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退行催眠と危険な香り

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退行催眠と危険な香り

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42 :大佐:2020/05/17(日) 11:32:18 ID:BusUZiMa
退行催眠を受けに行った人に話を聞いてきた。
室内で焚くアロマキャンドルが気になるな。
話によると、柑橘系の匂いがするそうだ。
さらに情報が集まったら、リアルタイムで報告していくよ。

3.

 リュース・ティアーレ(りゅーす・てぃあーれ)は落ち込んでいた。何かをする気にはなれず、口を開くと溜め息ばかりが出る。
 しかし、その原因は五月病ではない。
 幼い頃より情緒不安定に育ったリュースだが、退行催眠で見えたのは自身の中に確かにある狂気だった。何一つとして正しく認識できない状態に陥ると、リュースは完全なる狂気に身体を奪われる。
 おぼろげだったそれを確信してしまったリュースは、いつまたあの狂気を引き起こすか不安でたまらなくなったのだ。
「リュー、入っても良いか?」
 扉を叩く音がし、ヴィナ・アーダベルト(びな・あーだべると)が入って来る。
 リュースはただ彼の方を見て、少し困った顔を見せる。
「部屋から出てこないから、心配して見に来たんだが……どうした?」
 リュースの向かいへ腰掛け、ヴィナは精神的に落ち込む彼を見る。
「……退行催眠を、受けて」
「ああ、噂の」
「それで……昔のことを、思い出したんだ」
 ヴィナが気づいたような顔をする。リュースと長年付き合いがある故に、その続きが読めたのだ。
「狂気を、克服したくて……でも、無理だった。それどころか、いつまたおかしくなるか」
 切なるリュースの声が静寂に響く。
「なぁ、リュー」
 彼は答えなかった。ヴィナの存在を無視し、独白を続ける。
「本当は、みんなからリューって呼んでほしい。けど、呼ばれるのが怖い」
 今は亡き両親が呼んでくれた愛称『リュー』、それは狂気へと繋がる鍵。
「そう呼ばれることで、また嫌なことを思い出してしまったら……また、大切な人たちを傷つけてしまったら」
 矛盾する思いを胸に抱いて、リュースはまた両の瞳に涙を浮かべる。
「でもオレは……っ」
 ヴィナが彼の肩を掴んだ。「リュース、少し眠ったほうがいい」
 はっとしたリュースが顔を上げる。
「ヴィー……うん、そうだね」

 ヴィナが部屋の外へ出ると、椎名真(しいな・まこと)とばったり鉢合わせた。
「ヴィナさん、リュースは?」
「今は眠ってるよ」
 真はヴィナの顔を見て、何かあったことに気付く。その様子を感じてか、ヴィナは真へ言った。
「ちょっと、話したいことがある」
 と、部屋から少し離れた所へ行く。
 真も付いて行くと、ヴィナは切りだした。
「俺、あいつのこと、リューって呼んでるだろ?」
「ああ、そういえば。それが何か?」
「この呼び名は、あいつにとって大切なものなんだ」
 そう言ってヴィナは真を見つめた。信頼する瞳だった。

 誰かがオレを見つめる、優しいイメージ……。
「あ、起きた?」
 見上げた視界の端に、友人の顔がある。リュースははっと起き上がった。
「真……どうして、ここに?」
「部屋にずっと引きこもってるって聞いたから、心配でさ」
 そう言って真はいつものように笑う。
「ヴィナさんから聞いたんだけど、リュース……じゃなくて、えっと」
 と、戸惑う真に、リュースは首を傾げる。
「リュー」
 真から発せられた言葉に目を丸くするリュース。それは、今は亡き両親の愛情を思い出させる呼称。
 どうして、その愛称を……いや、そんなことどうだっていい。
「その、さ。あんまり抱え込むなよ。退行催眠も怪しいって噂だし、無理することないと思うんだ」
「……う、うん」
「だからリュー、何かあったら一人で考えるんじゃなくて、相談しろよ。例えば、俺とか……さ」
 照れたように、それであって頼りになる顔で笑う。
「……っ、真」
 リュースの頬に涙が伝う。誰かのおかげで塞がれていた扉が開いた。それはきっと、この先閉ざされそうになっても、大切な人たちの手で開け放たれるだろう。

