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早咲きの桜と、蝶の花

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早咲きの桜と、蝶の花

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■第三章

「あ、あったあった」
 お昼時を少し過ぎた頃。薔薇学の帽子に、桜のコサージュを付けた鳥丘 ヨル(とりおか・よる)は、安心したように声を上げた。彼女の視線の先には、友人の出店した『桜餅屋台』。客の対応に追われる友人たちは、少し離れたヨルには未だ気付いていないようだ。
 ヨルは素早く屋敷の影に隠れると、持ってきたカメラをこっそり構えた。ファインダーに映る友人たちの姿を、一人一人写真に収めていく。桜餅を焼くブルーズ、それを客へ配る天音、抹茶を点てる霧神、お金の受け渡しを受け持つ尋人。
 全員を順に撮り終え、満足げな吐息を一つ零すと、ヨルは今度こそ彼らの屋台へ歩み寄っていった。彼女の姿に真っ先に気付いた尋人が、彼女の元へと素早く駆け寄る。
「ようこそ、タシガンの地へ」
 制服に、マント。イエニチェリの格好をした尋人の、まだどこか初々しい姿に、ヨルは歓声を上げる。
「イエニチェリ、おめでとう!」
 ヨルの言葉に、尋人は少し照れたように頭を掻いた。彼らの和やかな雰囲気に惹かれたのか、二人の後頭部には揃いの飾りのように桜蝶が留まっていた。
 そんな彼らの元へ、天音、ブルーズ、霧神たちが集まってくる。
「こんにちはヨル。薔薇の学舎の制服似合ってるね、そのまま転校してくるかい?」
「天音くんたちも、お疲れ様。差し入れ持ってきたよ」
 ヨルの言葉に頷いて、天音は尋人へ視線を移す。その口元には、愉快気な笑みが湛えられていた。
「鬼院もお疲れ様。そろそろ3時だし、少しずつ桜蝶も集まっているみたいだから、休憩にして花見にしようか」
「それなら、あの辺りがいいだろう」
 ブルーズの提案により、一行は中庭の一角へと陣取った。ヨルの差し入れ、ミントの香りの付いたおしぼりで手と汗を拭い、ブルーズのバスケットに満載された桜餅へ手を伸ばす。
「尋人くん、ボクだってすぐに気付いてくれたんだね」
 帽子を取ったヨルが自身の身を包む学舎の制服を見下ろしながら語り掛け、尋人は少し残念そうに微笑んだ。
「すぐに分かったよ。けど、今度はドレスアップしたところを見せてほしいな」
「ボクに似合うかな?」
「ヨルさんは大人になったら素敵な女性になるだろうって、黒崎と話してる」
 和やかな会話の中で、尋人の言葉は真剣だ。実直な彼の偽りの無い言葉に、照れたようにヨルは笑う。
「分かったよ、じゃあまた今度ね。それより皆の働く姿、すごく格好良かったよ!」
 はしゃぐヨルへ、彼女の煎れた桜茶のカップを口元へ寄せた天音が僅か驚いたように眉を上げた。
「見ていたのかい?」
「写真もバッチリ。あとで皆にも送るね」
 驚いたな、と呟く天音に、ヨルは「こっそり撮るために、この格好をしてきたんだよ」と得意げに笑みを深めた。
「ヨルさん少し大人っぽくなりましたかねえ。女の子はいいですねえ」
 正座で抹茶を傾けつつ呟く霧神に、ブルーズは一度ヨルへ目を向け、小首を傾げてから、「そうだな」と当たり障りのない返答を述べた。鋭い牙の間に絡んだ餅にてこずる彼の様子に喉を鳴らしてから、霧神はヨルへと向き直る。
「尋人が心を安心して開ける女性の方は珍しいのです。ヨルさん、これからも尋人をよろしくお願いしますね」
「保護者みたいなこと言うなって」
 気恥ずかしげな尋人の様子を見てから、ヨルは「こちらこそ!」と快活に頷いた。うんうん、と満足そうに頷き返してから暫く置いて、霧神はおもむろにぴしりと身動きを止める。
「何かあったか?」
 歓談を始めた天音、尋人、ヨルの目には入らなかったその動きを、ようやく餅との格闘を終えたブルーズが敏感に見留める。深刻な面持ちで頷く霧神の様子に釣られたように双眸を細め、警戒を表すかのように尾を立てたブルーズへ、霧神は深刻そうに打ち明けた。
「……足が、痺れました」
「……そうか」
 ごくり。ブルーズの喉が抹茶を通す。

「折角だから、夜桜も一緒に見よう。きっと綺麗だよ」
 一通りの桜餅を制覇した一同は、裏メニューのクレープを齧りながら、天音の提案に耳を傾けた。
「賛成!」
 勢い良く手を上げたヨルの指先から、桜蝶が逃げていく。あっ、と声を上げたときには既に遅く、蝶は遠く飛び去ってしまっていた。
「夜にまたここで集まろう」
 尋人の言葉に頷いて、またクレープをぱくり。ヨルは今度はブルーズの尾の先端に留まった桜蝶へ狙いを定めるものの、気付かず揺れる尾の動きに従って、桜蝶も右へ左へ。
「では、そろそろ屋台を再開するとしようか」
 ブルーズが立ち上がり、その尾から桜蝶が舞い上がる。ひらひらと揺れる蝶は楽しい時間への感謝を示すかのようにヨル、尋人、霧神の頭を立て続けに踊り回り、最後に天音の前で羽を揺らすと、ハリボテの樹へと飛び去っていった。それを暫く見送り、ヨルは一行へと振り返る。
「じゃあ、約束だね!」
 彼女のその言葉を合図に、『桜餅屋台』の店員たちは屋台へと戻っていった。


