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リアクション
我らがミンスク
富永 佐那(とみなが・さな)はイゴール・イリイッチ・メドヴェンコ(いごーるいりいっち・めどう゛ぇんこ)と海京で、ブラジルの空港で母、エレーナ・グムベリゼと合流すると、ブラジリアで暮らす祖父の元に向かった。
母はいつもは極東ロシアのウラジオストックで、脱サラした日本人の夫と2人で食堂を切り盛りしている。ロシアのお袋さんの味として、ピロシキやボルシチが大人気だという。
ウラジオストックとブラジリアの気温の落差もなんのその。護衛を兼ねて佐那の祖父フランギス・コンスタンチノヴィッチ・グムベリゼの待つ食堂、『我らがミンスク』に案内してくれているイゴールに、ご苦労様と明るく声をかける。
「イゴール・イリイッチ。貴方には本当に感謝しているわ。学院で佐奈が安心して生活できるのも、みんな貴方のおかげよ」
「もったいない言葉ですな。お嬢の事は、この身に代えてもお護り申し上げますぜ!」
任せておいてくれとばかりに、イゴールは鍛えられた腕を叩いてみせた。
「お母様と一緒にお祖父様に会えるなんて」
到着した『我らがミンスク』を前に、佐那は胸躍らせた。佐那は祖父のフランギスが大好きなのだ。
食事時ともなれば人で溢れかえる食堂だけれど、今は準備時間。
店にいるのは、忙しく仕込みをする従業員たちばかりだ。
同じく食堂を経営しているエレーナは、興味ありげに仕込みの手元を眺めている。
イゴールは先に立って入っていくと、
「こちらですぜ」
と2人を食堂の奥へと案内した。
客席を抜け、厨房を、そして従業員用の部屋を抜け。
長い階段を下りていった先の一室の前でイゴールは足をとめ、扉を開けた。
その部屋では、ちょうどフランギスが電話をしている所だった。
「――ザハルチェンコが襲撃を受けただと? 分かった、バクーニン、クレメンチェフを向かわせる。愚かな奴らにカラシニコフの爆竹をお見舞いしてやれ。徹底的にな」
フランギスは厳しく告げて電話を切った。
「お取り込み中でしたか?」
部屋に入った佐那が心配そうに問いかける。途端にフランギスの顔は、マフィアの幹部としてのものから、佐那の祖父のものへと変化した。
「おぉ、ジーナ。大きくなったな。見違えるようだ」
フランギスは佐那のことを『ジーナ』と呼ぶ。それは佐那のロシア名、ジナイーダ・ヴァトゥーツィナから来ていた。
「お祖父様、お久しぶりです」
「学院の生活には慣れたかね?」
佐那が天御柱学院に入学したのは、祖父の口ききあってのことだ。それだけに心配してくれているのだろう。
「はい。お陰様でつつがなく過ごしています」
「それは良かった」
目を細めると、フランギスは佐那を近くに呼び寄せた。
「ジーナに渡したいものがあるのだ」
「渡したいもの、ですか?」
「ああ。……ジーナ、お前にはロシア人として生きてもらいたいと思ってるのだ。その為に、私のアゼリー系の姓のグムベリゼではなく、妻の方の姓であるヴァトゥーツィナを名乗らせた」
そう言いながら、フランギスはベレー帽を手に取った。
それは、フランギスがソヴィエト海軍に所属していた頃……現役時代にかぶっていたソヴィエト海軍のベレー帽だった。
キューバ危機を経て長い間現場で勤務した水兵からの叩き上げだったが、ソヴィエト崩壊に伴い海軍を追われ、マフィアとなった。最終的な階級は大佐で、今でもフランギスをそう呼ぶ者は多い。
その思い入れ多いベレー帽を、フランギスは佐那へと差し出した。
「……私に代わって、私の祖国を、お前に託したいんだ」
「ありがとうございます」
佐那は嬉しそうにベレー帽を受け取ると、早速かぶってみせた。
その様子をしばらく見守った後、フランギスは長旅で疲れているだろうからとジーナを退出させた。
ジーナが退出すると、フランギスは部屋に残したエレーナとイゴールと共に、佐那の今後についての話をした。
「私は……ジーナにはマフィアになどなって欲しくはないんだ。だがあれは、正しく私の血をもっとも色濃く受け継いでいる。私には分かるのだ。ジーナの瞳の奥底に、若かりし頃の私と全く同じ光が宿っているのが見える」
「俺はずっとお嬢には何かあるって感じてましたぜ」
イゴールは納得したように頷いた。
「間違いない。あれは将来ヴォルザコーニェすら狙える器を秘めている。お前たちでジーナを導いてやってくれ」
「導くって言うのは?」
確認するエレーナに、フランギスはゆっくりと答えた。
「ジーナが望まぬなら、此方側に道をはずさないように。望むなら――ジーナをヴォルザコーニェにしてやれるように、だ」
すべては佐那の望み次第。彼女の望む方向に――と。