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消えゆく花のように

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消えゆく花のように
消えゆく花のように 消えゆく花のように

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●Φ、Υ、Τ

 洞窟内をゆく途上、ユマは軍服越しに自分の腕をさすった。
「肌が粟立ったか?」
「いえ……」
 と口ごもったユマだったが、クローラの瞳を目の当たりにして観念したように言った。
「……はい。これは、普通の状況ではありません」
「そうだな。正直、俺も不気味なものを感じている」
 外は秋の早朝、気温は低く風は強く、凍えそうなほどだった。
 それが一変している。
 立っているだけで汗が流れそうなほど暑い。それに酷い湿気だ。むっとする濃密な空気がたちこめている。
 そもそもここは洞窟なのだろうか。
 トンネルを通って別世界に来てしまったのではないか――そんな気がした。
 最初、高い天井をもつ鍾乳洞のなかをクローラとユマ、朝霧垂は歩いていた。
 だがそれが途中で変化した。
 氷柱のように鍾乳石が垂れ下がる天井はフェードアウトするようにして消え、徐々にポスターカラーで塗ったような原色の青空にさしかわっていったのだ。今は完全に洞窟外の世界、それも真昼である。少なくともそう見える。
 そればかりではない。
 濡れた鍾乳石だらけの足元は軟らかい土に変わり、水と岩だけの無機的な光景は、鬱蒼と茂る緑の植物に覆い尽くされていた。
 どこからか熱帯の鳥が鳴くのが聞こえる。
 滝の流れる音もする。
 見たことのない甲虫が足元を這い、それをトカゲ大の爬虫類が補食する。
 幻覚として片付けるにはリアルすぎる、密林の異世界がそこに展開されていたのだ。
「イオリさんもデルタの能力についてはあまり知らないようです……! ただ、土や水を使って別世界を創り出す能力があるとだけは聞いているとのことでした」
「だとしても……この感覚は見た目だけ変えたものには思えない」
「とんでもない催眠術でも仕掛けられてるのかもしれないな。もしくは、デルタってやつが見た目だけじゃなく、環境そのものまで造成できる強大な力を持っているか、だ」
 垂は言いながら、周囲に油断なく目を走らせていた。
 この洞窟を選んだのはクローラとユマ、垂の三名。
 入口に刻まれた文字が事実だとすれば、敵も三体ということになる。
 なおすべての洞窟内映像は、どういう原理かデルタによって、外部にリアルタイム配信されていた。ビデオメッセージとともに送られたアドレスから観ることが可能になっている。ただ撮影場面はデルタの好みに応じて編集できるようで、クローラたち三名が俯瞰できるカットから、三人それぞれを視点に近い内容、あるいはずっと遠方から撮ったものなど、数秒単位でランダムに切り替わるのだった。
 映像は鋭峰の控える作戦司令室、さらには各契約者のパートナーのもとへと送られている。
 鋭峰のそばでルカルカ・ルーと共に『Φ、Υ、Τ』の画面を凝視していたセリオスは、声がクローラに届いていないのは承知で思わず叫んでいた。
「クローラ! 囲まれてる!」
 そのときすでに、垂とユマ、クローラは同時に敵襲を受けている。
「来たか!」
 右腕全体を覆う手甲で、垂は最初の一撃をかろうじて弾き返していた。
 手甲越しでも威力が伝わってくる。腕に強い痺れが残った。
 それは鞭の一撃。合金繊維を編んで作った帯電性の鞭が三本、蛇の舌のようにしなってぶつかった激しい打撃である。
「……本機は敵を捕捉した」
 鞭は出現したときと同じように、しゅっと短い音を上げて収納された。
 収納先は、一人の少女が伸ばした腕の先だ。腕の周囲三方に黒い孔があり、そこに鞭は吸い込まれるようにして消えたのだった。
 ほっそりとした少女だった。髪は薄いブロンドで、顔立ちは人形のように整っている。
クランジΦ(ファイ)ってやつか。いや、ファイことファイス・G・クルーンは死んだ。さしずめおまえは、そのクローン体ってことになるな。……Φc(ファイ・クローン)とでも呼べばいいか」
 言い終えるより先に垂は地を蹴って宙返りした。コンマ数秒前まで彼女がいた場所を、やはり電磁鞭が薙ぎ払っていた。足元の草は高電流に巻かれてたちまち黒焦げになった。