「なあ、何か得意なことって無いのか?」
「得意なこと……ですか?」
 スレヴィ・ユシライネン(すれう゛ぃ・ゆしらいねん)の問い掛けに、ヴラドは大きく首を傾げた。
「ま、これまでの行動からして、トラブルを呼び寄せるのもある意味才能かもしれないけど……それは置いておいて」
「モデル歩き、なんてどうですか?」
 初めて屋敷で主催したパーティーで学んだモデル歩き。すすす、と披露して見せるヴラドに、スレヴィはゆるゆると首を振る。
「いや、そういうのでなく、もっとアピールになるような……絵なんてどうだろう?」
「絵……」
 描いた経験など殆ど無いヴラドは、躊躇うように視線を泳がせる。しかし「ものは試しだ」などと促すシェディには抗えず、渋々「分かりました」と了承を告げた。
「一人で描くのが嫌なら俺も付き合うよ、カンパスと画材ならあるし」
 そう言って取り出された筆や絵の具に、ヴラドは一転して興味を惹かれたようだ。シェディ、ヴラド、スレヴィと三人並んでカンパスを広げる。
「しかし、何を描く?」
「ここに集まった人の楽しげな様子を、絵で表現してみたらどうかな」
 スレヴィの返答に「ああ、それはいいかもしれない」とシェディ。慣れた様子で筆を操り、すらすらとカンパスへ線を引いていく。
 対照的に、ヴラドは悩むように目を彷徨わせていた。そんな彼の瞳に、ふと歩み寄る少女の姿が映る。
「絵を描いてるんですか?」
 ウィルネストの治療を終えた、詩音だった。興味津々といった様子の詩音の隣では、奏音がシェディのカンパスを覗き込んでいる。
「よければ、詩音も混ぜてやってくれないか?」
 体の弱い詩音も、これならば落ち着いて花見を楽しめるだろう。そう判断しての奏音の言葉に、迷うまでも無く頷く一同。
「よろしくね」
 嬉しそうに腰を下ろした詩音も、早速とばかりに持参したスケッチブックを広げた。そうして、一同は黙々と絵を描き始める。
 そこへ、買い出しに走っていたアレフティナ・ストルイピン(あれふてぃな・すとるいぴん)が駆け寄ってきた。彼の両手にはたくさんの桜餅、焼きそば、その他諸々。どこか音程のずれた鼻歌を歌いながら絵を描き進めていたスレヴィが、お、と顔を上げる。
「ご苦労、ストルイピン」
「スレヴィさんの分はありません。ヴラドさん、欲しいものはありますか?」
 ぴょこぴょこと耳を動かし、アレフティナはきっぱりと言い放つ。喜んで桜餅を受け取るヴラド、そして詩音の傍ら、スレヴィはふるふると肩を震わせた。
「……なんで俺には無いのかな?」
「お弁当の恨みは深いのです」
「蝉の時の恨み? いつまで勘違いしてる気!?」
 蝉時雨の響く夜の出来事、偽のスレヴィの所業を、アレフティナは今でも根に持っていたようだ。ふい、と顔を背けてしまうウサギのぬいぐるみを前に、スレヴィはがばりと立ち上がる。
「そいつを寄越せー!」
「渡しませんよーだ! あっ」
 言った直後には、スレヴィの手に桜餅の包みを掠め取られてしまうアレフティナ。
「俺に勝とうなんて百年早い。 ほーら、これが欲しいか〜? 欲しかったら『食べさせて下さい』って言うんだな」
 にやにやと得意げなスレヴィを見据えながら、アレフティナは地団駄を踏んで悔しがる。
「くっ……次こそは勝ちます……! 食べさせて下さい。あ、あとそれも。そっちも」
 始めは悔しそうにしていたアレフティナは、しかしすぐに食物への欲求に負けてしまったようだ。「そんなに食い意地はってるから丸っこいんだよ」と呆れるスレヴィの手から次々に桜餅を受け取り、口の周りが汚れるのも気にせずにばくばくと食べ始める。
「ほら、口の周りに何付けてんだ」
「え、口の周り? いたたたっ、そんなに強く拭かないで下さい!」
 もふもふとした口周りを、スレヴィは手にした布で乱雑に拭う。アレフティナの抗議もどこ吹く風、一通り吹き終えてようやく、彼は自分の桜餅へと手を伸ばした。
「……面白いですねぇ」
「ね」
 そんな一連の光景に、ヴラドと詩音は顔を合わせて笑いを零す。シェディはと言えば既に絵を描き終え、奏音の淹れた紅茶を共に傾けていた。
 シェディのカンパスには、未だ七分咲きの桜と周囲の人々の和やかな様子が、鮮やかに描き出されている。対するヴラドのカンパスはと言えば、とりあえず桃色や黄色といった明るい色が、思うがままに撒き散らされていた。
「あなたは何を描いたんですか?」
 それからヴラドは、桜餅の端を食みながら詩音のスケッチブックを覗き込む。そこには可愛らしいデフォルメのイラストで、アレフティナとスレヴィの格闘の様子が描き出されていた。
「上手いですねぇ……折角ですから、私とシェディも描いて下さいよ」
 期待の眼差しを向けるヴラドの要求を受けて、詩音は一度奏音の方を向く。
「にいさま、時間は大丈夫?」
「ああ。体調さえ良ければ、好きなだけここにいて構わない」
 優しく頷く奏音の言葉に嬉しそうに頷くと、詩音は桜の樹を背にしたシェディとヴラドを見遣り、「この二人ならカップリングはこっちかな……」などと呟きながら、ペン先を走らせ始めた。