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さよなら貴方の木陰

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さよなら貴方の木陰
さよなら貴方の木陰 さよなら貴方の木陰

リアクション

 ある研究室の一室で、一人の機晶姫の少女と、研究員助手の青年の和やかな会話があった。
「これをかぶればいいのね」
「うん、そしてリラックスして。そうしたら君は電脳空間で自由に動けるようになる」
 全身をもたせ掛けられる安楽椅子のように改造したPODに彼女を座らせ、ヘッドセットを手渡し、青年は優しく微笑みかける。どちらかというとしまりのない、しかし人好きのするその表情に、少女は最近ようやく望むように動かせるようになった表情筋を存分に使ってくすくすと笑い、未だあまり動かない手でぎこちなくヘッドセットを装着した。
 機晶姫は、当の本人の記憶がないために、マリーと名づけられていた。色素が酸化してすっかり色の抜けてしまった髪は、それでもその滑らかさと艶を失わずに、ヴェールのように華奢な彼女を彩っていた。
 青年は自分の頭はぼさぼさと伸ばしたまま、無造作に後ろで括っただけのくせに、その指はマリーの髪を邪魔にならないよう器用に編みあげていた。
「ありがとうございます、…ええと…」
「僕の名は、フューラーだよ」
 マリーは、記憶を長く保持することができなくなっており、こうやって彼やその周りの人間は、彼女の名前やすべきことなどを教えなおすことが日課となっていた。メモや写真が回りに貼られ、常に誰かが傍らにいて、記憶を繋ぐ役割をしなければ、彼女は自分の名前さえ忘れてしまうのだった。
「今までの君の身体データから、君専用のセッティングにしてあるよ。電脳空間で、今よりはもっと動けるはずだから。もし不具合があればすぐにわかるし、伝えられるなら向こうには僕の妹がいるから、よろしくね」
「わかりました。では、行ってきます。このことは、貴方がたとシラード様以外には秘密なのね」
「うん、誰かが来ればすぐに戻るようになってるから、驚かないでね。そうだね、寝たふりでもすればいいかな」
 首をかしげたその時、フューラーの無造作に括られた後ろ髪のひと房が肩から滑り落ち、彼女の手はとっさにそれを追おうと振り上げられた。
 しかし思うように曲げられず持ち上げられない腕は、どんとフューラーの胸を突くだけの結果に終わる。
「…あ、ごめんなさい…」
「いいんだよ、気にしないの。…思い出せたわけじゃないんでしょ?」
 マリーは悲しそうにうつむく。時折こんな風に、懐かしい気のする一瞬が重なり、それだけでは何とも名前のつけられない、一瞬の印象だけが彼女に訪れて、彼女を突き動かしてしまうのだ。
 それらの印象をもたらすものはフューラーだけではなかった、人でもドラゴニュートでも、窓際に訪れた小鳥やカーテン、はては診断機器の点滅にさえ、法則の見出すことができない彼女が反応する何かが存在し、研究員だけでなくマリー自身も途方に暮れることになるのだった。

 ―ゆっくりと、マリーは銀色の世界を降りていった。
 いろいろな、目には見えない何かが慎重に彼女を精査していくのを、すこしくすぐったく思えるようになってきたころ、その足は今までなかった地面に触れ、いつの間にか噴水のある公園の中に立っていた。
 一瞬遅れてその光景には、彼女が目覚めてから初めて目にする鮮やかな色が吹き込まれ、あまりに圧倒的な『色』の気配に怯み、すぐ傍にいた存在にすぐには気づくことが出来なかった。
「ようこそ、初めましてマリーさん。私はヒパティアと申します。あなたのことは兄から伺っております」
 小さな少女が、降りてきたマリーを出迎えていた。
 彼女は電脳空間の全能の主、AIヒパティアであり、フューラーが『妹』と言ったのも、まさしく彼女のことなのだ。
 ひとと、ひとでない存在。異なる種族同士が躊躇いもなく深いつながりを口にし、互いの存在に安らぐ。
 それはおそらくマリーがかつて持っていた絆のひとつの形でもあったのだ。
「初めましてヒパティアさん、よろしくお願いいたしますね」

「色が見えますか?」
「見えるわ、とてもまぶしいわ」
「自分の足で立てますか?」
「立てるわ、地面を感じる」
「研究室に居た人を思い出せますか」
「フューラー様がいました。…いえシラード様もいたわ、覚えていられるのね…!」


