……この子、8歳って…。8歳にしては、小さすぎない?)
 まるで5歳児並だと、緋雨が真っ先に気づいた。
 他の者たちと違って、なぜか1人だけ、ベッドに寝た状態で石化されている少年…。
「セテカ、話を――」
 し、とセテカは唇に指を立てた。
「エリヤに何かするつもりだったら、きみたちが来るまで待ったりしない。
 今からエリヤを起こす。ただ、いきなり知らない顔に覗き込まれるとエリヤがおびえる。きみたちは視界の外にいてくれ」
 ルカルカが無言で差し出した石化解除薬の蓋を開け、中身をエリヤの体に落とす。
 薬はみるみる体表面を広がって、エリヤは石像から、生きて呼吸をする生身の人間へと戻った。
「エリヤ…」
 耳元でささやくセテカの優しい呼び声に応じるように、エリヤがぱちりと目を開く。
「セテ……カ…? あれ? 兄さんは…? 起こしにきて、くれるって……ゆうべ…」
 寝起きの少し嗄れた声。エリヤは眠そうに目をこする。
「――そうだったな。じゃあ俺たちでバァルを迎えに行こうか?」
「いいの? 部屋から出ても」
「今日は特別だ。出たくないのか?」
「行きたい」
 エリヤは枕の上で首を振った。
「じゃあ行こう」
「うん」
 抱き上げようとするセテカの首に巻きつけられた細い腕。
 寝巻きの袖が落ちて、骨と皮ばかりの、力ない腕があらわとなる。
(――ああ!!)
 緋雨はついに真実を悟って、口元を覆った。