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残暑の日の悪夢

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残暑の日の悪夢
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【悪夢の終わり】



 夢は、眠る時に見るものだ。
 それが例え悪夢であろうとも、いつか覚める時が来るものである。

 ――それが、どちらが悪夢か、わからないような時であっても。



 地下一階、一つ目の扉の中では、北都達が今も全力で走っている最中だった。
 巨大なゴキブリは重さがあるくせにその足は速く、更に通常サイズのゴキブリたちの立てる、カサカサという聞きたくないが耳に馴染みのあるあの音が、木々のざわめきよりも大きな音で後ろから迫って来るのである。幾ら走っても出口が見えず、分岐も無く、かといって詳しく違和感を探そうにも、振り返っている余裕すら無いのである。
「い、いつまで、は……走れば……っ」
 セレアナの足も、既に限界が近付いている。何しろ、今までずっと休みなし、補給なしで走り通しなのだ。それも見通しの悪い通路の中である。精神への圧迫が、体力を余計に削いでおり、それはタマにしろ北都にしろ同じことだ。
「ま、まだ追いかけてくるのであるか……!?」
 毛を逆立てながら走るタマの目が、もう涙目である。こちらの原因は、ゴキブリではなく、ぴょぴょんと飛び跳ねて迫ってくるまんじゅうだが。そんなタマが、歩幅の問題もあって最初に限界が訪れた。
「わ……我輩、もう、ダメである……」
 一歩、二歩と遅くなっていくタマが、遠ざかっていくのが判るが、振り返っている余裕が無い。
「まんじゅうが、まんじゅうがあああ……!!」
 叫び声が後ろから聞こえてきたのに、二人は南無、と辛うじて手を合わせた。
「あなたの犠牲は無駄にはしないわ……」
 セレアナは呟いたが、そんな彼女にも、限界はすぐ目の前まで迫っていたのだ。がくん、と膝に走った違和感に、セレアナの顔からざあっと血の気が引いた。
「ちょ、と……待って……」
 背中を駆け上がった絶望感に、セレアナが思わず声を漏らしたが、どうすることも出来ない。限界を迎えた足は、走れと命じる自身の本能に従えないほどの疲労が溜まって来ていたのだ。一歩ごと、その歩幅が落ちていく。その歩調が落ちていく。そして、ついに歩いているのと変わらないほどまで、その速度が落ちた。
「いや、や、助けて……助けてセレン……!!」
 叫んだが、無駄だった。力を失った膝が崩れ、手を突いた地面の上を、カサカサと言う音と共に黒光りする虫達が這っていく。いくらか通り過ぎているのは、北都を追いかけているせいだろう。だが、当然、床と壁を埋め尽くすほどのその大量の生命体は、波のようにセレアナの体に襲い掛かってきた。
「……っ、〜〜……ッ!」
 実害があるわけではない。噛み付くわけではないし、毒を出すわけでもない。だが、そんなことは問題ではないのだ。生理的な嫌悪感をもよおす対象の頂点にいると行っても過言ではないその黒光りする生命体は、手を這い、足を這い、皮膚の上を這いあがってセレアナの体を埋めていく。彼らにしてみれば、別に襲おうというのではなく、進行の為の通過点だったのかもしれないが、受け取る側はそうは行かない。走りながら、恐る恐る振り返った北都は、そのあまりにおぞましい光景に、表情の凍った北都のもう顔色は、青ざめるを通り越して真っ白だ。
(ぜ、絶対、捕まれない……っ)