 フューラーは電脳空間への眠りに落ちたマリーを見送っていた。
 少し前に彼女を送り出した朗らかな声音とは打って変わって、今の彼の顔はまるでこれから身を投げようとでもいうような、悲しみに満ちみちていた。
「…大丈夫だよ、…きっと、そこにもパラダイスはあるから」

 シラードは、二人を傍らで黙って見守っていた。
 大学の敷地で見つかったマリーを手ずから修理し、その目を開けた喜びを彼はよく覚えている。
 そして彼女がに残された時間と、己の無力さに泣いたことも、今もその胸に刻み続けている。
 しかしその悲しみに目がくらんで、フューラーとヒパティアまで巻き込んでしまったことを、とても後悔していたのだ。

  ◇ ◇ ◇

 空京大学の学長室のドアが、約束の時間ぴったりに叩かれた。
「入りたまえ」
 応えに重厚な扉を開けて一礼し、ぴしりと襟を立てて一人の青年が学長室に入った。
藍澤 黎(あいざわ・れい)です。学長殿、今回はお時間を戴き有難うございます」
「いや、タシガンから態々。これでも何かと忙しくてね、ひどく待たせてしまっただろう」
 アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)学長は、他校からやってきた生徒に向けて一先ず労いの言葉をかける。
 しかし黎はそれ以上は無駄な言葉を挟まず、早急に用件を切り出し、傍らに抱えた論文を差し出した。
「これが、私の見ていただきたいものです。『パラミタ原生種バラの新商業用品種の可能性』、それに関する論文です」
「ふむ、見せてもらおう」
 論文を受け取ると、アクリトはかなりのスピードでページをめくり始める。
「…ところで、君のバラ研究についての話もちゃんと聞いてみたくはあるのだがね」
 論文に目を落としたまま、アクリトは黎に問いただした。
「君の本題のほうは、一体何だろうね。これはこのままでも十分バイオ科では受け入れられるレベルだろうが、少し情報を整理してからの方がもっと価値が高くなるだろう」
 黎はずっとバラの品種改良研究をしてきた、その成果を纏めて論文にしたものの、内容は少し急ぎすぎたかもしれない。確かに彼にはその論文を取っ掛かりにして、何としても学長に面会したい思いがあったからだ。それを見透かされてしまったらしい。
「この論文と、君のバラに対する情熱に免じて話を聞こう、予想はついているがね」
「…それでは、改めて申し上げます。第四分室の記憶を失った機晶姫の件です」
 アクリトは視線を上げて、黎のまなざしを受け止めた。


 ―なによ、なによなによなによ!
 ―とんっでもないペテンじゃないの!
 ブリジット・パウエル(ぶりじっと・ぱうえる)は声に出さずに怒りに震えていた。いや、怒っていないと溢れてきそうなものが留められそうになかったのだ。
 橘 舞(たちばな・まい)はそれを宥めていたが、自分も震える声をなんとか抑えようと努力していた。
「ブリジット、落ち着いて」
 空京大学について、彼女らはまず第四分室の場所を近くの学生に聞いた。するとだ。
「第四分室? ああ、あのもうすぐ死んじゃうっていう機晶姫の…」
 そう学生は口を滑らせた。連れがあわてて制止していたが、聞こえてしまったものは取り消せなかった。
 二人はなんとか第四分室にたどりつき、マリーと会い、挨拶をした。
 名乗りあい、握手をし、そこまではなんとか普段を保つことができた。
「貴方がたの瞳の色は? 髪の色はどんな色ですか?」
 ぎこちない手の力、全てを記憶しようというまっすぐな瞳、もとは多分色があったはずの、褪せて透き通った髪、それら全部が、先ほど聞いてしまった言葉を裏付けていた。
 思わず二人は部屋を飛び出して、叫ぼうがわめこうが聞こえなさそうな場所までやってきて、押さえ込んだ感情を開放した。
 そうしてせっかく書いて来た脚本を、激情のままブリジットはゴミ箱に捨てようとした。
「なによこんなもの! 何が『名探偵ブリジット物語』よ! バカみたい!」
「何するの!? やめて!」
 舞は叩き込まれようとする脚本を取り上げて胸に抱きこんだ。せっかくブリジットが楽しんで書いていたのに、そんな風に没にしてしまってはいけなかった。
「ねえ、普通のお茶会をしましょう? 演技はできないかもしれないわ、でもいつもやっているお茶会なら、きっと普段通り振舞えるわ」
「…そうね、舞の何の山場もないお茶会シナリオ、それを上演しましょう」
「…伝説の騎士も、白馬の王子様も出てこない、何の変哲もない平凡でつまらない物語かもしれませんけど…」
 せめて、彼女の幸福な思い出を、一つでも増やすことができれば、と。

