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【蒼空に架ける橋】後日譚 明日へとつながる希望

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【蒼空に架ける橋】後日譚 明日へとつながる希望
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●伍ノ島


 浮遊島群を初めて訪れるジェイコブ・バウアー(じぇいこぶ・ばうあー)が行き先を伍ノ島に決めたのは、妻のフィリシア・バウアー(ふぃりしあ・ばうあー)が妊娠しているからだ。
 インフラがどの島より整っていて、都会的でシャンバラに感じが似ている、という情報から、万が一のときを想定してした選択だった。初めて訪れる場というのは心身に多少なりと負担をかけるものだし、似ている場ならいざというときジェイコブも動きやすい。
 そうして熟考し、選択した場所だったが、反面新鮮味に欠けるのは否めなかった。
 シャンバラで見る街並みとたいして変わらない光景は、旅行に求めるものの1つである、普段目にしないものを目にし、触れるときの驚きや感動といったものと無縁だ。
 自分が選んだのだが……。
 そういったことを考えながら黙して歩く夫の横顔に、彼が何を思っているかを読み取って、フィリシアはくすりと笑う。
「なんだ?」
「いいえ。何でも」
「何でも、という顔じゃないだろう」
 再度促されて、フィリシアは苦笑を浮かべながら正直に答えた。
「だから、もうつわりも明けて安定期に入ったから大丈夫です、って言ったのに、と思ったんです」
 フィリシアの言葉が正確に彼の心中を読んでいたものだったことに、ジェイコブは眉根を寄せる。それから、少々きまりが悪そうな顔で向きを前に戻した。
 そのまま、再び黙して歩く寡黙な夫に、ふうと小さく息を吐く。
 それが彼の優しさなのは分かりきっていた。男である彼に、妊婦について詳しく理解しろというのは土台無理な話であるし、だから心配しないでと言ったところでやめられるものでもないだろう。そんななかで、彼がやきもきする思いをなんとか克服しようと努め、努力してくれているのはフィリシアも知っている。
(でも、今からこんなふうだと、あなたが出てくるころにはお父さんはどんなふうになってるのかしらね?)
 心のなかでおなかの赤ちゃんに話しかけ、少しふっくらしてきたおなかの下の辺りをさすった。無意識ながら、最近こうすることが日課になってきていた。
 5カ月に入り、つわりもなくなって食欲が増したせいか、気分がいい。むしろ妊娠が分かる前の活発さが戻った気がする。定期検診の結果は良好。もしかすると、妊娠は自分に合っているのかもしれない――そんなことを考えていたら、くしゃみが出そうになった。
 手で口元を覆い、できるだけ小さくくしゃみをする。でもやっぱりジェイコブに気づかれてしまって、すぐにジェイコブは自分の上着を脱いで彼女の肩を覆った。
「着ていろ。ここは高地だから、風は冷たい」
「でも、あなたは?」
「俺は頑丈だけが取り柄だからな」
 風邪などひいたこともない、と言うように口端で笑う。そしてぐるりと周囲を見渡して、雑踏の合間にちらりと見えた、雰囲気のいいカフェにフィリシアを誘導した。
 外が見える窓際に席をとり、フィリシアと向かい合わせに座わる。そうすると、彼女の今の様子がよく分かった。
 妊娠が発覚して数カ月、具合の悪い彼女を気遣って体には触れていないが、確実にフィリシアの体はジェイコブがかつてよく知っていたものとは変わってきていた。今日のような、体のラインをあいまいにするマタニティドレスの上からもそれは分かる。全体的にふっくらと丸みを帯びて、女性的な体つきになっている。
 彼女は母親になるのだ。
 ジェイコブの子どもの母親に。
「……何?」
 ウェイトレスに注文を終えたフィリシアが、ジェイコブの視線に気づいた。
「いや」
 気づかれたことに少し面映ゆそうにして、ジェイコブはなんでもないと首を振る。
「嘘ですね。何でもなくはないでしょう」
