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死いずる村(後編)

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死いずる村(後編)
死いずる村(後編) 死いずる村(後編)

リアクション

 山場弥美は、山場愛と山場敬などの元村人の死人たちと共に閻羅穴の前に居た。
 道の端では篝火が焚かれ、彼らの影を揺らしていた。
「来たのね」
 弥美を見すえ、七瀬 歩(ななせ・あゆむ)は喉を鳴らした。
 その懐には、山葉涼司が『弥美さんに会うつもりなら』と渡してくれたアンプルがあった。
 元から自分が持っていたアンプルも合わせて、2本のアンプルを持って、歩は弥美の前に立っていた。
 愛と敬が何かしらを見透かしたように、笑んだような気がした。
 深く息を吸って、まっすぐに見つめる。
「お話がしたかったから」
「そう」
 弥美が笑む。
 歩は続けた。
「――大切だった人たちの想いと眼差しを継いで、一緒にその先の世界を見ていく。
 そして、それはまた次の誰かに受け継がれていく」
「……?」
 歩の言葉に弥美が薄く首を傾げる。
 構わず、歩は言った。
「そうすることで、想いは永遠になっていく。
 ……涼司くんは、そう言ったの」
「私の求める『永遠』は、誰にも平等に訪れ、もっと確かなものだわ」
「皆が死人になった永遠? でも……この身体は永遠になってしまったら、想いはずっと、ここにしか留まらない。先に進めない」
「そうね。いずれ皆、永遠の中で進むことを止める。それは自然なことだわ」
「それって、本当に皆が望んでる永遠……?」
「少なくとも、私は望む。愛しい人と並び寄り添うだけの、静かな世界を」
 そう言った弥美の様子に、歩がかつてほんの僅かな時間だけ出会った、本来の『山場弥美』の存在は感じられなかった。
 秘祭の終わりが近づき、ヤマの影響が強くなっているのだろう。
 そして、いつか本来の山場弥美の願いを経由したアガスティア・パルメーラはパートナーであるアクリトの死と共に、力を大きく失っているはずだった。
 弥美が歩の方へと近づく。
 歩はアンプルを手に取り――しかし、それを使おうとはせずに逃げようとした。
 振り返り、その行く手が既に死人たちに囲まれてしまっている事を知る。
 と――
「永遠なんて知ったこっちゃないわよッッ!」
 叫ぶ声。
 同時に、ブナ林の間から鉈やクワを持った村人たちが飛び出し、一斉に死人たちへと襲いかかり始めた。
 叫んだのは工藤 頼香だった。

 突如として現れたのは、本当にただの村人だった。
 彼らはとても興奮していた。
 恐怖を乗り越えるために、生き残るためにそのようになっているのか。
 それとも、『死人』という“倒すべき相手”をはっきりと認識し、それを駆逐することに得体の知れない興奮を得始めているのか。
 (そんなことより――)
 と、山場敬は思った。
 村人と死人が入り混じって血と肉が弾ける中で、敬は背を見せて逃げた歩の姿を見つめていた。
(何故、彼女は山場弥美にアンプルを使おうとしなかったんだろうか)
 おそらく歩は、涼司からもアンプルを託されたはずだった。
 そして、そのアンプルの中身は入れ替えられている。それは、敬の姉である山場愛が涼司へと託した“罠”だった。
 涼司と弥美が対峙した時、涼司に最高のタイミングで隙を作るための罠。
 敬が偽祭壇の件を生者側へ伝えたのも、姉の信用と願いの影響を深めるためだった。
 しかし、それらは全て、どうでもいいことだった。
 敬が考えていたのは、何故、あの少女はアンプルを使わなかったのだろうか、ということだけだった。
 姉、山場愛が村人のクワによって頭を砕かれる。

 山場本家へ向かう前――
 頼香は僅かに生き残っていた村人たちと接触していた。
 そして、今、彼らを集わせ、彼女は“生き残ろうとしていた”。
 村人達と死人となった村人達が殺し合う。
 篝火が倒され、散らされ、ブナ林に燃え移り、それはやがて大きな炎となって、景色を赤く揺らした。
 そんな光景の中。
 頼香は、人々の争いの間を抜け、林の奥へ逃れようとしていた。
 後は、山葉涼司たちが上手くやるのを願うだけ。
 やがて、林に駆け込んだ頼香は、彼女とは逆に山場弥美の方へと向かう影とすれ違った。