 ケイラ・ジェシータ(けいら・じぇしーた)御薗井 響子(みそのい・きょうこ)は仲良く連れ立って、第四分室に遊びに来た。
 これから発掘調査のほうに行くのだというヴァーナー・ヴォネガット(う゛ぁーなー・う゛ぉねがっと)メイベル・ポーター(めいべる・ぽーたー)セシリア・ライト(せしりあ・らいと)も一緒にマリーに一言挨拶に来て、ひととき分室に明るい声が満ちた。
「皆様こんにちわ、マリーと申します」
 申し訳ないと断って、ひとりひとりに髪色や瞳の色をきき、マリーは彼女らと話をして、ちょっとした状態を説明する。
 幸い、彼女たちはマリーの容態を掲示に書かれている以上には知らなかったらしい。
 純粋に友達が増えた喜びにはしゃいでいる。
「いっぱい人が来たね、ボクは名札を作るから、みんなにつけてもらうね」
 響子はぐりぐりとペンで名札に名前を入れていく。名前を書き込むだけの作り置きまで作って問答無用で配っている。
 確かにこれがあれば、マリーは少なくとも名前だけは忘れない。
「それでは、ボクたちは発掘調査の方に行ってきます。マリーおねえちゃん、楽しみに待っていてくださいねっ!」
「私もお手伝いに参ります、何か記憶を取り戻すきっかけになるものをを見つけられればよいのですが…」
 ケイラと響子が発掘に赴く面子を見送り、そこに舞とブリジットが戻ってきた。

 たくさんの人が来るな、と黎は想った。
 その中で、先ほどの学長との会話を思い返す。

「確かに私は、その件については、私は分室に対して通常通りのデータ採取を指示した。しかし限定したわけではない。私が止めさせたかったのは、正直な所その機晶姫を解体してまで新たなデータを入手できるものか疑問があったからだ」
 ヒラニプラでも、どこの地でも過去に失われた技術を復活すべく、何度も哀れな検体が切り刻まれてきた。
 しかしそれで復活できたものはあまりに少ないのだ。
「確かに空京大学は、機晶姫研究については後発でしょう。ヒラニプラとの差別化を図り、技術レベルの挽回に至るキーは、その機晶姫たちの協力体制を得られるかどうかでは、と思います」
 そのためにマリーの保護を、体制を築くための実績を示すべきだ、シャンバラ王国の明日を背負う空京大学の大いなるアドバンテージにつながるはずだ、と黎は矢継ぎ早に述べ立てる。
「学長殿、商業的に見向きもされないバラが輝かしい親株になることもある。研究とは、それだけで留めずに、その先の為に。例えば誰かを幸せにする為に行われるべきでしょう?」
「ふむ…」
 これは大学内で収まる問題だと思っていたが、既にここまで事が広まっている。
 そしてこれだけの熱意ある人材が彼方此方から集まってくることに、感嘆を禁じえなかった。
「では、他に必要なものがあるか、申請したまえ。君はまず対外的な姿勢を示せと言っただろう?」
 あっさりとアクリトは首肯し、黎を驚愕させる。これは珍しい環境のテストケースに過ぎぬと嘯きながら、学長はどこか楽しそうだ。
 リストを取り出して黎に手渡す、どこへ行けば機材を借り出せるかのデータも整理してあり、最近導入したいくつかの新機材のテストも兼ねろという事らしい。
「予定というものがあるので、人材はすぐにとは行かんが、機材は便宜を図ろう。ボランティアが来るならば人材もそう急がずにすむだろう」
「これは…よろしいのですか?」
「何を考えているのかと聞きたいのかね? 至極、簡単なことだ。私はこの地に降り立った者たちの、過去の愚かしさに囚われない自由な発想に期待しているのだよ。さあいそげいそげ、時は飛ぶものだ」
 もう一度論文に目を落とすアクリト学長に一礼し、返事も待たずに黎は学長室を飛び出した。
 運命を知らぬかのようなマリーの微笑を、その脳裏に思い浮かべて。


 黎は回想を止めた。第四分室にまた、マリーと出会うために新たな客が入ってくる。
 賑やかさの絶えない分室で、黎はお茶会の用意をする舞を手伝っていた。
「これは劇なんです、ごく普通の、お茶会の劇をするんですよ」
 そういって笑う彼女に黎は賛成する。
 これから、ますます賑やかになるだろう、その中でこんな凪のような、静かな思い出もあればいい。

 マリーのために、さまざまなものが動き始めたことを、黎は感じていた。