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思い出のサマー

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思い出のサマー
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●スプラッシュヘブン物語(1)

 夏の早朝、鉢植えの朝顔の前にしゃがんで、一人の少女が手元のノートを熱心に何か書きこんでいる。
「今朝も複数、開花を確認。朝顔のつぼみは一度咲くと終わりでもう咲かない。先週咲いたものはもう、見る影もない姿に……」
 少女は銀色の髪、年齢は十二から十三といったところだろうか。一般的な意味では美少女になるのだろうが、中性的な顔立ちに短髪のせいもあって美少年といっても通りそうである。化粧気など無縁で、無地の白いTシャツに短パンという色気もなにもあったものではない服装だが、夏休みの中学生のようにも見える。
 けれど彼女は、そういった平和さとは無縁の存在だ。正確には、無縁の存在「だった」。
 イオリ・ウルズアイ(いおり・うるずあい)、かつてクランジΙ(イオタ)というコードネームで呼ばれた少女はいま、人生で初めての平穏のときを迎え、戸惑いつつもそれに順応しつつあった。
 朝顔の観察日記、情操教育の一環として与えられた課題に、イオリは自分でも驚いたほど熱中し、毎朝早起きしては、観察ノートに見たもの知ったものを熱心に書きこんでいるのである。
 正直、文字はかなり汚い。本人以外では判別できるかどうか。
 一方で絵は、誰に習ったものでもない我流だが、技巧はともかく対象を正確にとらえる高いデッサン力には卓越したものがあった。
 そんなイオリのガラ空きの背中に、
「おはよ〜イオリ、朝顔の調子はどう?」
 ぺたっともたれかかるようにして、リーラ・タイルヒュン(りーら・たいるひゅん)がのしかかってきた。
「……普段通りだよ」
 イオリは少し迷惑そうな顔をしたが、邪険にリーラを払いのけるでもなくそのまま話した。どうやらここでの生活で、リーラにはなにを言っても無駄だと学んだらしい。
「毎日毎日熱心よねぇ〜、私なんかそういう宿題のたぐいは、誰かのを写させてもらったりしてパーッと済ませちゃうんだけど」
「それは朝顔に失礼というものだろ」
「へぇ〜」
「なんだよ、ニヤニヤして?」
「いや、変われば変わるもんだと思ってね。『地獄への道は善意で舗装されている』だっけ? あんなこと言っていたイオリが……」
 ムッとしたのか、イオリは立ち上がってリーラを振り落とした。
「用件がないなら部屋に戻らせてもらうから!」
 ……だが、振り落としたつもりがさにあらず。リーラはしっかり、両手でイオリを羽交い締めにし、両脚までつかて彼女にしがみついている。
「待った待った! 怒ったのならごっめーん。今日はとっておきの話があるの」
「とっておき……?」
「そう、暑いから、プールにでも遊びに行きましょ」
「興味ないな」
「言うと思った! でもせっかくの夏なんだからもっと楽しまないともったいないでしょ。それに、目の前にプールのチケットがあるのなら、スルーするというのは『失礼というもの』じゃない?」
 イオリはしばし、リーラを組み付かせたまま立ち尽くしていたが、やがて、
「行くけど、すぐに帰るから」
 と小声で呟くように言った。

 同じ頃、高円寺 柚(こうえんじ・ゆず)は洗濯物を干している。
 休日でも、高円寺家の朝は忙しい。いやむしろ、休日だからこそ忙しい。
 たまっている洗濯物、普段より念入りな掃除、そして朝食。
 忙しいけれど充実している。トーストが焼き上がる頃、朝のトレーニングから 高円寺 海(こうえんじ・かい)が戻ってきた。
 シャワーを浴びて海が出てくると、ちょうど食卓が整ったところだ。
 トーストにベーコンエッグ、サラダ。ホテルの朝食のように立派な出来映え、パンは自家製だ。
「なんかいつも、当たり前のように家事をしてもらって……」
 すまない、と海は頭を下げる。