「そんなことは……ただ、疲れているように見えると思っただけだ」
「それも嘘」
 分かっていると言うように、フィリシアはふふっと笑う。
「でも、少し疲れたのは本当ですわ。ですから、ここに誘ってくださってありがとうございます」
「いや……」
「それで、本当は何を考えていたんです?」
 どうしても聞き出すのをあきらめないつもりか。
 好奇心の目で見つめるフィリシアにジェイコブは苦笑し、正直に言った。
「子どものことを考えていた。男か、女か」
「ああ」
 子どもの性別が分かるのは4カ月を過ぎてからだ。6カ月になればほぼ確実だが、4カ月でも分からないことはない。しかし夫婦のなかにはあえて生まれるまで知らされない方を選ぶ人たちも多く、ジェイコブとフィリシアもそちらを選択した夫婦だった。
 生まれるまで、子どもについて考える楽しみは多い方がいい。
 子供が産まれたらどちらに似ているのか? 将来は何になるつもりなんだろうか? とか。とりとめもないことを、けれど2人で話すだけで幸福を感じる。
「あなた、それを知ったら全力で応援しそうですわね。
 でも、もし「お嫁さん」とか言ったらどうします?」
「それは」
「目に見えるようですわ。きっとフェリシティはあなたという壁に阻まれて、ボーイフレンドもなかなかつくれないでしょうね」
「そんなことは……」
 ない、と言い切れず、思わず口をへの字にしたジェイコブは、ふと先の話に含まれた言葉に気づいて腕組みを解いた。
「フェリシティ?」
「わたくし、名前を考えたんです。女の子ならフェリシティ、男の子ならフェリックス、って」
 どちらもラテン語で「幸運」を意味する、古風な名前だ。フィリシアがなぜその名前を選んだか分かる気がして、思わずジェイコブの口元が緩む。
「フェリシティとフェリックス、か」
 言葉に出してみて、その語感を確かめる。
 実はジェイコブもこっそり名づけ本を買って、どれがいいかいろいろと考えていたりもしていたのだが、それが一番ふさわしい気がした。
 そうつぶやいたきり、ジェイコブはそれ以上何も口にしなかったが、彼も気に入ってくれたのを確信して、フィリシアは輝く笑みを浮かべる。そして運ばれてきたハーブティーのカップを両手で包み込むようにして持ち、ガラスの向こうの通りへ顔を向けた。
 今度こうして旅行に出られるのはいつになるだろうか。子どもが生まれれば、ジェイコブと2人だけでこうしていることはできなくなるかもしれない。
(でも、3人ですわ)
 ジェイコブのとなりに座わって、一生懸命ジェイコブの真似をしている子どもの姿を思い描く。フィリシアは、早くその日が来るのが待ちきれなかった。




「アルくん、準備できた?」
 シルフィア・ジェニアス(しるふぃあ・じぇにあす)は、アルクラント・ジェニアス(あるくらんと・じぇにあす)のホテルの部屋のドアをたたく。
 数分待つとドアが開いて、少し照れたふうのアルクラントが現れた。
「やあ」
 ホテルに着いたときの服から着替えてはいるが、いつもと変わりない格好だ。
「アルくん? まだ着替えてないの?」
「いや、そういうわけじゃなくて。私はこれで十分だよ」
 ごそごそして、顔を隠す仮面を取り出して顔にあてて見せる。
 島の祭りが仮装であるのは前もっての連絡で知っていたし、それを否定する気もないが、いざ自分がするとなると気恥ずかしいというか何というかで、結局仮面しか用意してこなかったのだ。
 この仮面は、仮装は得意じゃないけれど、ほかのみんなと雰囲気だけでも共有したい、という思いの表れでもあった。
 シルフィアは虚を突かれたふうに「え?」と驚いた顔をしている。これ以上このことについて追及される前に、アルクラントはすばやくシルフィアの格好に話題を移した。
「おや、シルフィアはその衣装……いつぞやのハロウィンのときのか」
「あ、うん。そうそう、ちょっと前のやつだけど、せっかくだし、持って来ちゃった。
 覚えててくれたのね」
 シルフィアはその場で軽く左右に体をねじって、服を見せる。
「ああ。
 なんだか懐かしいな。あれから……もう、2年、か」
「そうね」
「むしろ、まだ2年かな?