 このとき、ユマも敵と出会っていたのである。
 それはまるで鏡像、ユマそっくりのΥcだ。
 ただ、現在のユマが菫色の髪を切り揃えボブカットにしているのに対し、鏡像はこれを腰まで伸ばしていた。一重瞼の眼はそっくりだが、ユマの眼に知性と慈愛が感じられるのに比べれば、Υc(ユプシロン・クローン)のほうは両方とも義眼のようにしか見えない。無感情で、ただ殺意だけがにじんでいる。
「クランジの裏切り者……死ぬがいい! 殺して、私は正式な『ユプシロン』となります!」
「見た目だけ真似しても無駄です。あなたは私の過去、過去の亡霊……!」
 Υcは右腕を伸ばした。掌に開いた発射口から、長い鉄串が飛び出してユマを襲った。しかしその攻撃はやすやすとユマに回避されている。
「あなたは私の過去にすぎません! 過去に未来が敗れるはずが……」
 と構えたユマの銃が、次の瞬間には飛んで密林のどこかに消えた。
 Υcが発した二本目の串がこれを弾き飛ばしたのだ。
「まだ理解できないのですか!? 裏切りの未来は間違った『未来』! その過ちを修正するために私は生まれたのです!」
 Υcはヒステリックな声を上げると、豹のようにユマに飛びかかった。そこは斜面になっていたらしく、しばらく二人は組み合ったまま、永遠に思える距離を滑り落ちて止まった。しばしもつれ合うも分があったのはΥcのほうだ。クローンはユマを地面に押し倒し、その首を両手で絞めた。
「簡単には殺しません、裏切り者ユマ・ユウヅキ! 忘れたのなら思い出させてあげましょうか!?」
「ぐっ……ぁ……」
 ユマはこれを払いのけようとするが、あきらかにΥcのほうが力は上だ。万力のような力で締め上げてくる。
「あなたはファイが死ぬ原因となり、クシーの死、シータの死の原因にもなったのです! 罪にまみれ汚れた体……あげく、人間の男にたらしこまれて……!」
 違う、とユマは叫ぼうとした。
 だが声が出ない。
 ――私が……姉妹(シスター)の死の原因になった……!
 気管が押し潰されている。呼吸ができないゆえ両眼に涙が溢れてきた。
 Υcは知っているのだ。
 ユマの罪を。
 幸せの影で葬り去ってきた過去を。
 そのすべてを……。

 ――ユマから引き離された……!
 クローラは一人、Τc(タウ・クローン)と相対している。
 タウの初撃は、こちらの腕をつかむことだった。瞬時に危険を察してふりほどいたゆえ大事には至らなかったが、急激に加熱されたΤcの腕は、瞬時にして凄まじい温度になり湯気を上げていた。逃れるのが数秒遅れれば大火傷を負わされていたに違いない。
 腕を振りほどくと同時に見失ったものの、一瞬とはいえΤcの姿をクローラは目撃していた。栗色の前髪で、目元を隠した少女だった。
 いま、Τcの姿は見えない。
 だが気配はある。
 近い。
 ユマのことが気になる。彼女に菫色の髪の少女が襲いかかるのが一瞬だけ見えた。おそらくはユマのクローン体だろう。しかしΤcとの短い交戦を経て、二人とも見えなくなってしまった。
 深い密林というのが不利に働いている。いくら見回してもユマ、それに垂の姿が見えないのだ。
 加えてもう一つ不利があった。
 籠手型HCの数値が狂って、まともに表示をしないのである。人工的に造成された環境がなんらかの妨害電波を発しているのかもしれない。とりわけ、感熱センサーが使えないというのは厳しい。
 ――クランジΤ(タウ)について、記録は殆ど残っていない。実際、どんな人格であったのかすらわかっていないほどだ。それでも……できれば救いたい。
 しかしそれは難しいだろう。手心を加える余裕はない。
 ――倒すつもりで戦わねば、俺たちが死ぬ。
 全力で向かっていくしかない。
 それにクローラは、何よりもユマのことを考えなければならない。
 ユマだけは、たとえ自分が死ぬことになっても救う――そう誓ったはずだ。
 現在のユマは、かつての能力の大半を失っている。一対一でクローンと戦えば勝ち目はないだろう。
 クローラはすぐにでもこの状況を抜け、ユマを救いに行く必要があった。
 とはいえ実のところクローラはすでに知っていた。時間さえかければ勝てる状況だと。
「ゲリラ戦は読み合いだ」
 かつてリュシュトマ少佐が語った言葉だ。クローラは同意する。
 読み合いの勝負であれば、クローラのほうに一日の長があった。
 視界がきかないというのは、Τcにとっても同じと思われる。ゆえに容易に仕掛けてこないのだ。
 一方でクローラには切り札があった。
 それは機晶爆弾。遭遇戦になるまでの道すがら、歩きながら落として随所に仕掛けてきたのだ。場所も把握している。
 ここでホワイトアウトを発動し、さらに視界を遮って後退するという手がある。そうやって優位に立ち、Τcを巧みに機晶爆弾に誘導して倒すという方法は有効だろう。おそらくこれを選べば九割がたは勝てるはずだ。
 だがそれは時間がかかりすぎる。Τcを倒すまでに取り返しのつかない事態になったらどうするのか。
 あるいは、ユマはもう窮地にあるのかもしれない。
 Τcを誘導し倒すという作戦は、この状況では最善手とはいえないだろう。
 ――ならば最善手は……。
 クローラは自身の脳をフル回転させた。