「気にしないで下さい。好きでやっているんですから」
 愛する人のため働くことが、楽しいのだと柚は笑った。
「今日も暑くなる、って話だよな。実際、ロードワークの後半は汗まみれだった」
 それで、と海は言った。
「今日は涼しいところに出かけないか?」
「涼しいところ?」
 あ、もしかして、と柚は手を打った。
 そして戸棚から、チケットを二枚、取り出して彼に見せたのである。
 スプラッシュヘブンのチケット、それも招待券だ。
「えっ……どうしてわかったんだ。ていうかチケットまで」
「海くんのことならなんでもお見通しです。っていうのは冗談で、一緒に涼しいところに行きたいなと思って用意してたんです」
「なにからなにまで……本当、オレには勿体ないくらいの奥さんだよ」
「そんなことないです。海くんこそ、私にはもったいないくらいの旦那さまです!」
 今日はとっておき、リボンのついた水色のワンピース水着を着て泳ごう。

 スプラッシュヘブンはパラミタでも屈指の超巨大プール施設だ。室内型なので年中無休、いつでも美しい水と各種プールを楽しめる。競泳用シンクロナイズド用といった立派な設備もあれば、とにかく滑りまくるウォータースライダーも満載、ファミリー用から初心者用プールも多く、恋人同士で遊びに行くにも最適だ。一日ではとても遊びきれないほどの水の都なのである。
 上に白いパーカーを羽織った状態で、柊 真司(ひいらぎ・しんじ)は水着に着替え、プールサイドに立った。
 内心、真司は舌を巻いている。
 リーラが「イオリとプールに行こうよ!」と言ってきたときには、まず無理だと思っていたのだ。
 真司たちは現在、イオリの身を預かり、天御柱学院に通わせていた。
 不安視されていた凶暴性、反社会性をイオリが発現することはまるでなかったものの、イオリには自分の殻に引きこもる傾向があり、なにかというとすぐ自室にこもってしまう。これを外に連れ出すのはいつもリーラだった。
 公園や山など、静かな場所にはなんとか連れ出せたが、人で賑わう場所をイオリは嫌がった。
 そんなイオリを、賑わい最高潮のプールに連れてくるとは……。
 といった偉業を成し遂げたという自覚があるのかないのか、リーラはイオリの水着姿を惚れ惚れしたように見つめている。なお、白がベースの天御柱学院公式水着だ。公式なのにビキニスタイルというのは、一体誰の趣味なのだろう。
「やっぱり元がいいからか水着姿も可愛いわね〜」
 というリーラも同じ水着だった。
 イオリはさして喜ばず、というよりむしろ顔をしかめていた。
「放っておいてくれ」
 リーラにまったく悪意はなかったのだが、イヤミに聞こえないこともないだろう。
 学校指定という意味合いを考えれば、水着は、すっきり体型(凹凸が少ない)イオリのほうが似合っているといえよう。とはいえ、大人の体型のリーラのほうが、セクシー度という意味では大きく勝っていたりするのである。
「リーラ、あんまりイオリをからかうんじゃない」
 真司はリーラをたしなめる。実際のところ本日の真司は、イオリの付き添いというよりは、リーラがイオリをいじりすぎないよう警戒する役割のために来たといってよかった。
 そんな指摘を聞き流しつつ、
「なんかあそこでグラビア写真の撮影をしてるみたいね〜、ちょっと見に行ってみましょ」
 などとリーラは、イオリの手を取って駆け出すのである。

 長い髪をした褐色の少女が、トロピカルイメージのパレオ姿で、ファインダーに収まっている。髪にはハイビスカスの花を飾り、なんとも華やかだ。
 それにしても見事なのは少女のプロポーションだろう。張りのある場所はしっかりのボリュームで、くびれるべきところは美しい曲線美のカーブを描いている。それでいて大きな目をした童顔なのが、なんともアンバランスで危ういほどの魅力を放っていた。
 モデルの少女は当初ぎこちない顔をしていたものだが、だんだん自然な笑顔が出せるようになっていった。髪をかき上げてみたり、胸を強調してみたり……と、なにやらセクシーな姿も見せるようになった。
 そのモデルが、ローラ・ブラウアヒメルクランジ ロー(くらんじ・ろー))であることは言うまでもない。