 どうにもパラミタに来てからは濃い時間を過ごしてきた気がするよ」
「ふふっ。そうね、退屈しない程度に何かといろんなことがあって、そのたびに思い出も増えたものね、この服みたいに。
 ふたりの物も、みんなとの物も」
 2人、通じ合った思いでほほ笑みあう。するとそこに、シルフィアと同室のペトラ・レーン(ぺとら・れーん)がドアを開けて廊下へ出てきた。
「シルフィアー、マスター用意できたって?」
 アルクラントが仮装しないことを聞いて、期待していた分少しがっかりもしたけれど、ペトラ自身、ネコ耳付きフードをかぶっているのを仮装と言いはるだけの、いつもと変わらない格好であったため、「これだけでいい」とのアルクラントの言葉に、すぐ「うん」と同意を示した。
「さあ、じゃあ街へ出ようか」
「ええ」
「うんっ」
 アルクラントの言葉に、シルフィアとペトラは笑顔で応じた。


 彼らがまず向かったのは、ホテルのフロントでお勧めされた公園広場だ。
 なんでもこの付近はその広場を中心に放射状に道が形成されており、大路を歩けば必ずその広場へ着けるという。もし道に迷ったとしても、大通りを選んで歩けばすぐに自分がいる位置がどの辺りか分かるし、街の中央を目指せば広場にたどり着き、そこから元の道へ戻れるという寸法だ。
 そんな場所だから、自然と人々は広場に一番集まるし、その人々を目当てに露天商や屋台が店をかまえている。
「ちょうど今日は舞台が立って、午後から催し物も開催される予定になっていますので、お時間があられるのでしたらぜひご覧になっていってください」
 フロントの女性はそう言って、簡単な略地図の載ったパンフレットもくれた。地理に明るくない観光客に配るホテルのサービス品で、協賛店の広告や、どこに何の店がかまえられているかが載っている。そしてそれとはまた別に、サファリパークのリーフレットももらった。
「野生動物のツアーだって! 面白そう!」
 反応したのはペトラだ。リーフレットには園内の様子を写したフルカラー写真があって、園内で見られる動物の写真も数多く載っている。
 ただ、こちらは特に祭りに関して何か特別な催しをしているということは書かれていなかった。
「このリーフが古い物だからかもしれないが……今からだと時間も遅い。数日滞在する予定だから、こっちはまた日をあらためて行くことにしよう」
 アルクラントの提案に、ペトラは素直にうなずいて聞き分けを見せた。
 そして以降はシルフィアと一緒に、すれ違う人々の華やかな仮装や店のショーウィンドーに並べられた商品に目をとめては、感心したり見惚れたりと、実に女性らしい反応をしながら歩く。
 そんな2人の無邪気な様子が見られることに満足そうに後ろをついて歩きながら、アルクラントもまた、左右の街並みに視線を流した。
 2カ月前。オオワタツミはまず手始めに、伍ノ島を破壊しようと向かっていた。もしそれを食い止められなかったら、この島は甚大な被害を出し、ここは瓦礫の山となっていたかもしれない。笑顔ですれ違う人々の何人かはその犠牲になって、今こうして祭りを楽しみ、ここにいなかったかもしれない、と思うと、さらに感慨が深くなった。
 それと同時に、それらを食い止めること、彼らの笑顔を守ることができたのだという、少し誇らしげな感情も沸いてくる。
「どうしたの? アルくん。さっきからずっと黙りっぱなし」
 話しているのが自分とペトラばかりと気づいたシルフィアが振り返ってきた。