 エヴァルト・マルトリッツ(えう゛ぁると・まるとりっつ)は言った。
「退行催眠はしてくれないのか?」
「ええ。だって、あなたはただ自信がなくなっているだけでしょう? 五月病みたいなものです」
 と、トレル。
 エヴァルトはがっかりしていたが、それと同時にこうなることを初めから知っていたようにも思う。
「それなら、どうしたらいい?」
「そうですね。自信がないのは、主にどんなことに対してですか?」
 トレルから視線を外し、考え込むエヴァルト。
「……いろいろ、だな。何というか、何をしてても劣等感がついて回る、というか」
「その原因は、何だと思います?」
「原因は……双子の妹、だな。それが、あいつにそっくりなんだ」
 と、待合室にいるはずのコルデリア・フェスカ(こるでりあ・ふぇすか)を指さす。
「剣士の家に生まれたんだが、俺は全く向いてなかった。なのに妹の方は天才的で、劣っているんだと思い込んでいた」
 扉にぴったり耳を付けたコルデリアは、聞こえてきた言葉に目を丸くする。自分が妹とそっくりだなんて、初耳である。
「だから全てにおいて自信が持てなかった。今はもうそんなことなくなったと思っていたんだが……」
 と、溜め息をつくエヴァルト。
「コルデリアのおかげで、あの頃に戻ったようだ」
「なるほど。それで自信がなくなったというわけですね」
 エヴァルトが頷いた。トレルはどうしようか考えながら、彼をよく観察する。
「剣なんて、私も扱えませんよ。それどころか、あなたにはもっと他にできること、やるべきことがあるはずです」
「やるべきこと?」
「あなたは今まで、どのようにして生きてきましたか? きっと、自分なりに目標を掲げて、それに向かってがんばって来たんだと思います」
 そしてトレルは言う。
「今はゆっくり休んでください。妹さんに対する考えが変われば、自信も持てるようになりますよ」

「どうして、妹さんとそっくりなわたくしと契約したのですか?」
「コルデリア……聞いてたのか」
「ええ、だって気になったんですもの」
 エヴァルトはコルデリアへ正直な答えを返す。
「あえて嫌な過去を感じながら過ごすことで、精神的に強靭になろうと思っていたんだ」

 エヴァルトの次にやってきた松永亜夢(まつなが・あむ)は、男性に憧れていた。
「その男性人格とお別れしたいんですね。分かりました」
 トレルはすぐにアロマキャンドルに火をともす。
「リラックスして座ってください」
「はい」
 亜夢が緊張を解き、背もたれに少しもたれかかる。
「まず、両目を閉じてください」
 言われたとおり、そっと両目を閉ざす亜夢。
「私がこれから三つ数えると、あなたは彼のいる場所へ辿り着きます」
 いち、に、さん……。
 亜夢はこれまで共に成長してきた人物を、初めて視覚的に捉えた。
「彼が見えますか?」
「いる……見える」
「彼はどんな表情ですか?」
 あの頃憧れた男性は、この時が来るのを待っていたように穏やかな顔をしている。
『……亜夢』
 もういいよ、と言うように背を向ける彼。しかし、遠ざかることはしなかった。
「それでは、彼にお別れを言いましょう」
「っ、さようなら……」
 亜夢は思いきって背を向けた。途端に駆け出す……言うことを聞かない足が憎い。
「彼とはもう会えませんが、いつだってあなたのことを見守ってくれます。数字を三つ数えたら、あなたは元の世界へと戻ります」
 いち――本当は知ってた――、に――あなたはあたしの――、さん――大事なあたしの一欠けらだって――……。
 目を覚ました亜夢は、何故だか気持ちが軽くなっていた。
「気分はどうですか?」
「うん、すっきりした……かな」
 穏やかに笑みを浮かべる亜夢に、トレルもにっこり微笑んだ。