 戦部 小次郎(いくさべ・こじろう)は、この瞬間を待っていた。
 実力のある死人が閻羅穴の制圧に向かい、弥美の周囲が手薄になる時を。
 そして、弥美に隙が出来る好機を。
 頼香とすれ違い、リース・バーロット(りーす・ばーろっと)と共に林道へと滑り出る。
 彼らを援護するように、山中に潜んでいるアンジェラ・クリューガー(あんじぇら・くりゅーがー)のライフルが弥美やその周囲の死人を狙撃していく。
 小次郎は、リースがファイアストームでこじり開けた弥美へと続く道を駆けた。
 弥美は荒れ狂う人々の影の中で、一人、凛と静かに立っていた。
「残念ね。永遠は、もうすぐそこにあったのに」
「ええ、そう簡単に勝ちを譲る気はありません」
 小次郎はトライアンフを一閃した。
 弥美の首が飛ぶ。
 そのまま、小次郎はトライアンフを引き回し、周囲の死人を薙ぎ捨てた。
 その間を駆けたリースが弥美の首を拾い上げるのを確認し、リースと共に閻羅穴へと駆ける。
 追って来る死人をアンジェラの狙撃が撃ち倒していく。

 生者たちと死人たちの最後の殺し合いがあった。
 叫び声、悲鳴、怒声、熱、銃声、肉の爆ぜる音、骨の砕ける音、篝火が散らされ、山の木が燃え始め、乱雑に揺れる光と影。
 黒崎 天音(くろさき・あまね)は、着物を引きずり、その中をぼんやりと歩いていた。
「あの子なら、知っているんだ……きっと、知ってる」
 少女は微笑み、針の感触。
 赤く燃える光景は血の海に似ていた。
 己が喰い散らかした、肉と臓物。
 あの少女なら、知っているはずだと彼は思い込んでいた。
 山場弥美なら、ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)の居場所を。
 そして。
 天音は、山場弥美の首を抱えたリースとすれ違った。
 振り返る。
「待って……待ってくれ。
 駄目だ――あの子の針じゃなきゃ……あの子の針じゃなきゃ、綺麗な蛾は留めておけない」
 手を伸ばし、彼女たちの後を追おうとする。
 着物の端を踏んで、力の入らない身体は呆気無く地面に傾く。
 と、天音の身体を支える腕があった。

「行きましょう」
 叶 白竜(よう・ぱいろん)は、天音の腕を引いた。
「……行く?」
「そうです。君は行かなければ」
「一体、僕は、どこへ行かなければならないというの?
 あの子の首が……ほら、遠くなる――届かないところへ行ってしまう。
 だって、あの子は知ってるんだ。
 あの子の針が僕らを繋ぎ留めてしまったんだから。だからブルーズは」
「ブルーズ・アッシュワースは君を待っています」
 白竜は、母親を捜す子供を優しく諭すように言った。
「私がそこへ連れて行ってあげましょう」
「白竜! 急げ!! 火が回れば、逃げ出せなくなる!!」
 世 羅儀(せい・らぎ)の声が聞こえる。
 天音は縋るように白竜を見上げていた。
 その、幼い子供のような顔に、自身の上着をそっと掛ける。
 そして、白竜は彼と共に火の粉の降る中を駆けたのだった。
 羅儀は自身の行動をどう思っているだろう。
 結局、彼は一度も白竜に問うことは無かった。
 白竜は明らかに様子が違ったというのに。
 アンプル作成のために軍へ持ち帰る死人など、本当は誰でも良かったのかもしれない。
 何故、彼だったのか。
 例えば、山場弥美の針が黒崎天音とブルーズ・アッシュワースを運命に繋ぎ止めたのだというのなら、
 自身をこの選択へ繋ぎ止めたのは、あの涙の冷たい感触だったとでもいうのか。
 答えなど出ないまま、白竜は羅儀と天音と共に炎が迫るブナ林の中を駆けていた。
「ああ……」
 駆けて、白竜の上着がずり落ちて、覗いた天音の顔が言う。
「そこにいたのかい?」
 脈絡無く放たれた言葉。
 天音の目は誰も居ない、居る筈もない、山の炎を見ていた。
 彼の身体が白竜の手を離れる。
「待ちなさい!」
「やっと見つけた」
 天音が炎の昇る方へと駆けていく。
 白竜はそれを追おうとして、火に包まれて折れた木に阻まれた。
 炎の向こうで天音が笑う。
「ねえ、ブルーズ。何処に行こうか」
 そして、天音の姿は炎の重なる向こうへと消えていった。
「ああ、そうだね。君と二人なら、何処へでも――」
 白竜は、羅儀に頬を打たれるまで、天音の消えた炎の先を、ただ呆然と見つめていたのだった。


