薔薇の学舎へ

波羅蜜多実業高等学校

校長室

葦原明倫館へ

【4周年SP】初夏の一日

リアクション公開中!

【4周年SP】初夏の一日

リアクション



30.指先の距離


 イルミンスール魔法学校の廊下にて。
「えーっと、い、一緒に……海に行きませんか?」
 後姿を眺めるだけで緊張するのに。
 アゾート・ワルプルギス(あぞーと・わるぷるぎす)が振り返れば、心臓のドキドキが自分でも聞こえるほどだった。
 風馬 弾(ふうま・だん)はごくりと、女の子のような喉を鳴らした。
 弾は勿論、女の子ではない。成長期真っ只中の男の子にしては可愛らしい印象の顔立ちではあったが、身長も体つきも、ちゃんと男の子だ……心の、中も。
 そして彼女は女の子であって、
「……海?」
 いつものように、あまり抑揚がない声と、落ち着いた表情。
 普段通りのアゾートだったが、問い返される前に一気に説明してしまうつもりだった弾は慌てて頭の中がこんがらがりかけてしまう。
(……海、嫌いってことはないと思うけど……や、やっぱり水着とか下心があるように思われたのかな? 友達ならともかく、この前告白したばっかだってのに、先走りすぎとか思われたとか? 僕は別に水着じゃなくてもアゾートさんなら何着ててもいいっていうかええっと、そうじゃなくって、そう思われてもいいというかいやそれが目的じゃなくって、だから一度は空京にしようとか考えたけど人ごみは似合わなそうだしアゾートさんと一緒ならどこでもいいけど喜んでもらえなきゃ意味がないわけだしアゾートさんは自然や風景の繊細な趣を楽しむことができる人だし、綺麗な景色がいいな、だったら山の方が良かったかなとかああでも春に花見に行ったから海の方がいいって考えたんだっけ?)
 ぐるぐる目を回してしまいそうになりながら、弾は息を吸い込んで頭に酸素を送る。
 ――落ち着け。
「えぇっと、“原色の海”というところが、とーーーっても綺麗だって聞いて!」
 弾は返答を待っているアゾートに早口で、
「パラミタ内海に出てずっと東の方、だいたい真ん中くらいに島があって、遊覧船で観光できるんだって。ほら、あっちの貝殻細工とか見たことないかな? なんかヴァイシャリーと交易してるらしくって……」
 わたわたと両手を動かしている様子が我ながら挙動不審だなぁ、と思っていると。
「……うん、いいよ」
 アゾートがこくりと頷いてくれたので、弾は天にも昇る気持ちだった。
「よかった! じゃ、後で計画の打合せしようね。色々考えて来たんだけど、アゾートさんにもしたいことあると思うし……」
 本当は、乗り継ぎが上手くいかなかったり、お土産買う時間が無かったりとミス連発なんてしないように、昨日しっかり下調べもしたのだけど。アゾートの行きたいところに行けるなら、それで嬉しかった。
「じゃあ、授業があるから後で」
 教科書を抱えて廊下を歩いていく彼女を見送る。角を曲がって見えなくなった頃、
「やったー!」
 弾は思わずガッツポーズしかけたが、なんだなんだと、生徒たちの視線が他校生の自分に集まっているのに気づいて、そそくさと食堂へと向かった。



