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【蒼空に架ける橋】 第1話 空から落ちてきた少女

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【蒼空に架ける橋】 第1話 空から落ちてきた少女

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■第 1 章


 シャンバラとカナンの中間に位置する浮遊島群との国交が7000年ぶりに回復した、という朗報がコントラクターたちの耳に飛び込んできたのは、2024年春のことだった。
 その掲示には同時に、浮遊島群への観光旅行の勧誘が書かれていた。南カナンの南端にあるレシェフという町から週に1往復、壱ノ島との間で定期便が就航することになったという。
『地上の皆さん、どうぞおいでください。浮遊島民は皆さんのご来訪をお待ちしております』
 ちょうど春休みということもあり、コントラクターたちはこぞって浮遊島への観光を計画したのだった。



「あんな場所に島があったなんてね」
 小型飛空艇アルバトロスを運転しながら、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)は遠くにかすんで見える巨大な雲海に目をこらした。
 地球の上空に浮かぶパラミタでは、雲海とは通常足下に広がる雲を指す。かといって、パラミタ上空に雲が全くないわけではない。
 パラミタへ来たときからずっとあそこに雲の塊があるのは知っていたが、普段他国と行き来する航路からははずれていることもあって、特に気にしたことはなかった。
 ときどき、天気のいい日などに白い雲からちらちらと小さな浮遊石みたいな物がうっすら見えるときもあるが、それだけだ。
 しかしあの高くて厚い雲の層に阻まれたその内部には、人の住む島があるという……。
 ふと、最近パートナーになったウェイン・エヴァーアージェ(うぇいん・えう゛ぁーあーじぇ)なら何か知っているかも、と思った。自宅にこもるためならあらゆる努力を惜しまず、それ以外の場所ではあらゆる努力を拒むという筋金入りの引きこもりニートな悪魔だが、あれでもそれなりに歳はくっている。
 ただし、今述べたような理由からここへ呼び出すのは困難だし、無理やり召喚したところでヘソを曲げて何も話してはくれないだろう。
(もう1人、千年単位で歳とってるやつがここにもいるにはいるんだけど)
 雲海から目を離して反対側に乗る禁書写本 河馬吸虎(きんしょしゃほん・かうますうとら)に視線を移す。
 河馬吸虎は高所を飛んでいることにおびえてか、ぎゅっと目をつぶり、身を縮めて座っていた。本気で血の気を失い、今にも吐きそうなその姿は、元があの意気衝天な総石づくりのエロ魔道書とは思えないチキンぶりである。その姿には、アルバトロスに乗るのはこれが初めてでもあるまいし、とあきれるばかりだ。
 おそらくこの河馬吸虎に訊いたところで、ぶるんぶるん首を振るだけだろう。
 リカインはため息をつくとアクセルをさらに踏み込み、ハンドルを北へ向けた。
 彼女が向かったのは、北カナン国首都キシュにあるイナンナの神殿である。その門を守る神官兵に用向きを伝えたリカインは、神殿の一角にある応接室の1つへと通された。上着のすそを握りっぱなしの河馬吸虎とともにソファへ腰を下ろす間もなく再びノックとともに扉が開いて、神官 ニンフ(しんかん・にんふ)が入ってきた。
「よく来てくださいました、リカインさん!」
「ニンフくん。神殿にいたのね」
 北カナンの神官は国家神の威光と教えを説きながら放浪する。ニンフもそれにならい、常にカナン全土を回っている。リカインはニンフに会えればいいと思っていたが、あまり期待はしていなかっただけに、これはうれしい再会だった。
「はい。ちょうど昨日戻ったんです。また10日ほどで旅に出るところでしたから、すれ違いにならなくてうれしいです」
「うん。きみが元気そうでよかった」
 そのとき、河馬吸虎がツンツンと上着のすそを引っ張った。催促しているような態度に、リカインはなぜここに来たのかを思い出す。そしておもむろに用件を切り出した。
「浮遊島、ですか」
「ニンフくん何か知ってる?」
「ええ。イナンナさまから少し聞いています。ここ半年ほど、北カナンからも神官長さまたちが使者として何度か派遣されていたそうです。あちらの太守からの使者も来訪されていたそうですわ。それが何か?」