 声を出すことも忘れて、額に汗をだらだと流しながら、体の限界に挑むように北都は命がけで走り続けたのだった。





 そして、セレアナが助けを求めて恋人の名前を呼んでいたのと同じ頃。三つめの扉の中では、自身の姿と向き合う者達の争いも、佳境を迎えようとしていた。


「流石私だな、しぶといこと、この上ない……!」
「それはこちらのセリフだ」
 二人のララの間で、ギャリンと金属の音が弾け、互いの槍が交錯する。技量は全く同じなのだ。フェイントをかけてみても、技の応酬をするにしても、相手の考えは手に取るようにわかる以上、後は体力切れを待つばかりだったが、それもお互い同じだけの体力があるのだから、決着のつきようが無い。二人のララはそれが楽しい、と言わんばかりに口元には笑みがある。だが、幻影のララのほうの笑みは気のせいか、どこか邪悪な色がうっすらと浮かんでいる。
「このまま、決着がつかなかったら、どうするつもりだ?」
 幻の言葉に、ララは小さく首を傾げた。
「……決着がつくまで、戦うだけだろう?」
 何を当然のことを、と言いたげなララの言葉に、幻は満足げに口の端を引き上げる。
「……そうだな。「どこまでも」戦おうじゃないか……」
 意味深に呟かれたその傍では、リリと、ゴージャス版のリリとがやはり対峙していた。
「ふん。ちんちくりんなくせに、なかなか粘るのだよ」
「ちんちくりん言うな。元々同じ体型だったはずなのだ!」
 言葉の応酬に混ざって、互いの呼び出した不滅騎士団が激突しあう音がする。体格、と呼ぶべきか体型、と呼ぶべきか、そちらには大きな開きがある二人だったが、実力的には当人と全く同じもののようだ。
「元が同じだろうが、結末が違えば、それは大きな違いなのだよ」
「その結末は、リリの結末でないと誰が言えるのだよ!?」
「諦めた方が身の為なのだよ。この姿はあくまで可能性のひとつであって、必ず訪れる未来ではないのだよ」
「必ず訪れるのだよ! 何故なら、今からその体をリリのものにするのだから!」
 死霊騎士団たちの激突が互角であるなら、口での戦いもまた互角の様相を呈していた。
 と言うより、こちらの方がなりふり構わないように思われるのは、決して気のせいではないだろう。
 

 その逆に、一方的に言葉に詰め寄られていたのは、ヒルダだ。
「いらっしゃい、人殺し」
 皮肉に笑う、5000年前の自らの亡霊に、ヒルダは後ずさりながら首を振った。
「仕方が、ないじゃない……戦争だったのよ」
 その笑う顔、血を流し傷ついた顔が迫ってくるのに、直視できずに視線を逸らしたヒルダの頬を、血に濡れた手の平がひたりと押し当てられた。
「ええ、戦争よ。やらなければ、やられる。その通りね」
 囁く言葉の一つ一つが、重く、冷たく、棘がある。
「だから、誰も責めないわよね。仲間も敵も、戦場にいた者はみんなそうよね……」
 聞きたくない、それでも耳を塞げない。そんなヒルダに畳み掛けるように、亡霊はささやき続けた。
「どれだけ残酷に、冷酷に、心臓に刃を突き立て、泣き叫ぶ喉を裂いても……全部、戦争だったから」
 くすくすと笑う亡霊は、その手の血を頬に塗りたくるようにして、撫で下ろして首に触れて目を細めた。
「だから、殺した。殺さなければならなかった。相手に家族があったかもしれなくても、帰りを待つ誰かがいたかもしれなくても、躊躇えば自分が死ぬから、甘さを持てば仲間を危険に晒すから……そんな名目で」
 小さく肩を震わせるヒルダに、亡霊は寧ろ優しげとすら言える声で、耳元にそっと「ねえヒルダ」と囁いた。
「何人殺したか覚えている?」
 覚えている、とヒルダは辛うじて口にした。忘れよう筈が無い、顔、名前、声。それらを数えて口にすると、亡霊は「違うわよ。一人足りないじゃない。」皮肉に笑った。
「……どういうこと……」
 ヒルダが掠れそうな声を漏らすと、亡霊は「え、本当にわからないの?」と大仰に驚いたような顔をした。そうして溜息を吐き出すと、血に濡れる両手でひたりと頬を包み込むと、べっとりとその血の匂いを擦りつけ、息の掛かりそうなほど間近に顔を近付けさせると、光を失った眼差しで、自身と全く同じ顔をその瞳に映しこんだ。
「いい? あんたが弱いからあたしは死んだのよ」
 死んだ自分の亡霊が、自分に恨みを吐きかける。自分自身の言葉だからこそ、それは鈍い刃になって、心臓をゆっくりと残酷に抉っていく。
「この人殺し」
 その一言に、ヒルダの意識は暗転した。



