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汚染されし工房

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汚染されし工房

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●第一幕 第五節

 紫に紫を塗り重ねる。これを何度も繰り返したような闇、それがナラカの闇である。
 この地点まで来ると、プラント上層部分とはいえ、もう工房の原形はほとんど残っていなかった。肉のような紫の壁と床の合間に、ときおりリノリウム張りのプラント残滓が現れるといった程度になる。
 この地獄にはおおよそ場違いな蛍光灯が、今際(いまわ)の際のように途切れ途切れ、明滅する。
 光の白さのためだけではない。照らし出されるマリーウェザー・ジブリール(まりーうぇざー・じぶりーる)の顔は、確かに蝋のように白かった。長い睫毛、物憂げな、されどすべてを見通しているかのような瞳――畏敬を込めて彼女を『熾天使』と呼ぶ者が少なくないのは、彼女の姓がジブリール(ガブリエル)だからという理由だけではないだろう。
 貴族にふさわしくない、との理由でマリーウェザーはパワードスーツ着用を拒否し、彼女と随伴する一隊は、いずれもデスプルーフリングに指を通していた。
 マリーウェザーは前進と生存者捜索を続けながらも、頭にかかる黒雲を払拭できない。
(「この時期、この場所で、『偶然』ナラカ化が発生したとでもいうの……」)
 ありえない、とマリーウェザーは結論づけていた。
 偶然でなければすなわち、故意ということだ。そして故意ならば、この事件はマヌエル枢機卿の指示によるものではないかという推測も成り立つ。それができる立場にあるのは、このプラントでは彼しかいない。
 マリーウェザーと同行する迦 陵(か・りょう)は決して目を開けない。盲目ではないのだが、わずかな光であろうと彼女の目にとっては強烈すぎるのだ。しかしその分、陵の他の感覚は研ぎ澄まされていた。ゆえに彼女は、とうにマリーウェザーの決意を察知していた。
 その心が揺るがぬことを知っているのだが、あえて陵は問う。
「やはり場合によっては……ということですね?」
 マリーウェザーは否定しない。頷くかわりに、述べた。
「黄忠、覚悟はよくって?」
「俺は軍人だ。軍人が、引き金を引くのに覚悟は必要ない。……必要なのは命令だけだ」
 黄 忠(こう・ちゅう)、字は漢升。三国志演義では『老黄忠』と呼ばれ、老いてますます盛んな人の代名詞とされるが、現在の彼は、銃を得物とする青年の姿である。戦に臨めば虎を凌ぐ程に勇猛、しかし平素は氷雪の如く怜悧なる軍人、それが現在の黄忠なのだ。
 ただ、このことだけは附記しておきたい。黄忠の言う『命令』とは、シャンバラ教導団上層部から下されるものではない、ということを。
「できればそうならないことを祈っているわ」
 禁書目録 インデックス(きんしょもくろく・いんでっくす)は目を閉じた。
 この日、黄忠のものによる一発の銃弾が、シャンバラの歴史を動かす可能性があった。
 本件の黒幕がマヌエル枢機卿であった場合――いざというときには、自己の判断で彼を射殺せよ。
 これが、マリーウェザーが黄忠に与えた命令である。
 最初に異変を感じたのは陵だった。
「……何かが、います」
 漆黒の闇に、青白い炎が瞬いている。いずれも目だ。ナラカの生物、その群れだ。
 群れはびっしり、円状に集結していた。
 その中心には、落下したコンテナがある。いくつかかの人影も。