「国交が回復したのが7000年ぶりだっていうから。どんな場所だったのか、カナンになら記録か何か残っているんじゃないかな、と思って」
 ニンフは持ち上げていたカップを下ろし「少し待っていてください」と言うと、席を立って部屋を出て行く。戻ってきた彼女の手には、見るからにくたびれた、古い書物が数冊大事そうに抱えられていた。
「お尋ねの浮遊島についてですが、神殿にもあまり記録は残されていないんです。すみません。ここは5000年前に塵殺寺院の襲撃を受けて、そのときほとんどの書物は焼けてしまいました」
 恐縮そうに告げて、今にもばらけてしまいそうな本を開いていく。やがて1枚の挿絵が描かれたページでニンフは手を止めた。そこには、空に浮かぶ1つの大きな島が描かれている。
「これが浮遊島?」
「はい。名前を、アキツシマと言ったそうです。今は砕けてしまって、もうその名前で呼ばれることもなくなってしまったそうですが。
 そして、マホロバ領に所属していたようですね」
 ニンフの白い指が挿絵の下に書かれた文字をなぞる。そこにはカナン古語で『マホロバ領アキツシマ』との文字が書かれていた。


※               ※               ※


「へー。浮遊島って、マホロバ領だったんだ」
 リカインたちが北カナンでニンフと面会していたころ。
 東カナン首都アガデの都にある王城の一室でバァル・ハダド(ばぁる・はだど)と面会を果たした小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)はちょっと驚いて焼きドーナツを取ろうと伸ばした手をとめた。しかしそれは一瞬で、すぐに一番上に乗っていたチョコ味の焼きドーナツをひょいと取って口元へ運ぶ。
「立地的に、少し遠すぎませんか?」
 てっきりカナン領かシャンバラ領だと思っていたベアトリーチェ・アイブリンガー(べあとりーちぇ・あいぶりんがー)が重ねて質問をした。
 持参したお土産の箱のなかから全種類選んで皿に乗せたベアトリーチェは、それをバァルの手元に置く。
「ああ、ありがとう」
「ね? おいしい? バァル」
 さっそくバァルがカフェオレ味の焼きドーナツをつまんだのを見て、美羽は腰を浮かせて勢い込んで訊いた。
「そうだな。面白い食感だ。焼き菓子は東カナンも豊富だが、こういう食感は初めてだ」
「もちもちしてる、って言うんよ」
 バァルがどう例えたらいいか、言葉を探しているのを表情で察して、隣に腰かけていた七刀 切(しちとう・きり)が教えてやった。切も同じ、カフェオレ味の焼きドーナツを口にくわえている。
「もちもち?」
「餅(もち)のような食感って意味――って、そいやカナンに餅ってあったっけ?」
「あるけれど、一般的ではないわね」
 彼の疑問に答えたのはバァルを挟んで反対側に座ったバァルの妻アナト=ユテ・ハダドだ。
「こちらでのお菓子は、ほとんど焼いたり、揚げたりしてしまうから。お餅も細かく刻んで揚げてしまうのが普通ね」
「アラレですね」
 納得して、ベアトリーチェがうなずいた。
 彼らが考案し、東カナンのベルゼンの街との交易品の1つとして選ばれたこの焼きドーナツが東カナンでどう受け止められているか、美羽たちはとても気になっていたのだ。
 その問いに対し、セテカ・タイフォン(せてか・たいふぉん)が棚から1冊の資料を持ってきて
「かなり好評だ。ベルゼンでしか販売されていないということで、販売を開始して2カ月ほどの間、あの街へ旅行客が押し寄せていた。ピークが過ぎた今も店の前にはよく長蛇の列ができているらしい。街の土産物として有名になっている」
 と教えてくれていた。
 なぜそこまで好まれたかの一端には、東カナンの伝統的な菓子は揚げ菓子や焼き菓子だということがあった。焼きドーナツの外見が東カナン人には受け入れやすく、そして実際に食べてみて、その不思議な食感に2度驚き、また素朴な味が口に合ったというわけだ。
「とてもおいしいのよね。わたしも何度かいただいたことがあるわ」
 そう言って、アナトは申し訳なさそうに美羽を見つめた。
「ごめんなさい。せっかく持ってきていただいたのに、食べられなくて。食事制限があるの」
「ううん。気にしないで」
 美羽は急いで首を振り、そしてアナトの丸くふくらんだおなかを見つめた。
