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曲水とひいなの宴

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曲水とひいなの宴
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 第1章 宴の支度
 
 
 3月3日――。
 普段は落ち着いた客層がゆったりと過ごす、和風情緒に溢れたホテル『荷葉』。けれど今日はその中に学生たちの姿が多く見られた。
 
「今日はありがとうございます」
 手伝いに集まった学生に、七宝文様の長春色江戸小紋にたすき掛け、という出で立ちで白鞘 琴子(しらさや・ことこ)が笑顔を向ける。
「お客様にも参加される皆様にも、楽しい宴となると良いですわね」
 その為にもまずは会場の設営からだ。
「毛氈等はこちらにありますので、これを遣り水の処まで運んでいただけますかしら。それからこちらが流し雛に使う形代と和紙人形、こちらは曲水の宴が終わってから使用しますので、ひとまず庭の隅に……」
 行事に使用する荷物を示し、自分でも1箱持とうとした琴子の荷物を、一式 隼(いっしき・しゅん)が代わりに持つ。
「いつも白鞘先生にはお世話になっていますから、今日は色々とこき使ってやって下さい」
「そんなこと言うと、思いっきり使ってしまいますわよ」
 覚悟して下さいましねと笑う琴子に、隼のパートナー三月 かなた(みつき・かなた)が即答した。
「はい、遠慮無く使ってやって構いませんわ。普段でも食器洗い等しておりますし」
「まあ、そうなのですか……。では頑張って下さいましね」
 色々と、と琴子は小さく付け加える。
「力仕事をする者はこれを使ってくれ。怪我をしてからでは遅いからな」
 橘 恭司(たちばな・きょうじ)は準備してきた滑り止めつきの軍手を皆に配った。
 これをつけた方が力も入りやすいし、うっかり荷物を足の上に落としたりする可能性も低くなる。恭司自身も軍手をはめ、積んである中から重そうな荷物を選んで抱えた。
 毛氈や傘、縁台等々、運ばなくてはならないものは多い。
「荷物はこれに載せてくれれば、あたしが遣り水の処まで運ぶよっ」
 ミルディア・ディスティン(みるでぃあ・でぃすてぃん)は庭への出入り口に置いてある大八車を指した。これならば多くの荷物も効率的に運べる。
「運んだらすぐに敷物を準備したいんだけど、どこに敷いたらいいのかな?」
 自分でも荷物を積み込みながらミルディアは尋ねた。
「まずは曲水の宴、それから流し雛となりますから……ああ、こちらの設置図ですわね。ホテルの位置がここですから方角が……」
 ぐるぐると見取り図を回して見比べている琴子の手から、失礼しますと本郷 翔(ほんごう・かける)が図の書かれた紙を取った。
「こちらの方角でございますね。この設置図は設営の皆様にお配りした方がよろしいでしょうから、コピーを取らせていただいても構いませんでしょうか?」
「ええ。では曲水の宴の設置図と、こちらが流し雛の際の設置図、あとは会場全体の見取り図……この3枚をお願い致しますわね」
「かしこまりました」
 優雅に一礼すると、翔はコピーを取りに行く。
「着付けはどうなってるのかなぁ。人数は足りてる?」
 自分も小袖にたすき掛けという姿の清泉 北都(いずみ・ほくと)が気になる様子で尋ねた。
「ホテルと契約している人が来てくれてはいますけれど、衣装や着物を着る方は多いですからきっと、大忙しですわ」
「それなら僕は着付けの手伝いに行ってくるよ。パートナーの着物も着せたいし」
 琴子の返事を聞いた北都は更衣室に割り当てられた控え室へと向かう。
 その他の手伝いの学生たちも、設営に料理運びにとそれぞれの仕事へと散っていった。
 