「は――は……は……」
 いつの間にか、聞こえているのは自分の息遣いだけになっていた。
 自分を閉じ込めている村の結界が消えたら、すぐに村を出るのだ。
 村の外へ出て、そこで色んなことを体験して、その内に、村のことはきっとほとんど忘れてしまって、時々ふと想い出して「ああ、そんなこともあったな」って、その程度で――
 山場神社の裏手の山道。
 そこへ駆け出て、頼香は、肩で息をしながら、道の端にへたり込んだ。
 村の外へと続く道の先を見やる。
「……あは、ははは」
 自分は生き残る。
 生き残ることができる。
 もう少しだ。
 山道に白い明るさが差したのに気づいて、頼香は空を見上げた。
 雲間に月が出ていた。
 ガサリ、と音を聞く。
 下げた視線の先にクロス・クロノス(くろす・くろのす)が立っていた。
 物凄い早さで迫って来ていた。
「あはハははハハははハハハ、ねぇねぇごはんちょうだィよォ」
「……嫌……」
 頼香は立ち上がりながら呻いた。
「おなじになれば楽しぃよォ?」
「嫌よ。私は――」
「いただきます」
 私は外に逃げるんだ。


 閻羅穴――。
「この……!」
 桐生 円(きりゅう・まどか)は、自身へと迫る水島 慎へと銃撃を重ねていた。
 疲労が限界まで溜まっていて、ボヤける目を懸命に顰めながら、何度も引き金を引く。
 相手は素早く、腕や耳などを撃ち抜かれながらも迫ってくる。
「役目を――水島の、役目を――俺は――役目を――咲は、俺のせいで――だから――」
「くっ」
 慎の剣が、ミラージュで作り出していた円の幻影を斬る。
 円はほぼ零距離で慎の首に銃口を向けた。
 その刹那。
 円の体に絡みついた女の腕。
「慎は、私が護るわ」
 後ろから組みついた小嶋 咲が円の首筋に歯を立てる。
 致命的な脱力感が襲う中、円はアクセルギアを起動した。
 30倍の加速を得た体で咲を振り解き、円は限界まで彼女の体に弾丸を叩き込んだ。
 そして、最後の一発――。
 円は銃口を円自身の首へと擦り付け、引き金を引き、脊髄を撃ち砕いた。

 血を噴き上げて円の体が倒れ、それと同時にパートナーロストによって膝をついたオリヴィアとミネルバが死人の群れに飲み込まれる。
 東園寺 雄軒(とうえんじ・ゆうけん)は、水橋 エリス(みずばし・えりす)の包丁による猛攻を凌ぎながら、涼司の祝詞が終わるのを待っていた。 
 その上空――漆黒の ドレス(しっこくの・どれす)をはためかせた中願寺 綾瀬(ちゅうがんじ・あやせ)は、そんな光景を眺めていた。
「死人は主を失ってもまだ、永遠を求める。
 その先にあるものを本能で感じているから?
 それが何なのか、興味が無いわけじゃない。
 ……とはいえ私も『生きている人間』ですので」
 彼女は己の目を覆っていた目隠しに手をかけ、それを取った。
「これは……大サービスですわ」
 彼女の放った神の目による光が、死人たちの動きをわずかに鈍らせる。