 それは美羽がツァンダでときどき見かける普通の妊婦より大きい。最初、部屋に案内されてきた彼らを座って出迎えたアナトのおなかを見て目を瞠った美羽の表情から驚きの理由を察して、アナトは「薬師が言うには、どうやら双子らしいの」とはにかみながら教えてくれた。
「つわりが終わってから、すごく食欲が増しちゃって……ちょっと食べすぎちゃったみたい。もうお皿1枚分も太っては駄目です、って言われちゃったわ」
「……触ってもいい?」
「どうぞ」
 手招きされて、美羽は椅子から下りてアナトの横に寄ると、そっとおなかに両手をあてる。服越しに伝わってきたのは、温かなぬくもりだけではなかった。手のひらを下から押し上げるような感触。
「動いてる」
「ええ。昼間はすごく活発なの。反対に、夜は静かになるわ。寝る時間だって、分かっているのね」
「ふーん……。
 いつ生まれるの?」
「来月の中ごろが予定だけど、どうかしら。初産は遅れるって言うから」
 会話する間も、美羽の目はアナトのおなかに釘付けだった。
 関心のほとんどが両手の下で動いている赤ちゃんにいってしまっている美羽を、コハク・ソーロッド(こはく・そーろっど)はじっと見つめる。
 美羽がアナトを憧憬の眼差しで見つめていることに、コハクは気づいていた。正確には、アナトとバァルの夫婦としての姿だ。バァルは妊娠したアナトを気遣い、口にはしないが、まるで世界に二つとない宝石のように扱い、さりげなく面倒を見ている。そしてそんなふうに夫に大切にされ、守られていることに安心しきっているアナトは落ち着いて、いつも和やかにほほ笑んでいて。
 今のバァルとアナトの間には、かつてはなかった2人だけを包むバリアのようなものがあって、とても心地よくなじんでいるようだった。
 今もまた、バァルはベアトリーチェや切と会話しながらも、視界には常に美羽と話しているアナトを入れている。
(こんなふうになりたい)
 ふと浮かんだ思いに、瞬間カッとほおが熱くなった。自分の傍らで、美羽がおなかを大きくしている姿を想像してしまったのだ。
 そしておなかに耳を近づけている美羽もまた、きっとそんな自分を想像しているに違いなかった。
「――それで、さっききみが訊いた質問についてだが」
 焼きドーナツを食べ終わったバァルは、指についた粉を払いながらベアトリーチェに言う。
「浮遊島アキツシマには世界樹の幼木があって、それはマホロバの世界樹の扶桑から株分けされたものだったらしい」
「それでマホロバ領なんですね」
「そうだ。
 しかし、交渉に島へ出向いた神官長から聞いた話だが、あの地は今は5つの島に分裂してしまっているそうだ。それぞれに太守がいて、各島を統治している」
「へ? 国家神じゃないん?」
 クリスピータイプの焼きドーナツを口に突っ込んでいた手を止めて、切が興味津々といった顔を向けた。
「世界樹があるなら統治者は国家神でしょ?」
「浮遊島群に国家神はいないようだ。国使は壱ノ島太守と伍ノ島太守の2人と主に交渉にあたったと言っていた」
「……そりゃおかしな話だねぇ。7000年前に国交断絶したとかいうのもおかしいし、最近になっていきなり国交回復したっていうのもおかしい。
 おまえ領主だろ? 裏話の1つや2つ、知ってんじゃねぇの? 教えろよ!」
 口をもぐもぐさせる切の前、バァルは少し考え込むように眉を寄せる。カナン代表として交渉にあたっているのは北カナンで、仲介しているのは南カナンだ。東カナンとしては両者から経緯を記した書状を受けたり、立てた使者から報告を受けているだけだが、中には国家機密的なものもあって、現時点でバァルもどこまで話していいか考えているのだろう。
 視線でセテカと会話をしたあと、セテカが軽く肩をすくめるのを見て、うなずきながら言った。
「断絶した理由の1つは、あの島を取り巻いている雲海のようだ。1年を通じて晴れない雲があるのは知っていたが、だれもあのなかに島があるとは知らなかった。入って1人の例外なく戻ってきた者のいない危険な地として、古来から禁じられていたこともある。
 あれは魔物の巣だということだ。何の用心もなく入れば、1分と持たず食い殺されるらしい」
「うは。おっかないねえ」
 そう口にしながら、全然そんなふうに見えない切に、バァルは苦笑する。
「まあ、おまえたちなら大丈夫だろう。殺そうとしても死にそうにないからな。おまえたちの相手をする魔物たちの方に同情しなくてはいけないようだ」
 バァルは自分の口にした言葉で、くくっと笑う。
「えー? なんだよそれー」
「事実だろう?