 そしてセレンフィリティもまた、ヒルダと同じように自らの過去によって、押しつぶされんばかりに追いつめられていた。
 消してしまいたい過去そのままの姿をした「彼女」は、その瞳にあからさまな侮蔑の感情を湛え、口元に嘲笑を滲ませながら、ねえ、と声色だけが優しげにセレンフィリティの耳元に、毒のように囁きかけてくる。
「どうしたの? 耳を塞いだって、見ないふりをしたって、過去が変わる訳じゃないのよ。事実が無かったことにはならないのよ。判ってるんでしょ?」
 そう言って、伸びてきた手がめいっぱい露出した肌の腕を、じっとりと撫でていく。セレンフィリティの背中に、ぞわぞわと悪寒が走ったが、体は硬直したように動けなくなっていた。
「綺麗な体よね。でもそれは見た目だけよね? 覚えてるんでしょう、思い出せるでしょう? この肌の上を幾度と無く這っていった手の感触……」
「止めて……っ!」
 じわじわと体ごと蝕むような醜悪な記憶に、セレンフィリティは思わず叫んだが、「彼女」は容赦なく続けた。
「忘れられるわけ無いわよね。『組織』で毎日のように、大勢の男達にいいようにされて……」
「止めてって、言ってるでしょ……!」
 悲痛に叫ぶ声に、涙が混じる。今更突きつけられなくても判っている。忘れられるはずのない記憶。首を振ってうずくまるセレンフィリティの背中をやさしく撫でる「彼女」の口元が、悪魔のような笑みに歪む。
「自分がどれほど汚れているか、どれほど腐っているか、判ってるんでしょう? そんなあなたが、誰かに愛してもらえる筈なんてないってことも」
 一言一言が、精神に釘を打つように、容赦なく心を抉っていく。反論も出来ず、耳を塞いだセレンフィリティだったが、声は止まらず、指の間をすり抜けて頭の中まで響いてきた。
「それとも、セレアナなら愛してくれると思っていた? 彼女に愛されていると、本当に思ってたの? 本当はセレアナだって……汚れたあなたに、辟易しているかもしれないのに」
「…………」
 ぽたぽたと涙がこぼれて止まらなかった。これ以上聞きたくないと首を振るのに、セレンフィリティ自身の声が、苛むように笑っていた。
「あなたに愛される資格なんて……無いのよ」



