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黒薔薇の森の奥で

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黒薔薇の森の奥で
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 その一方で、薔薇の学舎には、森へと向かわなかった生徒たちの姿があった。
「〜♪」
 鼻歌まじりで書物をめくるのは、スレヴィ・ユシライネン(すれう゛ぃ・ゆしらいねん)だ。美しい声の持ち主ではあるが、哀しいかな、鼻歌だというのにその歌は相当に調子っぱずれで、元々なんの歌なのかすらわからない。
「ふーん、なんだかとんでもない人物だせ、ウゲンてのは」
 彼がここに来たのは、ウゲンとカミロについての情報を得るためだった。
 イエニチェリに選ばれるくらいだ。きっとさぞかし、華々しい経歴に違いない。そう考えたのだ。
 そしてそのもくろみは、そう外れてもいなかった。……とくに、ウゲンについて。
「4歳でイエニチェリって……マジかよ!?」
 スレヴィが驚愕するのも、無理はないことだ。2016年……今から4年前の記録には、カミロとウゲンが、薔薇学の第一期生にしてイエニチェリであったと確かに記録は残っていた。その、全てにおいて秀でた成績も。
 ただ、カミロはともかく、ウゲンが当時4歳だったということは驚きだ。
「ってことは、今は8歳ってことか」
 思わず指折り数え、スレヴィはひとりごちた。そして、なにがすごいって。
「校長のストライクゾーン、広すぎじゃないか……?」
 ちょっと明後日な方向で心底感心し、スレヴィは腕組みをして嘆息した。
 しかし、ある意味肝心な資料が見つからない。その翌年、カミロとウゲンの記録はぷつりと全て消えてしまう。しかし、消えたその経緯は、どこにも残されていないのだ。かろうじて見つかったカミロの資料には、一言『失踪』の二文字だけがあった。
「……参ったな」
「読書中か? 森へも向かわず、優雅だな」
 そう声をかけてきたのは、薔薇学が誇るイエニチェリの一人、ルドルフ・メンデルスゾーン(るどるふ・めんでるすぞーん)だった。
 トレードマークのマスクごしに、不適な流し目を寄越してくる。
「いや、ロスト・イエニチェリについて調べてて……」
「ほぅ」
 芝居がかった相づちをうち、細い顎にルドルフは指をかける。
「メンデルスゾーンは知ってるのか?」
「……いや」
 数秒の後、ルドルフはそう答えた。真偽の程は、仮面に隠れた表情からは読み取れない。
 だが、あえて彼が嘘をつく必要もないだろう。
「ただ、カミロは、校長が最も愛した薔薇だとは聞いているぜ」
 そんな相手が、よりによって鏖殺寺院へと身を投じてしまったのは、校長にとってはさぞかし辛いことだったろう。
 表情をふと曇らせたスレヴィに気づいたのか、ルドルフはくすりと微笑み、スレヴィの白い頬にそっと指を滑らせた。
「その心は、美しいな」
「……その、どうも」
 薔薇学に籍を置いてはいるが、基本的にスレヴィはストレートだ。咄嗟に身を引くと、あわてたように荷物の中からビニール袋を掴むと、ルドルフにむかって突き出した。
「これ、お礼だ。かき氷。あ、ドライアイスも一緒に入ってるから、溶けてないよ」
「ほう。それはありがたい」
「じゃあ、俺はこれで!」
 スレヴィはそう言い残すと、図書室から出て行った。
「あー、びっくりした」
 入り口で待たせていたクリス・バトラーと合流し、次に目指すのは、校長室だ。……といっても、ジェイダスと話すつもりはない。目的はラドゥ・イシュトヴァーン(らどぅ・いしゅとう゛ぁーん)のほうだ。
