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そんな、一日。~三月、某日。~

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そんな、一日。~三月、某日。~

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8


 茅野瀬 衿栖(ちのせ・えりす)の師匠が倒れ、急遽彼女が地球に帰ることになってから早一ヶ月が経った。
 衿栖が心配だから、と茅野瀬 朱里(ちのせ・あかり)も一緒にパラミタを発ち、そのためヴァイシャリーの工房にはレオン・カシミール(れおん・かしみーる)ひとりが残ることになり、以来留守を守り続けている。
 任された以上きっちり運営しよう、と今まで以上に気合を入れて製作に向き合った結果――。
「ねえ、なんだか最近、ここの人形いいよね」
「わかる。このクマのシリーズ、可愛いよね」
 女の子向けにと出したシリーズがウケて、巷でちょっとしたブームとなっていた。
 今日も今日とて客入りは良く売れ行きも好調で、充実した気分で一日を終えるところだった。
 閉店後の静かな空間で、コーヒーを飲みながら読書をする。ここ一ヶ月の日課を嗜んでいたところ、工房の扉が叩かれた。
 ちらりと時計を見る。閉店してからもうそれなりの時間が経っていた。けれどもドアは、無遠慮なまでにドンドンと叩かれている。
 もしや、と思って扉を開けると、案の定そこには朱里の姿があった。
「遅いよー早く開けてよー。昼間暖かくても夜は冷えるんだよ?」
「それは悪かった」
「うー寒い寒……あっレオンひとりだけお茶飲んで! ずるい! 朱里にも淹れてー!」
「わかったわかった。わかったからとりあえず、荷物を部屋に置いて着替えてこい」
「はーい!」
 旅の疲れもなんのその、といった元気さで、朱里は自室へと戻っていった。
 レオンはふう、と息を吐く。
「大人の時間ともお別れか」
 苦笑と冗談の混じった独り言に、茶々を入れる者はいなかった。


「あーっ、幸せ! 朱里ねー、地球にいる間何が辛かったって、フィルのケーキが食べられないことだったんだよねー」
 今日三個目のケーキを食べながら、朱里はフィルに向けて言った。それを聞いたフィルが笑う。
「中毒だねー」
「中毒だよー。ねえフィルのお店って地球に支店とかないの?」
「あるよ? パリにないだけ」
「パリにも出してよー」
「考えとくねー」
 こんな会話も久しぶりだ。当たり前か、朱里は一ヶ月も地球にいたのだから。
「ていうか今、当たり前のようにパリって言ったね」
 朱里が今までどこにいたのかなんて、まだ一言も言ってないのに。フィルはにっこりと笑っただけだった。さすが情報屋、と朱里は肩を竦める。
「じゃ、衿栖の現状も把握してるのかな」
「ぼちぼちかなー。俺が直接見てきたわけじゃないし。結構悪いって聞いたけど、どうなの?」
「んー……情報通り、かな」
 衿栖の師匠の状態は、悪い。一応、まだ意識は清明としているし、調子が良ければ起き上がって話すこともできる。が、いつ急降下するとも限らない、予断を許さぬ状況であった。
「お師匠さんが死んだら、衿栖、工房を継ぐことになるかもなんだって」
「へえ」
「……帰ってこないかも、なんだって。パラミタに」
「それは、寂しいね」
「……うん」
 想像しただけで少し気持ちが暗くなった。そんな表情を見られたくなくて、そっと顔を俯かせる。
 ことり、と音がしたので視線だけ上げると、空になった皿の代わりにケーキの乗った皿が置かれていた。食べるかどうか悩んでいた、春季限定ストロベリータルトだった。
 顔を上げると、フィルが席の前に立っているのが見えた。相も変わらず綺麗な笑顔を浮かべている。
「そんな似合わない顔しないの」
「……うん」
「紅茶も飲む?」
「……うん」
「了解」
 タルトを食べて、アールグレイを一口飲むと、沈んでいた気分が回復した。我ながら単純だと思う。それか、ここのケーキが凄いかだ。たぶんどっちもだろう。
「……あ、そうだ。忘れるところだった」
 朱里は、持参した鞄からふたつの包みを取り出した。フィルに手渡す。
「これ、フランス土産。パラミタじゃあんまり見ないお菓子売ってたから、買ってきたんだ。パティシエさんと食べて」
「あの子の分まで買ってきてくれたの?」
「そうだよ。このお店はフィルだけで営業してるわけじゃないからね。いつも美味しいケーキをありがとう、って伝えてよ」
 いつもいつも、幸せな気持ちにしてくれてありがとう。
 今日も、沈みそうな気分を高揚させてくれてありがとう。
「朱里、あなたのケーキ好きだよ、って。よろしくね!」
 伝えたいことを伝えると、朱里は店を後にした。
 今日はこれから工房で営業だ。働くのは久しぶりだったが、人付き合いの好きな朱里には楽しみだった。
 でも、あの工房に衿栖はいないのだと思い、また少し寂しくなった。