 そうして二人がその意識を失って行った一方、彼女らと同じように、自身を否定する自らの幻影と向き合うこととなっていたノートは、辛辣に吐きかけられる言葉の刃の数々を、思いの外冷静に聞いていた。
「大体、望と分かれて一人でほいほい扉をくぐってしまうあたり、考えが足りないと言うか……本当ヴァカキリーの名に相応しいですわ。ご自分の脳筋具合くらいは自覚して、大人しく望の後ろをとぼとぼついて行くのがお似合いですわよ、このダメキリー」
 ちくちく、ざくざく、きつい単語を並べて責め立てながら、幻影のノートはあからさまに嘲笑を浮かべて鼻を鳴らした。
「自分のダメダメ具合が判ったら、その体をさっさと私によこしなさいな」
 高飛車に言い捨てた幻影だったが、ノートはそれに怯むことなく、小刻みに肩を揺らすと、ばっと腰に手を当てて笑い飛ばした。
「ふ、ふふふ、おーっほっほっほっほっ! その程度の悪口雑言、望に一度は言われた事ばかりですわよ! へーちゃらへーですわよ!」
 それよりもっと酷い毒舌を食らったことをある身としては、この程度は日常茶飯(ちゃめしと読む)ですわ、と笑い飛ばしたが、そうは言っても痛いものは痛いのである。高笑いしてみたが涙目なのである。
 どう見ても開き直りの様子に、むしろ哀れむような目で見ている幻影に、こほん、と咳払いすると「ところで」と首を傾げた。
「散々っぱら貶してくれましたけど……貴女……そんなダメダメプーな人間を乗っ取ってどうするんですの?」
 素朴な疑問、と言った調子で漏れたその問いに、僅かに間があった。ノートの幻影は、何を今更とさらに呆れたような息をついて「決まっていますわ」と鼻で笑った。
「そのダメダメダメキリーな貴女に変わって、わたくしが有用に使ってさしあげますわ」
 だからむしろ感謝して、その体を差し出すしなさい、と続けた言葉に「え? でも、貴女……わたくしでしょう?」とノートは本気で不思議そうに首を傾げた。
「わたくし以上の事、出来ますの?」
 それはノートの純然たる素の言葉であり、図らずも正鵠を射ていた。ノートの鏡写しにあたるその幻影は、先ほどまでの高飛車ぶりは何処へやら、衝撃を受けたように固まること暫し、しゅうん、としょげ返るように肩を落とすと、そのまま消えていってしまったのだった。
 結果的に、悪夢を乗り越えた、と言うことになるのだろうが、残されたノートはぽつねん、と呟いた。
「……な、なんだかこれはこれで、とっても……空しいのですけど……」




 時を同じく、地下一階、第三の扉。
 最初の頃こそ、約一名、罰ゲーム状態である丈二を除けば、各々希望通りの相手達に囲まれて華やいでいたものの、時が経つにつれて、やや見るに耐えない光景が展開されかけていた。
 具体的に言うのは非常に憚られることであるが、ちらりと覗く太股が絡んできたりはまだ序の口として、いつの間にやら女性達の衣装はゴスロリにしろメイドにしろ、チャイナやカクテルドレスにしろ、その系統こそ変わらないものの、露出がかなり際どいものになっていた。女性達の方も次第にエスカレートしていて、自分で手を引っ張って胸元やらなにやらそれやらに触れさせたり、あるいは押しつけたりとし始めているし、逆に接待されるはずだった方から、触りにいったりあれやこれやと、過激な方向に向かい始めていたのである。
 あえて誰が何をどのぐらいどうしたか、は、ご想像のアレコレにお任せし、あえて触れないでおくとして、そんな乱れた空気の中、一人思い切り遠ざかって無関係無関心を貫き、グラスを傾けることで思考を外へ外へとやっていた白竜は、いつまで続ける気だろうか、と半ば呆た目線をちらりと羅儀へ向けた。
 その時だ。羅儀のいるテーブルの扇情的な美女達に混ざって一人、やけに質素、というよりくすんだ灰色の服装をした女性が混じっているのに気付いた。
(……?)
 その違和感に、首を傾げる白竜の視線に気づいたのか、その赤毛の女性はくるりと振り返ると、くすり、と笑った。次の瞬間。
「ぎゃぁあああ!?」
 剛太郎と羅儀が、同時に叫び声を上げた。続けて、ソフィアと望も喉に引っかかる悲鳴を上げると、がたんとソファから飛び退くように立ち上がった。彼らの接待をしていた美女やアーデルハイトや美少年達が、絡みついた状態のままで、突然からからに干からびていき、ミイラのような肌と、眼窩の窪んだ目の、恐ろしい形相のモンスターなってしまったのだ。モンスターが恐ろしいような柔な契約者達ではないが、それはそれ、これはこれ、先ほどまでいちゃこらしていた相手が変貌してしまえば、恐怖だけではない諸々で悲鳴を上げずにはいられないのは仕方のないことだ。
 阿鼻叫喚の有様となった室内に、さもありなん、と白竜は息をついたが、そんな中で一人、幼げな面影を残したままの赤毛の女性が、笑みと共にすうっと消えていったのには、流石にぞわっと背中を駆け上がったものに、口元がひきつったのだった。