百合園女学院へ

薔薇の学舎

校長室

波羅蜜多実業高等学校へ

記憶が還る景色

リアクション公開中!

記憶が還る景色

リアクション

■差し伸べる手



 月崎 羽純(つきざき・はすみ)と二人でのんびりと公園内を歩いていた遠野 歌菜(とおの・かな)は、ふと、霧が出てきた事に街中なのに珍しいと隣りの伴侶に話題を振ろうとして、
「羽純く、ん?」
彼がいないことに二度ほど目を瞬かせる。
 白霧は淡く輝き、まるで光の空間だった。
「羽純くーん!」
 僅かに張り上げた声で遠くに呼びかけても返事は返ってこない。
「呼んでも反応がない……。ここは何所? 羽純くんは、何所に行っちゃったの?」
 繋いでいた温もりはまだ指先に残っていて、歌菜は駆け出した。
 まだ、近くにいるのかもしれない。いや、絶対に居る!
 転んだり、声が出せないような状態になってしまっただけかも!
 それなら早く助けてあげないと!
「ううん! もしかしたら同じ状況になっているのかも!」
 それならきっと彼も自分と同じようにこの霧の中、名前を呼んで姿を求めているのかもしれない。
「心配だし、何とかしなきゃ……」
 考えが声に出る。
 闇雲に歩きまわるのも良くないと改めて深呼吸に一度目を閉じた歌菜は、目を開けて急に変わった周囲の風景に大きく青い目を見開いた。
 どこか懐かしい町並み。綺麗に並んぶ太い街路樹。蒼い、空。
「誰か、居る」
 幾何学模様の石畳の上に、一人、立っていた。
(誰?)
 黒髪で、黒い瞳。
 とても似通っていて一瞬だけ羽純かと思うが、違う。
(優しい目)
 まっすぐと向けられる瞳の誠実なこと。相手が自分を受け入れているとわかる眼差しに、気持ちが落ち着いていくのがわかる。
 懐かしく、また、愛しいと、内より溢れ出てくる感情は不思議と心地よく、何故だろうと疑問が湧いた。
『母さん』
 呼ばれて、歌菜は自分の耳を疑った。
「え? 母さん?」
 聞き間違えでなければ、確かに母と呼ばれた。もし、そうなら、もしかして、と可能性が思い当たる。
「貴方は誰?」
 聞いてみるが、何となく返ってくる答えを知っているような気がした。
『俺は、貴方の息子』
 返ってきた答えに歌菜は息を吐く。
 微笑むその人の言葉を歌菜は心から信じられた。
 羽純くんの面影があるその子は、間違いなく私達の子供だ、と。
「……嬉しい」
 確信は喜びに変わる。
 愛しい人の色を、形を、音を、心を、全ては一度は夢を見、描いて胸にしまった想像が目の前に現れて、増して″母″だと呼ばれたのならば、この溢れんばかりに心を満たす懐かしさと愛しさはとても当たり前のことだった。
 自然であり、当然で、必然であった。

 もっと、ちゃんと見たい。

 触れたい。
 触れてみたい。

 息子が、手を伸ばす。
 触れ合いを求められ、同じく手を伸ばした歌菜は一歩を踏み出した。



…※…※…※…




「歌菜、どこだ?」
 淡く光る白霧の向こうへと呼びかけてみるが、応えは無い。
 突然白色の空間に一人佇んで、不安というより、共に歩いていた伴侶が居なくなった事に羽純は焦ってしまった。彼女の身に何かあったのではと想像するだけで居ても立ってもいられない。
 右も左も前も後ろもわからない場所を霧を掻き分けるように進むも、影一つすら捉えられない。
「クソ、どうなってる……ッ!」
 焦りが限界を迎えそうになった頃、唐突に視界が開けた。
 見覚えのある町並みを背景にして、一人、立っている。
「歌菜?」
 幾何学模様の石畳の上で、凛とした眼差しを向けくる相手に、思わず声をかけるも「……いや、違う」と、向こうから否定されるまえに、自分で否定した。
 似ているけど、違う、と。
 穏やかに微笑む顔には歌菜の面影が色濃くあるけれど、本人ではない。そっくりな程似てはいるが、細部が違う。歌菜の顔をベースに別の面影も重ねて見える。個々のパーツが微妙に違って、しかもその形は羽純は見覚えがあった。
 まさか、と最初は否定から入ってしまうが、まさか、と更にその考えを否定する。
「誰、だ?」
 不本意にも声が上擦った羽純に、
『私は貴方の娘』
答えが渡される。
「むす、め?」
 鸚鵡返しの質問に、肯定の頷きが返ってきた。
 ストン、と腑に落ちた。心が受け止めた。理解した。

 歌菜と俺の子供。

 反芻して、「ああ」と声が漏れる。
 こんな、
 こんな嬉しい事があっていいのだろうかと、逆に不安を覚える程に、羽純は感激に声を詰まらせる。
 娘であるのなら、歌菜と瓜二つでありながら、自分の面影もあって当然だった。

 顔を、よく見たいと思った。
 側に近づき、触れたいと思った。

 娘が、手を伸ばす。
 触れ合いを求められ、同じく手を伸ばした羽純は一歩を踏み出した。



…※…※…※…




 再び不思議な感覚に包まれて、ほぼ同時に二人は現実に戻っていた。
 互いの右掌が、互いの右掌に触れている。
「羽純くん?」
「歌菜?」
 いつの間にか向かい合っていたのだろうとか、なんでこんなに近づいているのだろうとか、今自分達を取り巻いているわかりやすい状況に周りの目に配慮するどころか、二人は自分達で気づきもしなかった。
 二人して「あれ、今何してた?」と現状を把握できず困惑を隠せない。
「羽純くん。今、今ね。とても……不思議な事……あれ? 何かとても……嬉しい事があったような気がしたんだけど……」
 不安に視線を落とした歌菜に羽純は触れ合っていた手を引き寄せて、堪らずに伴侶を抱きしめた。
「嬉しい事?」
 突然抱きしめられて、歌菜は一瞬戸惑うも、互いに手を取り合い喜びを分かち合いたい衝動に駆られていた彼女はこれを許した。
「うん。でも、どうしてだろ? 思い出せない」
「俺もな、覚えてないんだ」
「羽純くんも?」
「ああ。何かあったような気がするんだが、思い出せない。でも、不思議だが、悪い感覚では無かった」
 触れ合った温もりに淡く溶けてしまう泡沫の如く。綺麗さっぱりと刹那の記憶が抜け落ちていた。
「そっかー。なんだろうね。ふたりで白昼夢でも見てたのかな? 覚えてないのが、ちょっと残念」
「白昼夢を残念と言うか?」
 言う羽純に、歌菜は悪戯っ気に軽く笑った。
「もしかしたら羽純くんと同じもの見てたのかなって考えると、ちょっと惜しいって思わない?」
 心が満たされている。気持ちはまだ昂っていた。高揚に、胸は早鐘を打っている。
 いつまでも抱き合うわけにはいかず離れた歌菜は、うん、と決意した。
「よし、夢に負けないくらい、楽しい事をしよう!」
「例えば?」
「公園の外で、アイスクリーム売ってたのを見たよ。そこへ食べに行こう♪」
「そうだな。アイス、食べに行くか」
 抱き合うのをやめても離すのが惜しくて触れ合ったままの右手。温もりを交わし合う相手に微笑んで、一度は離すものの、いつもの様に手を繋ぎ、二人は歩き出した。



 逸れないよう手を繋いで歩いて行く。
 この先も共に。