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バレンタインに降った氷のパズル

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バレンタインに降った氷のパズル

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第四章

 料理教室の窓の外からは、地球に古くから伝わる雪の女王の吐息じみた、凍てついた高い風の嘶きが時折響いてくる。初花に手渡されたホットチョコレートの浸る白磁のカップを傍らの卓上へレンナが置いた時、その膝へと猫のアリスがおさまった。
 華奢な体躯を、オーナーの膝の上で丸めた猫は、懐かしむように喉を鳴らしている。
愛でるようにアリスの頭を撫でながら、今にも雪を吐き出しそうな窓の外へと視線を向け、レンナが一人頷いた。
「冬の女王――そう呼ばれた私の友人が、冒険の旅に出たのも、今日のような寒い日の事でした。本当に、旅に出るには最悪の日取り。けれど、彼女はいつも唐突で」
 平静さを取り戻した様子ながらも、未だ顔色の悪いレンナの横に立ち、イナが頷く。彼女は得意な薬学を駆使して、オーナーの持つホットチョコレートによく合う手持ちの香草を茶請けとして傍に置く。
「それで?」
 パートナーにチョコを渡すべく、ずっとチョコ作り教室に通っていたため、オーナーの覚えも良いトゥーナが、先を促した。彼女の穏和な緑の瞳に、安堵するかのようにレンナが頷く。
「私は勿論、あの肖像画の原本を描いた者も、彼女の旅立ちを止めました。ですが冬の女王は――バレンタイン・ディまでには戻るから、そうしたら真っ先にこのカフェに立ち寄るから、なんて口にして……これもいつもの事だったのです。結果として彼女は大して用意をするでもなく、荷物一つで旅立ってしまった。しばらくは戻ってこないのだろうなと、私は思っていました。無論、絵を描いた者も」
「その絵をパズルにしたんですか?」
 加夜が首を傾げる。元来困っている人を放っておけない性格なのだ。そんな優しげな彼女の表情に、レンナは、小さく微笑みながら首を振った。
「あの氷製の肖像画は、既存の絵を元に作ったものなんです。ただしパズルとは異なり、本当に小さな絵画だったんです。翌々年のホワイトデーが来る前に、画家はその絵を携えて、冬の女王を探す旅に出てしまいました」
「翌々年――って事は、旅だった年も、その次の年も、そのまた次の年も、冬の女王は帰ってこなかったのよね? QX」
 あゆみがピンク色の眼鏡フレームを押し上げながら、横で頷く。
「ええ。画家も未だに帰っては来ません。私は、絵を描いた友人が旅立つ前に、絵の複製をさせてもらったんです。――私も、せいぜい遅くとも一ヶ月、あるいは三ヶ月もすれば冬の女王と呼ばれた彼女は帰還するだろうと思っていたのですが、その頃には全く動向を聞かない彼女の事が心配になっていました。だから探す旅に出るという友人を止めはしなかった、それに……」
「それに?」
 言いよどんだレンナに視線を合わせるように、イナが穏やかに尋ねる。
「私の友人は、破天荒で決めたら即実行するような性格でしたが、絶対に約束は守る者でした。私は、彼女のそんな性格を知っています。時に気まぐれにも思える彼女でしたが、その仕事ぶりは、それこそ当時周囲から冬の女王と呼称されるほどに絶対的なものでしたから――その彼女が、私達に約束したのです。バレンタインまでには、戻ると」