 あいかわらず、こういうことには敏感だと、軽く苦笑しつつアルクラントは今自分が考えたことを話す。
「こういうのを見ると、戦った甲斐があるってものだね。この日常を守る一端になれたことは、すてきなことだと思う」
「そうね。これってとってもステキなことだよね。みんなが笑顔だと、こっちもうれしくなってくるもの」
 自分のした考えに、うん、とうなずく。
「まだ少ししか見てないけど、みんな笑顔で、楽しそう。こんなすてきな島を護れたこと、誇りになるなぁ」
「うん! 戦ったのはこのため! って思えるもんね! ……って、言いすぎ?」
「ううん。そんなことないと思う」
 シルフィアの肯定に、ペトラは笑顔を強めて、軽やかにスキップを踏んだ。
「あー、これであと、ツク・ヨ・ミさんたちとも会えたらサイコーなんだけどなあ」
 ペトラのつぶやきに、アルクラントたちもこの島出身の少女たちのことを思い出した。
「そういえば、ウァールにもツク・ヨ・ミにもあれ以来会っていないな。 
 ウァールが自分の村へ連れ帰ったそうだが……あの2人、どう思う?」
「どうって、普通にお友達じゃないかしら」
 話を振られて、シルフィアも彼らについて思い出しながら答える。
「ウァールくん、まだ14だし。年相応の男の子っていうか、まだそういう感情には芽生えてなさそう」
「ああ、たしかに。未来がどうなるかは分らないけれど、彼は女の子よりも、空や機械の方に目が行ってるからね」
「ツク・ヨ・ミちゃんはああ見えて3000歳を超えてる魔女だから、精神年齢的には大人だけど……でもやっぱり、2人の間にはそういう魔法的なものは生まれてなかったと思う」
「魔法?」
「恋の魔法。それって、どんなに仲が良くて気が合っても、ある特定の男女の間にしか働かないものよ。
 それにツク・ヨ・ミちゃんのお相手は、別にいるんじゃないかなぁ?」
「にゃ? ツク・ヨ・ミさんに、そういう相手がいるの?」
 話を聞きつけて、ペトラが戻ってきた。
「あら、ペトラも気になる?」
 天真爛漫で、そういった色事には関心がなさそうに見えて、実はペトラにも、いわゆる魔法を感じる特別な相手がいた。
「そうなんだー。
 それなら、僕もお話したいこといっぱいあるし。やっぱり会いたいなぁ」
「今度、ほかの人も誘ってみんなで女子会するのもいいわね」
「女子会? パジャマパーティー?
 わーーーいっ、やろやろっ! 約束だよ、シルフィア! 僕、ポチさんとの話とかもしちゃうもんね! へへへ」
 はしゃいでくるくる回ると、再び足取り軽く歩き出す。
「きみたち女性は、いいね」
 アルクラントの率直な感想に、ぷ、と吹き出したシルフィアは、口元にあてた手の下で、突然胃からせりあがってくる何かを感じてその場に立ち止まった。
「シルフィア?」
「…………。
 なんでもない。ちょっとの間、気分が悪くなっただけ」
 前かがみ気味になっていた背を伸ばして首を振る。
「船でつまんだお菓子か飲み物が、合わなかったのかしら?」
「大丈夫かい?」
「ええ。もう平気」
 と首を振ったあと、もうこの話は終わりと話題を切り替える。
「あー、おなか空いたなあ。オレンジとかレモンとか、何か酸味のきいた果物か食べ物はないかしら?」
「フルーツのジェラートがあっちにあるよ!」
「え? どれどれ」
 ペトラと一緒に通りを渡って、向かい側の屋台へいそいそと向かうシルフィアの背中を、アルクラントは何か心当たりがあるような、考え込む面持ちで見つめていた。