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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

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Buch der Lieder: 歌を忘れた金糸雀

リアクション

 

 異変は目の前で起こった。
 任務で訪れていた空京の街で、次々と倒れていく街の人々を前に、セレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)は戦闘準備行動へ入る。
 が、次の瞬間セレアナの目と耳に飛び込んできたのは、パートナーセレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)のしゃくりあげる姿と嗚咽だった。
「セレン!? どうしたの、セレン――!」

 セレンフィリティ・シャーレットの記憶は、ある年齢より以前が固い扉の向こうに閉ざされている。
 記憶の始まりから辿れるのは、その組織で彼女が『酷い目』に遭っていたという事だけだ。
 見も心も無惨に傷つけられる日々。何より辛いのはその現実に否応なく向き合わされる事で、負の連鎖から逃れようと脱走を試みた彼女を待っていたのは、見せしめの為の凄惨な儀式だった。
 あの時、セレンフィリティは死ぬ筈だった。
 シャンバラから旅行にきていたセレアナに出会わなければ――。

「セレン、セレン!」
 胸の中で子供のように泣きじゃくるセレンフィリティが、セレアナの不安に上擦った声に反応して漸く顔を上げる。
 だが、セレアナに向けられたのは、何時もの自信に満ちたセレンフィリティの声では無かった。
「……お姉ちゃんはだれ?」
 本当に子供になってしまったような舌ったらずな響きに、セレアナは衝撃を受け息をする事も忘れてしまう。
「セレ……ン……?」
 やっとの事で紡いだ名前を、セレンフィリティは首を傾げ否定した。
「……わたし、セレンじゃない……セレンってだれ?
 わたしの名前はアリサ……アリサ・オライリーっていうの。
 ……ここはどこなの……ねえ、どうしてわたし、こんなところにいるの?」
 空京の街で何が起こっているのか。セレンフィリティがどうしてしまったのか。セレアナの考えが行き当たるのは、セレンフィリティが失われた記憶よりも過去へ溯っているのではという考えだ。

 そう、セレンフィリティはあの時まだ純粋な子供だった。
 平凡な家庭。平凡な幸せ。
 ある日の学校帰りに、全ては急変した。
 優しそうな女の人。困ったような、助けを求める声色でかけられた言葉。
 幼い子供の足が止まるには、それで充分だった。

「イヤァッ!!」
 突然の悲鳴に、セレアナの肩がぶるりと震える。セレンフィリティが限界であるように、何時もの強く美しいパートナーを知るセレアナもまた、この状況に泣き出してしまいたい程の不安に駆られていたのだ。
「パパ、ママ、助けて! 行かないで! アリサを置いていかないでえッ!!」
 セレンフィリティ――否、アリサは夢の中の両親へ届いてと力の限りに声を張り上げていた。
 消えてしまったのはアリサだが、彼女は彼女を包み込む日常という優しい世界から置いてけぼりになっしまった少女だったのだろう。
 混乱し、声を上げるだけのパートナーを前にするセレアナには其れは分からない。
 だがセレアナはセレンフィリティの背中にもう一度手を回し、優しく抱きしめ続けた。
「怖くないから……」