 一人でいるところに会えれば、せっかくなので、手みやげに新鮮なヒマワリを渡すつもりだった。
 しかし、校長室の前で、スレヴィとクリスは足を止めた。

「私には、聞く権利があると思いますよ。……イエニチェリとして」
 ジェイダスにそう尋ねる声には、聞き覚えがある。黒崎 天音(くろさき・あまね)だ。ということは、ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)もいるに違いない。
 こっそり覗き見ると、さらに佐々木 八雲(ささき・やくも)南臣 光一郎(みなみおみ・こういちろう)オットー・ハーマン(おっとー・はーまん)の姿も目に入った。
 光一郎は先ほど、うんうん唸りながら図書室でなにやら調べ物をしていたが、結局スレヴィより先に根をあげて出て行ったのだが、なるほど校長室へと向かっていたのか。
 ラドゥもいるようだが、こう先客がいては、残念ながらゆっくり話をきくなどということは難しそうだ。
 スレヴィはそう判断すると、ラドゥあてのヒマワリと、校長あての差し入れのかりんとうをそっと部屋の前に置き、その場から立ち去った。

 校長室は、美しいものをこよなく愛するジェイダスの趣味によって、豪奢なつくりとなっている。重厚なアンティークテーブルの上に、光一郎は濃茶の注がれたカップを置いた。タシガンコーヒーではなく、趣向を変えたのは、光一郎なりの考えがあってだ。
 しかし今のところはまだ、光一郎は口を挟むタイミングを見つけられずにいる。とはいえ、もとが短気な彼のことだ、そのうち強引にでも入り込むだろうと、彼に振り回されることに最近はつくづくとならされつつあるブルーズは、背後に控えつつ予想していた。
「何故、ウゲンを探す必要が?」
 端正な横顔に微笑みを浮かべつつ、しかし強い意志を滲ませ、天音は尋ねた。
「なんだか、妬けちゃうな」
 そう、いくらか甘えた口調で付け加えたのは、ジェイダスの口を割らすための最後の一押しのようなものだった。実際、そんな天音の言葉に心が動かされたのかもしれない。ジェイダスはいつもの傲慢な、それでいて強烈な魅力をたたえた瞳を、天音に向けた。
「……四年前のことだ。ウゲンは、一人の男とともに姿を消した。美しい薔薇たちだったがな」
 ぴくりとラドゥの肩が揺れる。手にしたカップを砕きかねないほどに力を込めている様子を見やり、光一郎は「おかわり、いかがですか?」とわざとらしく声をかけてみた。
「けっこうだ」
 つっけんどんにラドゥは返す。相変わらず素直にはなれないまま、それでもロスト・イエニチェリの名前を聞くだけで、彼は平静ではいられない様子だった。
「そのとき、ウゲンとともに消えたのが、カミロだ。その男が、先日天沼矛に出現した鏖殺寺院製のイコンのパイロットだとの調査結果が出た。……真実を知るとすれば、ウゲンのみ。そのためにお前たちを森に向かわせた。それだけのことだ」
 それだけ、と端的に語るものの、ジェイダスの口調はいつになく憂いを帯びていた。
「……なるほど。けれども、何故……」
 消えたのか。それを天音が尋ねる前に、ラドゥが耐えきれないようにその場を立ち上がった。
「理由なぞどうでもいい! 奴らは、ジェイダスを裏切った。それだけだ!」
「ラドゥ」
 落ち着け、と言うようにジェイダスが名前を呼ぶ。渋々再び腰掛けたものの、ラドゥは不機嫌そうに横を向いてしまった。「まぁまぁ」と光一郎が再び半ばおもしろがるように声をかけている。
(さて、どうしようか)
 天音は内心で呟く。もう少しカミロについて情報が欲しい。それを、森に向かった一行……エメ・シェンノート(えめ・しぇんのーと)早川 呼雪(はやかわ・こゆき)、そして鬼院 尋人(きいん・ひろと)へと伝えることも、天音の目的の一つだった。