 だが、たしかにひとから伝え聞いた話では要領を得ないな。おまえがいろいろ疑問を持つのも当然だ。わたしか12騎士のだれかが直接出向ければいいんだが」
「分かってるって。今は城を離れたくないんだろ」
 バァルの視線をたどり、アナトを見て、切はうなずく。
 生まれるのは東カナンの世継ぎである。大事があってはならないと、12騎士がアガデを固めるのも当然。父親のバァルは言わずもがなだ。アナトの妊娠が確実となってからここ数カ月、産み月を城で過ごすため、通常の政務に加えて領地の見回りなどあれやこれやをすべて前倒しで行ってきたために、かなりのハードスケジュールだったらしい。そのため、笑顔の今でも瞳や口元に疲労の影があることに切たちは気づいていた。
 ベアトリーチェはそっと、焼きドーナツをバァルのカラになった皿に補充する。
「バァルさんやセテカさんは、島に行かれたことはないんですか?」
 ベアトリーチェの疑問にはセテカが答えた。
「今月末あたりに島の太守たちがそろって南カナンへ来る手筈になっている。そこでカナン国代表との正式な国家間会議が開かれることになっているが、まだ詳細は調整中だ」
「ワイたちがいろいろ見聞きしてきてやるよ。任せとけって」
「ああ。頼む」
 表情を和らげたバァルがうなずいたとき。それまで黙してテーブルに並べられた紅茶や焼きドーナツを食していたルーン・サークリット(るーん・さーくりっと)が口を開いた。
「……すっかりお疲れになっていらっしゃるんですのね、領主さま。この国に何があったかは切ちゃんから聞き及んでおります。一国を支える重責は、お若いその身にはさぞやこたえることでしょう。ご同情申し上げますわ」
 身にまとう落ち着きと流麗な言葉遣いはどう見ても十代初めの少女の持つものではなかったが、そう見えて、彼女は立派に齢数千歳を数える魔女である。
「ありがとう」
 応えるバァルに、ルーンはちろりと赤い舌先で口の端についた砂糖を舐めとると、長いまつげ越しに秋波としか言いようのない視線を投げた。
「奥さまがあのご様子では、日々さぞご不便をお感じになられているのではなくて?
 よろしければ私がお力をお貸しいたしましょうか? そちらの方面には少々長けておりますから、きっと領主さまをお慰め――」
 したたるような甘さと少しの毒を含んだ、子どもっぽい蠱惑的な声。媚態の仕草で最後まで言い切る前に、ゴンッ! と切のこぶしが頭の頂点に落ちた。頭に両手をあてて、思わず涙目になる。
「……いったーい。切ちゃんったら、ちょっとした冗談じゃないのー」
「ルーンさんが言うと冗談も冗談に聞こえんわ」
 それを褒め言葉と受け取ったのか、得意満面そうな顔になったルーンの首根っこを引っ掴み、切はそのまま扉へと向かう。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ! 帰りにまた寄るから、土産話期待してろよ、バァル」