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【六 標的者・太田善三郎】

 護衛部隊は、標的である太田善三郎の勤務時間中にも、その身辺を警護する役割を負う。
 決して少なくない人数のコントラクター達が、太田のオフィスや、控え室としてあてがわれた会議室等にたむろしている光景は、少しばかり異常ではあった。
 日頃、彼ら・彼女達のような若者はほとんど全く寄り付かないようなビジネス街の高層オフィスビル内に、急に十代や二十代の姿がそこらじゅうに見られるようになれば、誰でも違和感を覚えることだろう。
 だが、当の太田自身は己の周囲に少年少女ともいうべき年代の若者達が固まっていようとも、まるで気にした素振りを見せず、淡々といつものように業務を進めていくのみである。その平常心たるや、流石といわねばならなかった。
 その太田に、妙な目的を持って近づく幾つかの影があった。
「太田さん、少し、宜しいか」
 ロイ・グラード(ろい・ぐらーど)が、太田のプライベートオフィスに姿を現したのは、正午を少し回った頃合であった。
 太田は丁度この時、取引先の部門責任者との電話を終え、ひと息つこうとしていたのだが、ロイがやや改まった態度で呼びかけてきた為、浮かしかけた腰を再びデスクの腰掛椅子に下ろした。
「どうしたのかね?」
「ひとつ、提案があってね」
 敢えてもったいぶるようないい回しで相手の出方を探ろうとしたロイだが、しかし太田は然程興味を示した様子も見せず、テレビのCMでも眺めているような、茫漠とした表情でロイからの視線を受け止めている。
 ここでロイは、戦術を変えることにした。遠まわしないい方では話が先に進まない、と判断したのである。
「単刀直入にいえばだな……あんたと取り引きをしたい」
「生憎だが、興味は無い」
 随分あっさりと、拒絶された。ロイは内心腹が立ったが、そこはロイも心得ているもので、決して表情には出さない。彼は尚も太田に食らいつこうとした。
「良いのか? こちらは、あんたの弱み……そう、少しばかり危ない噂を掴んでいる。それを揉み消してやっても良いのだがな」
 ところが、太田はロイの台詞を聞き終えるや否や、見るからに小馬鹿にしたような苦笑を浮かべ、やれやれと小さくかぶりを振った。
「くだらんな……噂や世論を気にするのは、政治家だ。我々のような、組織対組織で財を動かす者には、どれだけ黒い噂が立とうが立つまいが、鼻糞程にも気にならんよ」
「ほう……それが例え、ある大物政治家への偽装献金に絡む内容であってもか? こんな噂が海京地検にでも知れたら、あんたの人生は一巻の終わりだぞ?」
 渾身の一撃、とロイは勝ち誇った気分になったが、しかし太田はといえば、驚いた顔つきではあったが、決して恐れ戦いているという表情ではなく、むしろロイの持ち出してきた内容が馬鹿馬鹿し過ぎて驚いた、といった様子を見せていた。
「何だ、どれ程の情報通かと思って黙って聞いておれば、とんだ小物だったな。海京地検に知られて困るも何も無い。その情報をリークし、マスコミを使って世論を煽っているのは、その海京地検だよ。この手の情報は必ずといって良い程、地検側がリークするものだ。よく覚えておけ」
 流石にこの時ばかりは、ロイは思わず息を呑んだ。
 太田はすっかり呆れた顔つきで、ロイのいささか愕然とした面を正面から見詰める。
「どうやら君は、大人の世界をまるで分かっておらんようだな。真の裏社会を望むのであれば、まず政治と経済の何たるかをよく学んでこい。その上で、私に取り引きをさせたいと思わせる程の財力・政治力を身につけることだな。はっきりいって今の君は、何の利用価値も無ければ、旨みの欠片も無い」
 完全に、門前払いを食った格好だった。

 結局ロイは、ほとんど何の収穫も無いまま、プライベートオフィスを追い出された。