 端末の着信はアレクサンダル四世・ミロシェヴィッチ(あれくさんだるちぇとゔるてぃ・みろしぇゔぃっち)だったのに、電話ごしに話しているのがキアラ・アルジェント(きあら・あるじぇんと)だった時点で緊急事態の匂いは嗅ぎ付けた。
「他に事情あるかわからないけど、そうでなくても娘をキズモノにしたい父親なんていねえはずだわ」
 と、東條 カガチ(とうじょう・かがち)柳尾 なぎこ(やなお・なぎこ)はキアラに言われた現場へ急行する。道中、空京で何かが起こっているのは分かったが、カガチにとって気がかりだったのはなぎこの様子だ。
 アレクが怪我をしたと聞いてカガチについてきてくれたパートナーだったが、街の中へ一歩足を進めるごとに、彼女の顔は蒼白になっていく。
 建物の影でカガチとなぎこがやってきたのを見つけ、キアラが合図を送ってきたが、駆け寄っている間に大変な状況の筈のキアラとアレクの方が怪訝な顔をしている事に気がついた。
「おい、なぎさん大丈夫なのか……?」
 上から下まで血で濡れた男がそんな風に声を掛けてしまうくらいに、なぎこの状態は目に見えて異常が分かる程になっていた。
「……やっぱり……、無理だったかも……ごめんね…………ごめん…………」
 咄嗟に伸ばしたカガチの腕の中に崩れながら、なぎこは謝罪を繰り返す。
「ちょ、謝んなくていいから休んで!」
 朦朧とするなぎこの頭に、キアラの声が響く。
「ごめん…………」
 再び吐き出したなぎこの謝罪はしかし、最早三人に向けられたものでは無かった。
(……私守れなかった。 
 私、『あなた』の花嫁なのに……ごめんね……)
「――だめ、いかないで……、死んじゃうよ」
 その言葉で、カガチはなぎこが謝罪している相手が自分達では無いのだと気付く。共鳴を始めたなぎこが思い出しているのは彼女の『最初のだんなさま』なのだが、カガチはそれを知る由も無い。
 ただ、引っかかる。
 単純に、何かを感じて調子が狂うのだ。
(ずっと封印されてたみたいだし俺の知らない『過去』があって当たり前なのに、
 俺の知ってるなぎさんじゃない『なぎさん』がいて当たり前なのに、
 ……あれ、そもそも俺の知ってるなぎさんってなんだっけ……前にもこんな事思った気がするんだけどなあ、なんだっけ)
「カガチ!」
「へ?」
「なぎさん、ずっとこうか?」
 なぎこの額に手を当てたアレクが強い口調で見上げてくるのに、カガチは呆けて開きっぱなしだった口をなんとかひき結ぼうとしている。
「や、空京入った頃から、なんか妙に調子悪くないかと思ってたら――」
「……スヴェトラーナと原因は同じか?」
「ああなるほどターニャちゃんと同じ状態なのかーよかったーなぎさんは暴れださないでよかったー」
 一息に思ったまま言葉を吐いていると、腕がグイっと下に引っ張られる。同じ色の瞳が睨むような視線を向けてきた。
「私が……いくから…………、私が戦うから…………
 私は死んでもいいの、私は「兵器」だから……
 だから…………そんな悲しい顔しなくていいんだよ」
 なぎこが漏らす言葉の全てを拾えと、アレクは狼狽したままのカガチを彼女へ押しつけ強要する。
 スヴェトラーナ・ミロシェヴィッチ(すゔぇとらーな・みろしぇゔぃっち)を止めにきた、自らの獲物アレクの首を守りにきた、その筈なのだ。
 こんな事をしている場合じゃないのにやらなくてはならない事があるのに、白い布に落ちた一滴の雫は、染みとなり広がっていく。
「――『なぎさん』?」
 それは一体誰で、何者なのか。分からないままカガチが口に出した時に、地面に手を叩き付ける音が響いた。
「うわグロッ!」
「この方が楽なんだよ! 無駄な魔力使わずに済むからDamn it!(*畜生)デカい声出したら気持ち悪い」
 悪態をつきながらアレクは滴らせた血を手で受け絵の具がわりに魔方陣を地面に描くと、ぶつぶつと口の中で何かを紡いだ。すると魔方陣の血が組み上がる鎖のように、彼等の前――正確にはなぎこの周りを囲む。
「置いていく。残りたいなら残れ」
 アレクの簡潔な結論に、キアラが頷いて動き出す。スヴェトラーナが狙っているのは十中八九でアレクだろうし、もし彼女のように共鳴し攻撃衝動が生まれた者が居たとして、この防衛魔法があれば暫くはなぎこを守れる。
 はっきり言って今は足手纏いにかまけている余裕は無いのだ。
 遂に追いついてきたスヴェトラーナが横の壁を蹴り上げ此方に飛びかかるのに、カガチは抜き身にしていた刀でそれを下段から受け、力任せに跳ね上げる。
 勢い飛ばされたスヴェトラーナが体勢を整える一瞬の間に、カガチはアレクの腕を引いて駆け出した。キアラが急かす声を聞きながら、カガチは足を進めるが、心はその場に留まったままだ。
 ――引っかかりを残したまま、行ってもいいのか。
 瞬間振り返ったカガチの行動に、なぎこの声が重なる。

「そんな悲しい顔で私を置いていかないでいいんだよ」

 その言葉は誰に向けられたのか。それは言葉を口にしたなぎこにしか分からない事だった――。