 倒壊したコンテナ目がけ、大量の巨大蟻が飛来した。
 これは誇張ではない。実際に、翅を持つ蟻も少なくなかった。

 吸い寄せられるように彼の地に、足を向けていたのはマリーウェザーらだけではない。ザウザリアス・ラジャマハール(ざうざりあす・らじゃまはーる)も、使命を帯びて枢機卿を捜し求め、この場に居合わせたのである。
「却下する」
 作戦開始前、ある提案を行ったザウザリアスに、こともなげに羅英照は言った。
 彼女の提案、それはマヌエル枢機卿の暗殺であった。東側契約者が枢機卿を保護して引き渡さないような事態が発生した場合、寺院関係者を装い枢機卿を『事故』として死亡させる、これこそ、東側に利益を渡さず西シャンバラの利益を守る最良の方法であるとザウザリアスは判断した。
 されどその判断は、英照に一蹴されたのである。彼は言った。
「短絡的な判断は一身はおろか、国すら滅ぼすことになると知れ。同様に、枢機卿の誘拐はおろか、無駄なことを吹き込むなど、必要以上の接触は控えよ。マヌエルは聡明だ。小細工はすぐに見抜くであろう。ゆえに、今回命じるのは卿の監視のみとする。その一挙一動、発言を見届け、報告せよ」
 大きく動かぬことを厳命され、いささかザウザリアスは不服ではあったものの、堅物の金鋭鋒ではなく、権謀術数に長ける(と思われる)英照がそこまで言うのである。拒否する気はなかった。
 ただひとつ、最後に英照が呟いた一言は気になった。
「天というものがあるとすれば、あれは天に愛される人間よ……」
 その意味を確かめることはできないままであったが、マヌエル枢機卿と接触することで、その発言の意図の一端でもつかめるのではないか、とザウザリアスは考えていた。
(「なんて数……! この中に枢機卿がいるかもしれない」)
 パワードスーツのブースターに火を入れ、彼女は蟻の群れに吶喊する。レーザーを照射したその光の合間に、法衣を着る人物の影が確かに見えた。ただ、問題があるとすれば彼女が、パワードスーツを使った行動に熟達していないことだろう。蟻との戦闘をこなすことはできても、法衣の人物の無事を確認することができない。
 蟻が押し寄せてくるも、天音はこれを押し返し、ブルーズもパワードスーツの陰に枢機卿を入れて庇った。
 潰れたコンテナに、一瞬だけブルーズは視線を向ける。
(「コンテナがあんな風になるほどの衝撃だ。英霊ロンギヌスならば生きているかもしれん……だが、同じく内部にいた一般人の男は……」)
 まず間違いなく、即死したことだろう。それはマヌエル枢機卿とて同じことだ。卿が外を歩かずコンテナに残っていれば、絶命していたに相違ない。運の良い男だ……とブルーズは卿のことを思う。落下の衝撃こそいくらかは受けたものの、天音に受け止められた彼はほぼ無傷なのだ。しかも卿は、まるでそれが当然であるかの如く落ち着き払っているではないか。
 さらにマヌエル卿の幸運は続く。
 ブルーズの頭上を越えて一匹の羽蟻が、マヌエル卿に襲いかかった。蟻の頑丈な顎が、枢機卿の顔面に迫ったまさにそのとき、一条の銃弾が蟻の目と目の間を撃ち抜き、胴体を綺麗に貫通してこれを即死たらしめた。
「間一髪といったところかしら? そこの方、無事?」
 その声はローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)、デスプルーフリングを装備した状態で立射の構えにある。敵に集中していた故、ローザは救った相手が枢機卿だとはまだ知らない。姿勢を微動だにせず、彼女はパートナーに指令を飛ばした。
「エシクはコンテナとともに突入! 援護する……Go, Go, Go!!」
 ローザの声に応じ、
「敵確認、蟻に酷似した姿ですが巨大化して野生が鈍ったか、それとももともとそんな性質がないのか……集団の統制はほとんどとれていないようですね」
 エシク・ジョーザ・ボルチェ(えしくじょーざ・ぼるちぇ)は身を低くし、コンテナを渾身の力で押した。その硬さもさることながら勢いは強烈、巨大蟻は一直線に蹴散らされる。
 同じく、パワードスーツ装備の上杉 菊(うえすぎ・きく)が、エシクの作ったルートを確保する。
「小型飛空艇はナラカに持ち込めませんでしたが……本日のわたくしには、パワードスーツの火力があります!」
 モーゼの出エジプトよろしく左右に分かれた蟻群、その再結集を菊は防ぐのだ。
 菊の支援を受けながら剣を舞わすは、デスプルーフリングを填めたグロリアーナ・ライザ・ブーリン・テューダー(ぐろりあーならいざ・ぶーりんてゅーだー)だ。コンテナの屋根を助走台にして大きく躍し、因幡の白兎よろしく敵を踏みあるいは切り裂きながら、朱里のところまで到達した。
「貴公は……!」
 従って、援軍として現れたメンバーで最初に、枢機卿に気づいたのもグロリアーナとなった。言葉は控える。敵を撃退するのが先だ。
 ローザ率いる四人の戦略は高く評価されよう。パワードスーツ装備者とデスプルーフリング装備者、その一人ずつで一組となり、互いの欠点を補い合いながらコンテナの移送と生存者の発見をこなしつつここまで来たのだ。機動力および戦闘力、ともにトップレベルのチームと言ってよかった。
 ここでマリーウェザーら四人も参戦した。
「個々の武勇を最大に活かす……か。優れた指揮官だな」
 ローザマリアを称賛しつつ、黄忠もまた精密射撃の腕を見せる。ピンポイントで蟻の首の関節を撃ち抜き、一発の弾丸で二匹を行動不能にするなど、自由自在だ。