「だけど、戻ってこなかったんだろう?」
 千歳が唇を撫でながら、僅かに目を細めた。
「約束を守るというのは立派な事で、それを実行していた者の話は、尊敬に値する。だが、結果は結果だ。――法は守る為にあるんだからな。普段それを実行していた人間が戻らないとなると……」
「千歳、早急すぎる穿った見方をしては駄目ですわ。百合園の名を汚さないようにしませんとね」
 イルマがそれとなく、千歳と、レンナの膝の上にいるアリスの間にわって入りながら応える。パートナーの言葉は、もっともなものだったが、千歳の眼差しが猫に釘付けである事を、イルマは見逃さなかった。
「当時バレンタインという概念は私達にとって、地球からもたらされたばかりの新しい概念でしたから。ただ、それは毎年やってくる。その事を、私も冬の女王も聴いていました。だから――私は、彼女が約束を破ったとは、今でも思っていません」
 レンナはそう応えると、アリスを心なしか強く抱きしめた。その様子を眺めながら、詩穂がよく通る良い声を上げる。
「もしかして、アリスの元々の飼い主さんは彼女――冬の女王だったのではありませんか?」
 その声に、一同が視線を向ける。顔を上げたレンナが、懐かしむように、ゆっくりと頷いた。
「飼っていた、というのは正確ではないのかも知れません。ですがこの首輪をアリスに与えたのは、間違いなく彼女です。――アリスも今でこそ、こうして大人しくなりましたが、当時はそれはもう勢いの良い猫で、この辺りの猫の中でも群を抜いた存在感がありました。その頃は、人には決して懐かず、人を信じないような仔で、私も見かける度に、威嚇されたり、ひっかかれたりしたものです。冬の女王となんて、幾度となく死闘を繰り広げていました」
「え、こんなに大人しいのに?」
 ネルが思わず呟くと、先程まで抱いていた邦彦も深々と頷く。
「ええ。ですが、ある日私の友人――冬の女王が、ドラゴンに襲われて怪我を負い絶命しそうになっていたこの仔を助けたんです。彼女からすれば、それは仕事だったのかもしれません……いいえ、彼女は嗚呼見えて猫好きだったので、違うのかも知れません。アリスと彼女は、それまでは、喧嘩友達だったのかも知れませんねが……そうですね、その一件を境に、アリスは冬の女王の家へと通うようになったんです。アリスもアリスで気まぐれなところがありましたから、戻ってこない日も多かったようですけれど」
 追憶に耽るように、レンナがアリスの耳の後ろを撫でた。
「彼女が旅だった後しばらく、私はてっきりアリスは、冬の女王の隣室に住んでいた、絵を描く友人の元へと通っているのだろうと思っていました。ですがあちらは、私のこのカフェにアリスが来ていると思っていたようで。姿が見えなくなってしまったんです。だからバレンタインの日に、アリスがどこに行ったのかと、私達は話し合いをしました。もしかしたら、冬の女王に着いていったのだろうかと」
「だけどここにいるということは――」
 加夜が尋ねると、レンナが緩慢に頷いた。
「アリスは着いてはいかなかった……あるいは、着いていきたかったのかも知れませんが。兎も角、あの最初の約束の日、いつかのバレンタインのその日に、アリスはここへとやってきたんです。冬の女王の帰還を待つように。私には、猫に日付の概念が分かるのか、それを知る事は出来ません。ですが、アリスは決まって今日、毎年この日、ここへと訪れるのです。私には、アリスが彼女の帰りを待っているように思えてなりません」
 そう告げ立ち上がったレンナは、教室奥の棚へ歩み寄りながら、苦笑した。アリスは、椅子の上に残っている。
「アリスも私と同じように――私も、いつまでもここで待っているんです。だから今年なんて、大々的に肖像画を公開しようと思ったのですが」
 自嘲するような笑みで、レンナが、ポーションの浸る長瓶と魔法の粉が揺れる小瓶を取り出した。
「じゃあ、アリスが肖像画に突進したのは――」
 貴瀬が続けると、レンナが二つの瓶を、カウンターへ置きながら頷いた。
「冬の女王が、待っていた人が帰ってきたのだと、勘違いをしたのでしょう」
 そういう事情だったのかと一同がそれぞれ瞳を揺らした。


 そんな時の事だった。


 激しい音を立てて、勢いよくチョコ作り教室の扉が開け放たれる。
「固いチョコが作りたいのよ、ここで出来るの?」
 入ってきたのは、イランダだった。彼女はもし現在外で騒ぎになっているように固いチョコを作り、それを自分から受け取ったら、パートナーの北斗は一体どういう反応をするのか知りたいという、好奇心に誘われてここへとやってきたのだ。率直に言えば、ちょっと北斗を虐めてみたくなったのである。
「イランダ――っ、なんでここに!?」
 周囲の喧噪をよそに、フリフリのエプロンを着けたまま、無事に解決する事を祈りつつも、ラッピングの準備をしていた北斗は、慣れ親しんだイランダの声に、慌てて顔を上げた。
「ええ、この粉を少し混ぜれば、パズルが全て完成しても固いチョコができますけど……」
 困惑しながら首を傾げたレンナの元へ、イランダが足早に歩み寄った。
「簡単なもので良いから、今すぐ作らせて頂戴」
「な、イランダ、そんなものを作ってどうするつもりだ?」
「別に――北斗こそ何をしているのよ……そんな格好で」
 小柄で愛らしい童顔の上で、緑の瞳をスッと細めながらイランダが首を捻る。彼女はレンナから受け取った小瓶を手にしながら、たまきがルージュチョコを作製していた台の傍へと歩み寄った。
 そしておもむろに、あまっている作成用の、未だ固いチョコレートがひたる銀器の中へとその粉を振りかけ、作業用らしきナイフを手に取った。
「手伝いましょうか?」
 声をかけたグレッグに頷き返しながら、イランダがボールに手を添える。華奢な指で、ナイフの柄を握り、ボールの中からチョコレートを切り出す彼女は、実に愛らしい。そうして料理上手のグレッグに手伝ってもらいながらもチョコ作りを始めたイランダは、北斗に対して改めて訝しげな視線を向けた。
「別に俺は、その」
 慌てて北斗が、一歩前へと進み出る。チョコレートケーキとラッピングを隠すように、彼は必死で両腕を動かしていた。その必死で何かを隠すような調子に、イランダが眉間にしわを刻む。
「これはお仕置きが必要だわ」