 かくなる上は実力行使で脅してでも……と考えなくもなかったが、太田のオフィス内には、姿こそ見えないものの、何人かの気配が感じられた。
 恐らくは常時、数名の護衛が光学迷彩で姿を消した状態で太田を守っているのだろう。ロイは、あらゆる意味で太田に完敗を食らったといって良い。
(何だあのジジィ……ちっとも話になりゃしねぇ)
 ロイの外套という形で同席していた魔鎧常闇の 外套(とこやみの・がいとう)が、魔鎧姿のまま、内心で不満をぶちまけていた。
 まさかここまで一方的にあしらわれてしまおうとは、夢にも思って見なかったのである。腹を立てるな、という方が無理な注文であろう。
 やがて、ロイが神永ビルディングの自社ビルを出て、手近の裏路地に歩を進めると、そこに三つの影がたむろしていた。
「いや、申し訳ありませんでした、ロイさん。ろくな情報をお送り出来ませんで」
 そういって、東園寺 雄軒(とうえんじ・ゆうけん)が頭を掻いた。
 実はこの雄軒が、ロイの為に情報収集を担当し、雄軒から得た情報をもとにロイが太田と交渉する、という段取りを取っていたのだが、雄軒の努力は結局、報われなかった格好となった。
 雄軒がパートナーのバルト・ロドリクス(ばると・ろどりくす)ドゥムカ・ウェムカ(どぅむか・うぇむか)を従えて集めた情報には、実に多岐に亘っていたのだが、その中に、試作パワードスーツや太田が施設を貸していた相手の情報なども無くは無かったのだが、どういう訳かそれらの情報を握っていそうな人物は、ことごとく肝心な部分で記憶を失っており、ほとんど核心らしい核心には迫れなかったというのが実情であった。
「ダンナの聞き込みには、決して無駄な部分は無かったし、変に警戒されるような素振りも見せなかった筈なんだがな」
 ドゥムカが小首を傾げながら、腕を組んで唸る。外見が外見だけに、こういう人間臭い仕草は、傍から見ると妙なおかしさというか、愛嬌のようなものが感じられた。
 すると、今度はバルトが何となく憮然とした雰囲気で(表情が見えない為、あくまで雰囲気でしか伝わらないのである)重たそうに声を絞り出す。
「聞き込んだ連中は、何かを隠しているというよりも、本当に忘れてしまって、自分自身で困っている、という様子であったな。あれでは、こちらが何を聞き出そうとしても、何も得られないのも無理は無かろう」
 だが、ここでロイは小さくかぶりを振った。今回は情報の内容や精度云々の話ではない。そもそもが、交渉のネタと相手の質がまるで乖離していた。それが、敗因だった。
「黒い噂とかそういう類の話は、現場責任者レベルの相手までしか通用しないと考えるべきだったな。太田程の幹部クラスになれば、この手の危機管理はお手の物だろう」
「要するに、畑違いという訳でしたか。ですが、そう悲観することもありませんな。また、次の機会を狙えば良いのです。もちろん、今回の失敗をしっかり総括して、交渉相手とバランスの取れたネタを用意することも忘れずに」
 雄軒の言葉に、バルトとドゥムカが静かに頷いた。

     * * *

 ロイが室を辞去した後、それまで太田が配布した光学迷彩装置で姿を消していた氷室 カイ(ひむろ・かい)サー・ベディヴィア(さー・べでぃびあ)、そしてアリス・セカンドカラー(ありす・せかんどからー)の三人が、迷彩を解除して太田の傍らに姿を現した。
 しかし三人が姿を見せても太田は手にした書類に視線を落としたままで、全く気にする素振りも見せない。
「太田さん、良いのかい? あいつをあのまま放っておいてさ」
 カイが扉に視線をじっと固定したまま、問いかけた。あいつとは、ロイを指している。
 本来ならアイスキャンディから太田の身を守るというのが彼らに与えられた任務であったが、更に別の敵が増えるとなれば、それはそれで厄介な話である。カイとしては、出来れば襲い来る敵は少しでも早い段階で排除しておきたい、というのが本音であった。
 ベディヴィアもカイに同調して、太田の前に態々回り込んで正面から真意を問いただそうとした。