「ンなろぉ……」
「っし、じゃあ、本陣を攻めさせてもらうとするかな」
 竜造から生気を奪ったラルクへと――
「ようやく見つけたぜ、てめえ!!」
 アイアン・ナイフィード(あいあん・ないふぃーど)は問答無用で斬り掛かった。
「何?」
 同じ死人から攻撃をされるなど考えてもいなかったらしいラルクは反応が遅れ、アイアンの刃に肉を裂かれた。
「――弥美の制限が、薄れたのか?」
 何かしら気付いたように呟いたラルクの懐へと、踏み込んでアイアンは二撃目、刃を振り抜いた。
 ラルクが飛び退って、切っ先は虚空を斬る。
「俺様を死人にしたオトシマエ――きっちりと付けさせてもらうぜ?」
 ニィ、と笑んだアイアンを見やり、ラルクが面白がるように笑む。
「せっかく死人にしてやったのに恨まれてんのが、よく分かんねーけど……売られた喧嘩は、面白そうだから勝ってやるぜ」
 タ、とラルクが距離を詰めてくる。

「山場弥美が“終わった”」
 赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)は、その事を涼司に告げようとしていた。
 主を失っても死人たちは未だ生者たちと戦っていた。
 そうだ。今、山葉涼司が行なっている儀式が完成すれば、自分たちは消えてしまう。
 あるいは、今、山葉涼司を取り返せば、弥美の意志を継ぐ誰かの手によって『永遠』のための儀式を行えるかもしれない。
 そんな風に、皆、抗おうとしていた。
 実際、生者の契約者たちは次々に死人の手にかかり、その多くは自害している。
 死人たちの手が山葉涼司へと届くのは時間の問題だった。
(――だけど、弥美の支配が薄くなった今なら、自分にも何か出来ることが)
 と――ふいに、死人たちの間を縫って自分と同じ顔が横を走り抜けた。
「相変わらず、甘ぇこと考えてんだろ」
 裏切り者、と彼が笑って言ったような気がした。
 次いで、霜月の首は強力な力によって乱暴に掴まれた。
「捕まえたぜ、俺の勝ちだな?」
 ラルクが言う。
 彼はアイアンと霜月を間違えているようだった。
 そして、それがアイアンの企み。
 気付いた時、ゴキン、と霜月は己の首が折られた音を聞いた。


「弥美様は穴へ落とされたみたいだよ」
 閻羅穴へ迫り出した祭壇の先。
 宮殿用飛行翼で飛ぶ火村 加夜(ひむら・かや)が、祭壇を守る契約者と交戦しながら言ったのが聞こえた。
 その言葉を加夜に言わせたのは貴宮 夏野(きみや・なつの)だと、涼司は知っていた。
 唱える祝詞を途切れさせることなく続けながら、涼司は加夜を乗っ取った夏野を睨んだ。
 契約者を二丁のカーマインで牽制し、加夜の身体が肩を竦める。
「教えてやったのに。
 おかげで、私たち死人に対する弥美様の支配も少し弱まったみたいだね〜。
 “縛り”が緩くなってる」
 カーマインの銃口が涼司へと向けられる。
「私はどうしたらいいのかな?
 もう、私たちの永遠を叶える儀式を終えられる人は居ない。
 キミが儀式を終えれば、私たちは消えてしまう?
 ふふふふふ……ならなら、キミを殺しちゃうのが、今んとこ一番いいのかな?」
 と、加夜は、銃口を自身の首に押し当てた。
「っ――!?」
「止めちゃ駄目です! 涼司くん、祝詞を止めちゃ駄目」
 加夜は自身の言葉で言っているようだった。
 彼女の身体の中で二つの意識がせめぎ合っているようで、身体が痙攣しているように震えている。
「弥美さんをヤマから救うことは出来なかった……でも、本当の弥美さんが望んだ想いを叶えることは出来ます。
 きっと、涼司くんがここに呼ばれたのはヤマを顕現させるためだけなんかじゃないんです!
 だから――弥美さんの想いに答えてあげて」
 加夜が引き金を引いて、力無く穴の暗がりへと落ちて行く。

「あー……ようやく、てめえ……コラ、クソメガネ」
 振り返れば、口元を血に塗れさせた竜造が祭壇を上がってくるのが見えた。
 どうやら、彼もまた死人となり、生者を喰らいながら、ここまで来たようだった。
 竜造がヴァルザドーンを構える。
「さぁ、殺り合おうじゃねぇか」
 涼司は最後の祝詞を吐き出し、そして、笑った。
「悪ぃな。時間切れだ」
 自身の中に何か大きなモノが湧き出るのを感じながら、涼司は穴へと飛び込んだ。
「てめえッッ――」
 竜造の罵倒を遠くに。
 涼司は自身の意識を大きな力に明け渡した。
 膨大な光の中に飲み込まれていく。