 こうして二人はお昼頃、シャンバラと原色の海を結ぶヴォルロスという自由交易都市にやってきた、と同時に再び別の船に乗る。今度は遊覧船だ。
 原色の海に古くから住む三部族の一つ、ヌイ族。ここの族長ドン・カバチョという胡乱な名前の人物(カバ物? なんにせよゆる族の実態は不明である)が最近就航させた遊覧船は、ある島の周辺をゆっくり回る、というものだった。
「『中でも島一周コースはその名の通り島を一周することで、島の全景及び周囲の海の特色だけでなく、時刻ともに移り変わりゆく景色をお楽しみいただけます』」
 白い遊覧船のデッキで、弾はチケットと同時に渡された、商売熱心な族長が用意したパンフレットを読み上げる。
 弾はTシャツに海パンといういでたちで、海を楽しむ準備万端だ。
 その声を聴きながら、白いワンピースにサンダル姿のアゾートが海を眺める。
「綺麗な海だね」
「うん。無数の青が織りなす海の色、って言葉に惹かれて誘ったんだー」
 気に入ってもらえて良かった、と弾が安心しているうちに、船は海へ滑り出した。
 徐々に遠ざかる港は、遠く小さくなるほど、白い建物が街のかたちを見せ始めた。青い海、水色の空。島の周囲に広がる森と草原の緑が、白を引き立てている。
「青くて綺麗などこにも属さない海と、そこにある中立の都市。青い髪をしてて、冷静に物事に囚われず判断するアゾートさんに、なんか似てるよねー」
「そうかな。ありがとう」
 沈黙。
 実は、弾はおしゃべりが上手というわけではない。だけど誤解させまいとした時とは違い、黙っちゃいけないというような焦りは感じなかった。
 ざざん、ざざん、と一定のリズムで聞こえる波の音と海鳥の鳴き声がのんびりした気分にさせるのだろうか。
(というか、僕はアゾートさんのペースに合わせるのが好きなんだ)
 アゾートは口数が多くないし、感情を表に出すタイプでもない。今も緑色の瞳をじっと海に向けて口を結んでいる。
 それは無感動だからではないことも、賢者の石を作りたいと願う彼女の優しい心も弾は知っている。自分の中であれこれと感じて考えているのだろう。そういう時間を過ごせたらいいな、と思っていたのだ。
「海にも沢山の色があるんだね」
 アゾートは海風に流れるふわふわした髪をそっと抑えながら、弾を一瞬見て言った。再び視線を海へ向ける。
 幾重もの青を重ねたような海は、透明感があって魚が泳ぐのがはっきり見えた。
 船は反時計回りに島を一周していったが、遠くに見える小島・無人島や、移り行く島の風景のどれもが綺麗だった。アゾートはそれらの景色をじっと見つめている。
 ――やがて、夕陽が水平線に近づこうとする頃。
「待たせたかな。飲み物貰って来た」
「おかえりー」
 船内へ続く扉の方へとアゾートを振り返った弾は、続く言葉を飲み込んだ。
 夕陽に染まる船体とデッキ。
 アゾートの青い髪と褐色の肌も淡く滲んで混色され、夏向きらしい軽くて涼しそうな素材の白いワンピースはオレンジ色に染まって風に揺られていた。
 彼女の元々持っている雰囲気もあって、水彩画のようにすら見えた。
 綺麗だ、と思った。
 誘う時に自分の中で否定はしたけれど……下心というか。純粋に、弾は彼女が好きだった。
 友達としてももちろん大事で、たとえ自分の中で恋愛感情がなかったとしても、あれこれ遊びに行くうちに、二人で海に行く機会もあっただろう。
 ただその気持ちの中には、彼女との距離を縮めたいというものもあって……だから卯月祭で告白もし、今海に誘ったのだ。
(……だ、大丈夫かな)
 きょろきょろと辺りを見まわす。幸い、すぐ近くに人はいない。ちょっと離れたところにいる観光客たちも、アゾートと同じように静かに海に見入っていた。
(……嫌がられたりしないかな……でも……ええいっ!)
 弾は、勇気を振り絞ると、驚かせないようにそっと近づいた。
「見てみて、アゾートさん。夕日だよ」
 アゾートは、ドリンクのカップを側のテーブルにコトリと置いた。それは、弾が自然に、空いていた彼女の左手を取って、手すりへと誘ったからだった。
 二人は並んで、太陽が沈みゆく様を眺めた――いや、弾はちらりと、アゾートの表情を伺った。
「…………」
 普段と変わらない。嫌がられては、ないらしい。かといって照れたり、不思議そうなそぶりもない。
 もしかして意識してないのかもしれない。
 寧ろ、緊張して赤くなっているのは弾の方だ。夕陽が少しは誤魔化してくれればいいのにな、と思う。
 触れたのは、アゾートの人差指と中指、薬指の先っぽ。第一関節くらいまで、ちょこんと、遠慮がちなものだった。
 恋愛経験豊富な大人が見たら、笑われてしまうかもしれない。けれど、彼女の温かい指先の細さと柔らかさは、それだけで弾を緊張させる。
「……!」
 アゾートが軽く、ほんとうに軽く指先を握り返してきたので、弾は心臓が飛び跳ねそうになった。
 彼女は弾を一瞥することもなく、夕陽を眺めていた。まるでそれが自然なことのように。
「本当に綺麗だね。キミが誘ってくれて良かったよ。ありがとう」
「……うん。アゾートさんが喜んでくれて、良かった」
 二人はそうして、手を繋いでいた――夕陽が沈むまでの、ほんのひとときを。