 その撮影を最前列で見物しながら、柚木 桂輔(ゆずき・けいすけ)は思わずため息を漏らした。
「前はただの水着モデルとしての撮影だったみたいだけど……今度は個人名を全面に出したカレンダーの撮影なんだよな……」
 つまりそれは、以前の撮影結果が好評だったということだ。
 近ごろローラにはブレイクのきざしがあり、ポスターやカレンダーで姿を見かけることも多くなっている。
 元塵殺寺院でクランジだったというマイナスの事実をローラは隠さず、むしろ積極的にこれを認めているという。日陰者として苦しんだ過去がそうさせるのだろうか。ローラの行動は、同様の境遇にある者たちの社会的地位向上にもつながっていると思われた。
 それは大いに結構だ。友人としてむしろ誇りたいくらいだ。
 けれど――ローラの人気が出るにつれ、桂輔にはローラが、だんだん遠くなっていくように感じられた。
 複雑な気持ちだ。
 昔はいつでも会いたいときに会えた。突然電話しても嫌な顔一つされなかった。
 けれど最近、ローラはテレビや雑誌の取材で会えないことが多い。電話しても、もっぱら出てくるのは留守番サービスだ。
 だからやっとローラと会えても、それはブラウン管越しか、雑誌の印刷されたページだったりする。
 そればかりではない。
 近ごろのローラは仕事の付き合いで、いわゆる業界人のパーティなんかに出席していることも多いようだ。引っ込み思案なローラがそれを楽しめているかどうかはわからないが、ともかくも『セレブ』な世界に属しつつあるといっていい。
 ――それに比べりゃ俺は、ただの整備科学生……。
 桂輔は、パーカーの袖をぎゅっと握ってしまう。立場に差がついてしまったような気がする。
 ギョーカイ人なんていう軽薄な人種にローラが関わることですら心苦しいのに……。
 それに、そうした軽薄人種の誰かが、ローラにちょっかいを出そうとしたら……いや、純真なローラを言葉巧みに騙して……――想像すればするほど、桂輔の心は重くなった。
 それにあの、赤毛の兄ちゃんという存在がある。悔しいが、彼とローラが並んで立つと、ぴたりとお似合いに見えるのは事実だった。
 ローラが彼といるところをスクープされても世間はなんとなく認める気がする。
 でも自分となら……いや、自分なんてスクープ種になるのか……!
 ――ああ、駄目だ駄目だ! 悪い想像ばっかしちゃ駄目だ!
 頭が爆発しそうになって桂輔がローラから目を離すと、すぐ近くに、パトリシア(パティ)・ブラウアヒメルクランジ パイ(くらんじ・ぱい))がいるのが見えた。
 パティは目の覚めるような赤いビキニの水着姿、なにか言いたげな顔つきでローラの撮影を見ている。見ながら、ビーフジャーキーをかじっていた。
 パティと話してどうなるものでもないが、ただ黙ってじっとローラの撮影を眺めている(眺めて、心苦しい思いをする)のが辛くなって、桂輔はパティに声をかけた。
「こんにちはパティ、今日は切さんは?」
「えっと、あんた……そう、ケースケ!」
「そう、桂輔。ローラの……」
 と言いかけた桂輔を遮って、
「ローに惚れてる人よね?」
「え! いや……ま、なんていうか……」
 桂輔の微妙な物言いにはパティは触れずに、
「ま、それは突っ込まないでおくわ。夫? ユー……いや切なら、別件があってちょっと遅れて……」
 まで言いかけたところでパティは、七刀 切(しちとう・きり)に気づいて手を振った。
「ここよー!」
 切は気づいた。現在切の頭の上には、見えない『!』マークが点灯している状態だが、このあたり混雑しているので、彼が到達するまでにはもういくらか時間がかかりそうである。
「それで、なんの話だったっけ? ローのグラビア撮影?」
「あ、まあ……」
 話しかけてはみたものの、これまでパティとはほとんど接点がなかったので桂輔は話すべき言葉に迷っていた。ゆえにパティの言に乗っておく。
「楽しくないでしょ? 桂輔としては」
 ずばり核心を突かれた気分だ。桂輔は否定すべきか迷ったが、正直に打ち明けることに下。
「ローラが人気になるのは嬉しいけど……ちょっと複雑な気分だよ」