 リンスが電話の傍を通りがかったとき、見計らったかのようにベルが鳴った。
 タイミングがいいな、と思いながら受話器を上げると懐かしい声が聞こえてきた。
『もしもし、人形工房ですか?』
 電話越しだからかいつもより上ずったような声だったが、紛れもなく衿栖のものだ。
「そうだよ。久しぶり」
 彼女が名乗るより早く挨拶を口にすると、電話の向こうで驚いた気配が伝わってきた。
『うん。……久しぶりね、元気してた?』
「なんとかね。そっちは? いろいろ大変みたいだけど」
『大変って……事情、知ってるの?』
「カシミールさんが教えてくれた」
 先月、衿栖が急に工房に訪れしばらく来れないと言い残して去っていった数日後、レオンが工房にやってきた。その日は立ち話程度の近況報告で終わり、また数日後彼が来た時、衿栖の事情を聞いた。
 大変だったね、とリンスが月並みなことを言うと、衿栖はうん、とやや沈んだ声で答えた。が、すぐに明るい声で、でもね、と続ける。
『フランスでの生活にも慣れてきたのよ。それにね、見習い時代、住み込みで働いていた時使っていた部屋が残っていてね。取っておいてくれたことも嬉しかったし、懐かしくて、なんていうか、そんなに悪くもないかなって感じ』
 これが、彼女の強がりなのか本音なのか、リンスにはわからない。でも、強がりじゃなければいいな、と思う。向こうで辛い思いをしていなければいい、と。
『工房のみんなとも上手くやれてるのよ』
「衿栖は人当たりがいいからね。どこででもやっていけると思うよ」
『それ、どういう意味かしら。意味次第では複雑な気持ちになるんだけど』
「言葉のままの意味だけど」
『じゃ、素直に喜んでおくわ。ありがと』
「どういたしまして」
『そういえばね、私、太ったかもしれない』
「は?」
『食べ物が美味しいのよ。マカロンとかチョコとか、あーあとキッシュ、美味しかったなあ……。それからね、本場のバゲット最高。パンならクロワッサンもオススメなの。どこで食べても美味しいのよ』
「へえ。食べ物が美味しいと、いいね」
『本当にね。やる気出るわー』
 このような他愛のない話は十五分ほど続いた。が、彼女の口から発されるのは、日常的な話ばかりだ。師匠がどうなったのか、今後どうなるのか、肝心な部分には一切触れられない。
 つまりそれだけ、向こうにとって芳しくない状態であるのだろう。だから、リンスからも訊くことはできなかった。
 いつ頃戻れそう?
 たったそれだけなのに、言葉が出てこない。たぶん衿栖は、返答に詰まるから。心配かけないように誤魔化すだろうから。わざと明るく、楽しい話をしそうだから。
『それでね、美術館に行ったら――』
 リンスが考えている間に、衿栖はまた別の話を切り出した。が、その言葉が全て発せられる前に、他の誰かの声が電話の向こうから聞こえた。
『はーい、今行きますー。……ごめん、工房の人に呼ばれちゃって』
 うん、と頷こうとした時、電話の向こうの誰かは「十三代目」と言った。衿栖が、「その呼び方はやめて下さいー」と返す。
 このやり取りで、わかってしまった。
 衿栖は向こうの工房を継ぐことになるのだろう、と。
『ごめんリンス、そろそろ電話切らなきゃいけなくなっちゃった』
「わかった。忙しそうだけど、無理しないでね」
『……うん。ありがと。……じゃあね』
「またね」
 やり取りを追え、衿栖が電話を切るのを待つ。が、一向に通話終了の機械音は流れない。
 言いたいことでもあるのだろうか。
 待ったが、衿栖が発言することはなかった。
 やがて電話は切れ、単調な音が断続的に続いた。
 機械音をしばらく聞いてから、リンスは受話器を下ろした。