「私も貴公の命を守ると決めた以上は、最後まで死力を尽くして守り抜く所存です。ですが、あのアイスキャンディも単独犯とは限りません。であるのに、これ以上妙な連中を野放しにしておくのは、あまりにも危険に過ぎませんか?」
 この時になって初めて、太田は書類をデスクの上に放り投げ、カイとベディヴィアに視線を送った。その瞳には、どこか今の事態を楽しんでいるかのような、妙に嬉々とした色が見受けられた。
「あの若者なら、放っておいても問題無い。私を襲うにはリスクが高過ぎることを、よく分かっておるよ」
「……そうであれば良いんだがね」
 これ以上、何をいっても無駄だと半ば観念したのか、カイはいささか投げ遣り気味にいい放った。ベディヴィアも、カイがそう答えた以上は、自身が口を挟むべきではないと考え、自らの思いを胸の奥に押し込んだ。
 だが意外にも、太田はカイとベディヴィアの引き際の良さを、変なところで評価した。
「若いのに、抑えるべきポイントをよく分かっているようだ。相手と話が噛み合わない時は、下手に話をこじれさせるのではなく、自分を抑えて次に備える。何事に於いても応用の効く心構えだと思っておるよ」
「それは……恐れ入ります」
 こういわれては、ベディヴィアも苦笑を以って答える以外に無い。底知れぬ狸親父だが、深く付き合ってみれば、案外人間味があるのかも知れない、などとベディヴィアは本気で考えてしまった。
 すると、それまで太田とカイ達の会話には全く興味が無さそうに室内の装飾品を茫漠と眺めていたアリスが、不意に小さな美貌をめぐらして太田の横顔に視線を投げかけた。
「ねぇ、ところで太田のおじさんさぁ……もしかして、犯人の目星とか、ついてたりするの?」
「……何故、そう思うのかね?」
 逆に聞き返されたアリスは、一瞬困ったような表情を浮かべた。何となく勘だけで、そう思っただけだったのだが、しかし全く根拠が無い訳でも無い。
「だってさぁ、何っていうか、凄く余裕かましちゃってるじゃない? 普通、命を狙われてたら、もうちょっと慌てるものだと思うんだけどなぁ」
「そんなことは無い。今でも心臓はどきどきいっておるし、内心焦りまくっておるよ」
 太田は薄く笑いながら、再び書類を手に取った。
 呆れたのは、カイである。太田の台詞が全くの嘘八百だということは、カイでなくても分かった。
「よくいうよ……めちゃくちゃ余裕かましてるじゃないか」
 しかし太田は、敢えて聞こえないふりをした。
 その時、扉をノックする音が聞こえた。続けて、華奢な人影がトレイにケーキやティーカップ、ポットなどを乗せて入室してきた。
「あー、ドールちゃん、それどうしたのぉ?……っていうか、今日は服じゃないんだね」
 近頃、裁の普段着と化していることの多いドール・ゴールド(どーる・ごーるど)が、珍しく人間形態で姿を現したものだから、アリスは多少なりとも驚いたようである。
 対するドールはトレイを手近のサイドデスクに置きながら、小さく肩を竦める。
「裁さん、おやつ食べ過ぎて、おなか一杯で動けないから、今日の護衛はパスするんですって」
「ははは……全く、相変わらずだな、あのごにゃ〜ぽ嬢は」
 ドールのいいように、カイが思わず笑った。しかしアリスにしてみれば、笑いごとではない。自分がこうやって太田の周辺にぴったり張りついて頑張っているのに、裁はおやつで食傷気味とは、如何なものか。
 段々腹が立ってきたアリスは、ドールが持ってきたトレイに飛びついた。
「裁ちゃんが食べ過ぎたっていうおやつは、このケーキ!?」
「あ、はい、そうです」
 ドールが答えるや否や、アリスは獰猛な程の勢いで、トレイ上のケーキに食らいつき始めた。その様を、太田がさも羨ましそうに眺める。
「若いって、良いねぇ。私ももう少し胃袋が若ければ、ケーキを1ホール、がっつりいきたいものだよ」
 意外や意外、太田は超がつく程の甘党だったらしい。