 しかし、ここでヘタにカミロについて尋ねても、ラドゥがますます激昂しかねない。そして、ジェイダスもまた、ウゲンを探す他にカミロへの情報の道筋がなかったことははっきりしている。
 背後から、ブルーズが気遣わしげな視線を寄越していることには気づいているが、それについては無視する。危険な森へと向かわなかったことについては、ブルーズはかなりほっとしていたようだったが、どちらにせよ気を揉む事態にはなっているようだった。
(天音の好奇心は、誰にも止められないからな……)
 そうあきらめてもいるので、口を差し挟むことはしないけれども。
(じゃあ、そうだな……)
 再び口を開こうとしたところで、ぽんと間に割って入ったのは、他でもない光一郎だった。
「なぁ、校長先生。このお茶、タシガン製なんっすけど、けっこう美味いっすよねー」
「……まぁな」
 突然の話題転換に、その場の一同が面食らった表情になる。だがそのまま、光一郎は続けた。
「霧が深いとこって、茶っ葉がよく育つらしいんっすよね。地球でも、そーなんっすよ。スリランカとかインドとか。……そーいや、ウゲンって名前も、そのへんの国の名前なんっすよねー」
「ほぅ」
 ジェイダスが、ちらりと光一郎を見やる。天音もまた、意外な方向からの光一郎の言葉に、興味をそそられた。
「ラドゥって人もいんですよー。それがね、どっちも、地上で大国や宗教の狭間にいた人っつーのが、なんか、偶然っすよねぇ〜。あ、校長が名付けた、とか!?」
 あくまで口調は軽薄に、ただ、どこか抜け目ない瞳で光一郎はそう続けた。
 果たしてどう答えるのか、天音にも若干の興味がある。黙って答えを待つうちに、ジェイダスは茶を豪快に飲み干し、それからニヤリと笑った。
「名付けたのは、私ではない。ただ、どちらも私の美しい薔薇の名だ。気に入っている」
「……そっすか」
 光一郎は、若干曖昧な笑みを浮かべて頷いた。微妙にはぐらされた気もするが、これ以上つっこむのも得策ではないと判断したのだろう。
(ほほぅ)
 内心で呟いたのは、背後にいたオットーだ。外見は鯉だが、沈思黙考が似合う知性の徒、を自認している以上、余計な口をこの場では差し挟まなかった(痴性あふれる破廉恥鯉、ではない。あくまで)。
 光一郎は早々に音を上げてしまったが、先ほどの図書室では、オットーはまた別のものを探していた。黒薔薇の森についての資料をあたっていたのだ。しかし、結果としては、ものの見事に情報はなかった。この学校のことだから、『謎は謎のままが美しい』と言いかねないとは思っているが。
 ただ、今のところ、わかっていることは。
 森には秘密が隠されている。その名前は、ウゲンという。
「もう8歳になるのか。美しく育っているか、楽しみだな」
「8歳? ……ウゲンが?」
 天音はやや驚いて口を開いた。そんなにも幼いとは、さすがに予想外だったのだ。
「ああ」
 答えたのはラドゥのほうだった。
(とりあえず、ウゲンの情報だけでも、三人に伝えておこうかな。さて……この情報、上手く使えると良いのだけど)
 天音はそう思いながら、窓の外を見やった。いつになく曇った空は、のしかかるように重たく感じられる。
「天音?」
 小声でブルーズが天音を伺う。心配いらないよ、という風に、天音はただ美しく微笑んでみせた。
「校長」
 そこで初めて、八雲が口を開いた。左目を無くし、現在療養中の八雲は、弟の佐々木 弥十郎(ささき・やじゅうろう)と別れて学舎に残った。弥十郎との精神感応による通信を、ジェイダスとラドゥに伝えるためである。……同時に、ここで得られた情報を、弥十郎にも伝えていたが。
「生徒たちが、それぞれ森へたどり着いたようだ。……カミロとの接触は、まだ無いようだが」
「そうか」
 ジェイダスは頷き、今後も通信を続けるよう指先で促した。