「でしょうね。私も、本当はいい気持ちじゃない」
 パティがやや苦い表情をしていたのはそのせいなのだ。
「あの子の笑顔、見える? あれは求められてやっているだけの笑顔よ。正直、ああいう仕事、あの子は好きじゃないはず。ローは……ごめん、私は前からの呼び名で『ロー』のほうが慣れてるからこれで統一させてもらうわ……ローってば、断られたら嫌と言えない性格だから」
「それは、わかるな」
「私を含めクランジは、生後間もなく売られた子どもだったり、戦災孤児だったり、親に虐待されて育っていたりするから、みんな性格に歪んだところがあると思う。私も、美羽たち友人や、今の夫がいなければ、もっとずっと酷いままだったんじゃないかな……」
 桂輔は黙って続きを聞いた。
「でも、ローだけは別、あの子は人を疑わないし、頼まれたら大抵のことは引き受けちゃう。ときには頼まれてなくてもね、自分から苦労を買ったり。だけど自分自身、そのことに苦しんでる」
 だからわかって、とパティは言った。
「ローが好きなら、素のままのローが好きって言ってあげて。それが一番、あの子が聞きたい言葉だと思う。……あんたにこれを教えたのは、判ってくれるって思ったから」
「判った。俺……言えると思う」
「よし、じゃあヒントあげたんだからね! ちょっとは感謝しなさいよ。じゃ!」
 パティは手を振ると、切のところに駆けていった。
「ありがとう!」
 うなずくと、桂輔はまた元の場所に戻っていく。
 桂輔の背を見送って切は言った。
「あれ柚木じゃないか。なに話してたん、彼と?」
「アドバイスよ。ローの件の」
 そうかあ、と合点のいった顔でうなずいて切は、一歩下がってしみじみとパティの姿を眺める。
「う、うん、すげぇ似合ってる。やっぱりパティは元がいいから、超かわいい!」
 思わず目尻が下がってしまう。パティの青い水着は、胸元に大きなリボンをあしらったお嬢様風のデザインだった。腰に巻いたパレオは長く、人魚姫のようでもある。
「ありがと。まぁ元がいいってのは、あそこに『モデルのローラ』がいる現状を考えると微妙な気分だけどね−」
「い、いやそんなことないって絶対! ワイにはこれが精いっぱいだ。顔真っ赤なのも自覚してるし! パティがかわいいのがいけないんや!」
 実際に紅潮しながら切がそんなことを言うので、思わずパティは吹きだしてしまった。
「あーもういいわよいいってば! そんな直球で言われるとこっちも恥ずかしくて赤くなるわ」
 笑っているがパティも頬を染めている。
「わかってもらえたらいいんや……おっと、ローラといやぁ撮影中なんだな。すごい人だかりだ」
 思わず切はローラを見た。
 なんだか撮影は佳境に入っているらしく、ローラのポーズはますます刺激的になっていた。長い脚をさらけだしてみたり、柱にしなだれかかってみたり……目線も、なんだかちょっと色っぽい。
「ワオ、さすがは現役再注目モデル……」
 ほんのちょっと見とれてしまった。これは致し方ないところ。
「ほらやっぱりローを見てる」
 ジロっと半月型の目でパティが言ったので、切はたちまち現実に引き戻されて、
「い、いや、ワイの一番はもちろんパティだから! 愛してるのはパティだけだから!」
「じゃあ、証拠見せてよ」
 それなら簡単だ。
「愛してるよ、パティ」
 というなり彼は、公衆の面前であることも気にせずパティを抱き寄せ唇を奪ったのだった。
 不意打ちのキスだ。
 パティはしばし我を忘れ目を閉じたが、すぐに切を突き放して、
「ちょ……バカっ! 恥ずかしいじゃない!」
 さすがにこれには周囲の人たちも驚いて、彼らふたり遠巻きに取り囲んでいる。
 だが切は怯まない。むしろ皆に聞いてほしいとばかりに、力強く宣言したのである。
「バカップルだなと自分でも思う。けど反省はしない! だって夫婦だもの! これからもずっとこのぐらいラブラブで過ごしてやるさ!」
 誰かがパチパチと拍手すると、それが大きな喝采を生み出した。
 喝采に囲まれてパティは、ただもう真っ赤になって右往左往するばかりだったが、切はなんだか堂々と「ありがとう! ありがとう!」と返すのであった。