 
 ミルディアは荷物を満載した大八車を、遣り水に沿って引いて行く。
「次の場所はこの辺りですねぇ」
 設置図を手に、付近を見渡して位置を確認していたメイベル・ポーター(めいべる・ぽーたー)が声を掛けると、ミルディアは大八車を止めた。
「了解っ。……よいしょ、っと」
「待て、俺がやる」
 毛氈を下ろそうとするミルディアを止め、恭司が代わって抱えた。
「ありがと〜。でも今日はあたしは裏方に徹するつもりで来てるから、たくさん使ってやって構わないからねっ」
「ああ。だがこういうことは俺の方が向いているから」
 恭司は楽々と毛氈を下ろした。それを隼がごろごろと転がして敷く。
「もう少し遣り水に近づけた方が良いんじゃないか? 重い衣装を着ていると手も伸ばしにくいだろう」
「そうですね。では……この辺りにしておきましょうか」
 恭司と隼が毛氈の位置を決め、よれの無いように敷いている間に、ミルディアとメイベルはまた次の設置場所を探して進んでゆく。
 きれいに敷かれた毛氈には、琴子が短冊とペンを置いていった。
「毛筆で、といきたいのですけれど、書き慣れていないと墨で衣装を汚してしまいそうですものね」
 伝統はもちろん大切だけれど、無理したら楽しくなくなってしまうから、と琴子が用意したペンはサインペンと筆ペン。情緒にはやや欠けるが扱いは毛筆よりも遙かに楽だ。
「あ、白鞘先生。こっちにいたのか」
 どうりで中を探してもいないはずだと言いながらやって来た本郷 涼介(ほんごう・りょうすけ)は、風呂敷包みを解いて箱を取り出した。
「今日はよろしく。桜餅を作ったから良かったら皆で食べてくれよ」
「桜餅? ありがとうございます。わたくしも大好きですから後でいただきますわね。今日はどうぞ楽しんでいって下さいませ」
 琴子は嬉しそうに箱を持って、ホテルの建物がある方へ歩いていった。
 庭の一番ホテル寄りの場所には、料理を載せる為の長机が置かれ、その上にも緋色の布が掛けられている。
 料理を並べるのに大忙しの学生たちに、これはみんなで食べるおやつだからお客様には出さないでと箱を見せて、琴子はホテル側の控え室に桜餅を置きに行った。
 控え室では四条 輪廻(しじょう・りんね)九条院 京(くじょういん・みやこ)文月 唯(ふみづき・ゆい)、の3人が桃舟作りをしていた。
 輪廻は主に桃舟のベースを作り、それに京が飾り付け。
「ふっふっふ……これで良いであろう」
 何故か楽しそうに含み笑いしながら、輪廻が出来上がった桃舟のベースをチェックしていると、舟に桃の小枝を飾っていた京が何かを見つけて指さす。
「? ここについてるのは何?」
「それには触るな!」
「っ!」
 急に口調を荒げた輪廻に、京が目を丸くした。
「触ると何かまずいことがあるのか?」
 京に代わって唯が尋ねると、輪廻はいや、と口を濁し。
「あまりあちこち弄られると、舟の航行に支障が出る可能性があるのだ。特にこの辺りには手を触れて欲しくないのだよ」
「この辺り、だな。分かった。京、いいか?」
「分かったのだわ」
 驚きから冷めた京は、また桃舟飾りに戻った。
 皆の願いを載せて進む桃舟。せっかくだから綺麗に飾りたい。
 本物の桃の小枝や作り物の飾りを取り混ぜて、京はどんどんつけてゆく。そしてゴージャスというか、やたらと派手に桃の花をごってりとつけた桃舟が完成した。
「芸術は爆発なのだわー」
「……確かに爆発してるようだな」
 ご機嫌な京に見つからぬよう、唯はさささっと飾りを直し、桃舟の体裁を整えるのだった。
 