 彼らを支える役割は、禁書目録インデックスが果たす。マリーウェザーの操る氷術は、蟻を氷の彫像のようにしてしまった。そして迦陵はその肌で、戦場の空気が一変したのを悟ったのである。
 数ばかり多けれど、形勢が不利になると蟻は弱かった。算を乱し逃亡するもの多数、あっという間に総崩れとなり散り散りになっていった。
 逃走にかかった蟻をザウザリアスは追わず、枢機卿の背後に立った。
(「この男がマヌエル枢機卿……諸刃の剣となるかもしれない男……」)
 ――今なら一刀で、この男の息を止めることができるだろう。しかしそれは禁じられている。
 ザウザリアスは唇を軽く噛み、なるだけ目立たぬよう、救援者の一人を装うのだった。
 ローザマリアが枢機卿に挨拶した。
「シャンバラ教導団第一師団所属、ローザマリア・クライツァールです。あなた方を救助に上がりました」
「枢機卿のマヌエルだ。生粋の軍人とお見受けした。その働き、深く感謝したい」
「いえ、任務ですから」
「『それ』も任務かな?」
「と、申しますと……?」
「クライツァール君、きみがさっきから回しているビデオカメラだよ。撮影したいのなら正々堂々とやればいい」
 しばしば『人間兵器(リーサル・ウェポン)』と渾名されるほど冷静なローザマリアだが、さすがにこれは面食らった。失礼しました、と、非を認め、隠しカメラのスイッチを切る。物腰はソフトな枢機卿だが、なるほど、切れ者との噂は本当らしい。
 しかし彼の言葉に、グロリアーナは不快を露わにしていた。
「『正々堂々』? ヴァチカンの権力者が口にしていい言葉ではないぞ、恥を知れ」
 決して大声を上げたわけではないものの、にじむ嫌悪の情は隠しようがなかった。
「このエリザベス一世に対し数々の姑息な策略を弄し、あげく破門まで果たした教皇ピウス五世を、ヴァチカンを、妾は断じて赦してなどおらぬ」
 教皇、といってもそれは、グロリアーナ(エリザベス一世)がかつて地上にあった時代の話ではある。現代人たるマヌエル枢機卿に向けるのはいささか筋違いかもしれないが、彼女の目からすれば、その体質はさほど変化していないように思えるのだ。
 さらに激せんとするグロリアーナを、エシクが制す。
「ライザ。それはこの場で言うべき事ではないと思いますよ。枢機卿も要救助者です」
 この言葉自体もいくらか皮肉なのだが、枢機卿自身は聞き流しているようだ。薄笑みを浮かべているだけで腹の底は見せない。見た目通りなんとも思っていないのか、それとも心の底では怒りの火を燃やしているのか。
 グロリアーナは不承不承といった体で、腕組みして黙り込んだ。
「旦那ぁ……」
 倒壊したコンテナからロンギヌスが姿を現した。怪我はしているものの無事だ。
「お初にお目にかかります」
 社交界に出たばかりのレディ、といった雰囲気で、マリーウェザーがマヌエル卿にお辞儀する。互いに自己紹介を交わしながら、さりげなくマリーウェザーは陵の反応を待っていた。感覚に鋭い陵ならば、マヌエル卿のついている嘘も見抜けるかもしれない。
 卿は視線を、禁書目録インデックスに向けた。
「お連れは、ベネディクト会の方かな?」
 インデックスが正直に名乗れば、自身が教会に作られた……そして魔道書と化した存在であることが露呈してしまうだろう。従ってインデックスは即座に、用意しておいた返答をなした。
「お察しの通りベネディクト会士です。名前は……」
「細かいことは言いたくないのだがね、お嬢さん」
「お嬢……!」
 インデックスは背筋が寒くなった。おおよそ、修道会に属す聖職者に呼びかけていい表現ではない。
 だが抗議するようなインデックスの口調を無視し、マヌエル卿は続けた。
「女性ならば『修道』と名乗るべきだよ。『シスター』と呼ばれたいのなら気をつけておくべきだ」
 インデックスは絶句してしまう。しかし卿には侮辱するつもりも、インデックスの正体を問いただす気もないらしい。彼は会話を打ち切ってロンギヌスに肩を貸し、ローザマリアが運んできた新たなコンテナに移した。一方、コンテナ内にいたもう一人の遭難者は即死だったという。
「彼は亡くなったか……気の毒なことをした。祈りを捧げさせてもらう」
 それを聞くと枢機卿は祈りを捧げている。一歩間違えば自身、コンテナ内で生涯を終えていたかもしれないというのに、マヌエル卿には驚いた様子はなかった。これも運命と考えているのであろうか。少なくとも、死を悼み祈りを捧げるその姿は真摯なものに映った。
 そして振り返ったマヌエル卿は、意外にも思える提案を行ったのである。
「こちらのコンテナは大きい。まだ、空きがあるようだな。すぐに地上に引き返さず、もう少し救助作業を頼んでも構わないだろうか? 作業員のいそうな場所にも心当たりがある。彼らが心配だ」
 これが罠という可能性はある。あるいは、自身が起こした事件の詳細を調べておきたいがゆえの提案だとも考えられよう。
 しかし、
(「少なくとも、ここまでマヌエル卿が口にしてきたことに……嘘は感じられません」)
 陵は、マリーウェザーにだけ判るように、微かに首を振った。
(「有罪(guilty)の疑いが晴れたわけではないけれど、今のところ無罪(not guilty)とみなすほかなさそうね……」)
 マリーウェザーはそう判断を下す。無論、卿への警戒を解いたわけではないが。
「……」
 黄忠もそれを察し、音を立てずライフルの安全装置を戻すのである。