 高く澄んだ音が産まれ、伝い、消える。



「あ……」
 スウェル・アルト(すうぇる・あると)は、鈴の音のような、そんな音を感じ――じきに全てが終わるのだと知った。
 やがて、自身の身体を支えていた力が消え、彼女は倒れた。
 傘は戦いの最中で折れて、手を離れ、何処かに転がっている。
 ふと気づけば、隣にはヴィオラ・コード(びおら・こーど)作曲者不明 『名もなき独奏曲』(さっきょくしゃふめい・なもなきどくそうきょく)(ムメイ)が居た。
「最後は、明日の陽が当たる場所で、か」
 身体を引きずるように彼女の元へと辿り着いたヴィオラが、倒れ、スウェルの右手を取った。
 もう一方の手をムメイが取って、笑う。
「負けたねぇ。まあでも、スウェルとヴィオラが一緒なら、俺様は、それいいや」
 三人が見上げた夜空は、雲が晴れ、月明かりと星空が覗き始めていた。
 明日はきっと晴天だろう。
「……次の生があるなら、今度は、今度こそは……あの、太陽の下で――三人、一緒に……」
 山では炎が燃え盛り、耳の傍では秋の虫が鳴いていた。


 肉を掻き斬る感触を幾度味わっただろうか。
 幾度目か――自身の刃が肉を引き裂き、骨を砕いた感触が、『現実』であることを綾原 さゆみ(あやはら・さゆみ)は、ボンヤリと自覚していた。
 自身の、乾いた息切れの音が喉で鳴っている。
 地面を見ていた。
 視界の端では、人の頭が何の感慨もなく転がっている。
 手に残る感触。
「……さゆみ」
 アデリーヌ・シャントルイユ(あでりーぬ・しゃんとるいゆ)の声。
 さゆみはそちらに顔を上げた。
 彼女を見つめるアデリーヌは酷く辛そうな表情をしていた。
 と――離れた場所に、「ひっ!?」という悲鳴が聞こえ、さゆみは反射的にそちらへ駆け出そうとしていた。
 刃を握る手を強く、そして、口元に笑みを浮かべながら。
「もう終わっていますわっ!!」
 腕を掴まれて、さゆみの身体はグンッと引き止められた。
 半ば睨むようにそちらを見れば、アデリーヌが抱きつく格好でさゆみの腕を掴んでいた。
 アデリーヌが思い切り眉根を寄せ、目尻に涙を溜めた顔でさゆみを見つめる。
「さゆみ、もう終わったんです……目を覚まして、今のあなたはまるで――」
 人を斬る事を求めているよう。
 彼女はそう言った。
 そして、アデリーヌの緑の瞳に映っていたのは、自身の恍惚とした笑み。
「あ――ああああああああああ」
「さ、さゆみ!?」
 腕に蘇る肉を裂く感触、骨を砕く音、血飛沫舞う空気の匂い、事切れて力無く飛ぶ首。
 それを成したのは生き残るための筈だった。
 死から逃れるために、仕方なく、望まずに、何度も人の首を。
 でも、『現実』は。
 受け入れられる筈も無い『現実』のさゆみは。
「いっ、いやァ……違うの、違うの、わた――私は……」
 肉を裂くたびに、言いようの無い甘い痺れが背を駆けていたことを否定出来なかった。
 骨を砕く音に酔いしれたことを否定出来なかった。
 血の匂いを嗅ぐたびに身体の底が熱くなるのを否定出来なかった。
 力無く舌を伸ばして転がる、あの小さな塊を愛しく思うことを否定出来なかった。
「違う、こんなの、私じゃ……私じゃない……ッ!」
 痙攣するように震えるさゆみの頭をアデリーヌの腕が抱く。
「さゆみ……大丈夫ですわ。
 わたくしがそばにいますから……」
「違う、私は……こんなの……違うの、私は、違う」
「わたくしが、ずっとそばにいます……」
 あなたの心がどんな怪物に巣食われてしまっても。
 そう、アデリーヌは言った。