 
 曲水の宴に参加するには、平安風の衣装を身につけなければならない。参加人数が多い為、着付け部屋には人がごった返していた。
「あれ、こっちだって聞いたんだけどなぁ」
 首を伸ばしてきょろきょろしているエル・ウィンド(える・うぃんど)の肩が不意にぽんと叩かれた。
「のぞき、かっこ悪いでござるよ」
「ち、違う! 俺は……って、あれ?」
 振り返ってみればそこにいたのは、同じのぞき部の椿 薫(つばき・かおる)だ。皆が平安衣装を着付けている中、薫が着ているのは百人一首の中に出てくる僧侶が着ているような無紋単の白の法衣に五條袈裟をかけた衣装……『僧侶鈍色五條袈裟』だ。
「坊主頭なのでコレのほうが似合うと思って用意したでござるが、まるで坊さんになった気がするでござる」
 それで説法でもしたくなった、と言う薫に、エルはなんだと脱力する。
「びっくりした……って別に俺は本当にのぞきをしてたんじゃないぞ」
「分かっているでござるよ。何か探しものでござるか?」
「いや、琴子センセーがこっちだって聞いたんだが……」
 流し雛というものに興味を持ち、琴子に詳しくやり方を聞こうと思ったのだが、人が多いわ、女性用の着替え部屋には入れないわでさっぱり見つからない。
「先ほど、庭の設営に行ったでござるが……忙しそうでござったから、話を聞くならもう少し後にした方が良いでござるよ」
「主催ともなると大変なんだろうな。じゃ、後にするよ。ありがとな」
 ここだけ見ていると仮装行列かと思うほど、賑やかな衣装の群れの中を、エルは泳ぐように離れて行った。
「着物で散策しようと思ったんですけれど……取り込み中のようですね」
 自分もパートナーも着付けが出来ないから、と浅葱 翡翠(あさぎ・ひすい)は着付け部屋を覗いたのだけれど、ホテルに派遣されてきている着付係は平安衣装の着付けに手一杯のようだ。
 諦めようかとした処に、
「普通の和服だったら着せられるよ」
 北都に声を掛けられ、それなら、と翡翠は着付け部屋に入った。
 用意されているレンタル用の着物の中から好みのものを翡翠が選ぶと、北都はそれに合わせる帯や小物を見繕った。春の行事なので、なるべく季節感を出せるようにと気を配りつつ、着る人に似合う組み合わせを考える。
「良かったら、女の子の和服も着せるけど」
 北都はまったく気にしない様子で言ったけれど、これは女性側から断られてしまった。男性の着付けをする者の中には女性もいるが、その逆はやはり抵抗があるようだ。
「衣装の追加はここに置いておけばいいですか?」
 着物の入った箱を抱え、クリス・ローゼン(くりす・ろーぜん)がやってくる。1人分が20キロほどにもなる十二単だから箱はずしりと重いけれど、中に入っている着物の華やかさ、そして今日の行事でこれを晴れ晴れと身につける人のことを思えば、そんな重さも苦にはならない。
「ありがとう。後はこっちでセットしておくから」
 クリスから受け取った箱を開き、白菊 珂慧(しらぎく・かけい)は衣装をセットしていった。
 着付けの人がやりやすいように、薄箱に順に着物を重ねてゆく。着物の枚数は多いが小物は少ない。あれだけの衣装を重ねながらも、最後にそれらを支えるのは裳についた小腰という紐1本だけだからだ。
 山吹の襲は紅、薄紅梅、紅、黄色と重ねていって、最後に単の緑を。着付けていく順番だから、出来上がりとは逆になるよう衣装を載せてゆく。桜重なら白、薄紅、極紅、薄紅、緑、の順で。
 そんな色の重なりは、派手でありながらもどこか落ち着いて、しっくりと馴染む。
 見とれてしまいそうな色彩の妙だ。
 セットした箱は着付け部屋に運び込まれ、曲水の宴に参加する皆、そして参加はしないが着て会場に入りたいと希望した者に着付けられる。
「折角だから着てみたけど……重いよ〜。それに動きにくいし。本当にこんな服を着て生活できてた人いるの?」
 着付けを終えて部屋から出て来たフィサリア・リリス(ふぃさりあ・りりす)は、ずっしりと重い衣装に閉口した様子だった。
「いる、っていうか、身分にもよるけど、昔はコレを毎日普通に着て生活してたんだよ」
 と答えつつも、束帯姿の羽鳥 浩人(はとり・ひろと)もかなり動きにくそうにしている。衣装は興味深いのだけれど、これを毎日着て生活するのは論外だ。こんな衣装を身につけていては、剣はまともに振るえない。
「昔の人はこれに加えて、長い髪の毛も引きずってたんだよね。髪の毛を洗ったり乾かしたりするのも大変だったんだろうな……。髪の毛も重かっただろうし」
 十二単の重さを確かめるように、フィサリアは何枚も重なった袖を持ち上げ、感心したように言う。
「きっとこの頃の人たちは力持ちだったんだね! そうじゃなかったら走れないもん」
「それを着たお姫様はそんなに走りはしなかったと思うけどね」
 そんな会話をしながら浩人とフィサリアが歩いていくのを見て、紫桜 瑠璃(しざくら・るり)は気乗りしない様子で言う。
「あの衣装を着るの? なんか動きづらそう……」
「曲水の宴に参加するなんて、なかなか無い機会ですからね。多少の動きづらさは仕方がありません」
 緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)がそう宥めたけれど、瑠璃の表情は晴れない。
「兄様は男の人用の衣装を着るの? あっちの方がまだ動きやすそう……。瑠璃も兄様といっしょのがいいの〜」
「……わかりました。では遙遠も十二単にしますから、一緒に着ましょう。それならいいですか?」
「うん。兄様が着てくれたら瑠璃も着るの! 兄様とお揃いなの♪」
 一緒と聞いて、瑠璃は途端に乗り気になった。
「でしたら、遙遠も瑠璃と同じくらいになって同じ衣装を着ましょう」
 そんな趣向も面白い、と遙遠は着替えを後に遅らせることにした。ちぎのたくらみには効果時間がある。あまり早くから着替えをしてしまうと、かけ直しの回数が尽きてしまいそうだ。
 遙遠たちが一旦立ち去った後も、着付け部屋は普段着の者を受け入れ、華やかな衣装に身を包んだものを宴へと送り出し続けるのだった。