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intermedio 貴族達の幕間劇(後編)

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intermedio 貴族達の幕間劇(後編)

リアクション

「真珠が……」
 通話の切れた携帯電話を握りしめ、呟くアレッシアに、
「これ以上絶望することもありませんよ」
 ひそかに、いつも通りに、メイドとして。
 部屋の一部と化して、花瓶を雑巾で拭っていた高務 野々(たかつかさ・のの)が、重い空気を読まずに発言する。
「今が最悪なら、これ以上の最悪はありません。オペラも、見に行っても行かなくても最悪なんです。だったら、せっかくだから見に行きましょう」
 オペラを見に行けば、きっと当日何か動きがある。そして、それまで彼女は生きることになる。
(いえいえ、決して私がオペラを見たいとか、そんなわけではないのですよ。本当ですよ?)
 アレッシアは小さな息を吐くと、
「少し、疲れました。寝ますので、席を外していただけませんか?」
「のう……」
「大丈夫です、今は、自殺をしようなんて考えていませんから」
「わかった。何かあったら呼ぶのじゃぞ」
 かしこまりました、とメイドらしく出ていく野々。名残惜しげな視線を送り、ドアを出てすぐ側の壁を背に立つミア。
 そして……、
「お疲れでしょう?」
 アレッシアが窓に向かって声を投げれば、ひそかに窓枠に引っかかっていた手が、ぐっと伸び──かと思うと、衣が舞い上がった。
「失礼する」
 ふわりと床に舞い降りたその狩衣姿の男は、部屋にアレッシア一人であることを確認すると、憚ることなく彼女にひたと視線を当てる。
 アレッシアは、身構えることもない。彼の見立て通りの女性のようだ。奔放な恋愛や情欲に身を任せることもなく、それらを押し殺して立場と役割を忘れぬように育てられた女性……。
「我が名は讃岐院 顕仁(さぬきいん・あきひと)。我が契約者らからの伝言を預かってきた。昔なら我が赴くまでもなく、誰ぞを使いに、枝に文でも付けたものだが……」
 我からも少々尋ねたいことがあったので良しとしよう、と彼は呟いて、自分で自分を納得させて、
「不躾は承知だが、何やら他人事にも思えなくなってな。我の父、祖父はそなたの夫と同じような過ちを犯した。我もそのツケを支払わされたようなもの……」
「……異国の地でも似たようなことがあるのですね」
「では、伝言に移ろう」
 彼は長い伝言を、記憶の限り再現して見せる。かつては長い長い和歌や漢詩、書物を暗記することが教養だった。これくらい造作もない。

「アレッシア様、私はレイチェル・ロートランド(れいちぇる・ろーとらんと)と申します。先日オペラ『騎士ヴェロニカ』を観劇しましたので、物語の感想をお伝えしたいと思いまして伝言を頼みました。
 ジェラルドが当主の務めを了承して、政略目的ででもヴェロニカと結婚したのならば、彼女を愛する用意はあった筈。ただ、恋人の手前と若さから、妻を愛するにはためらいがあった、と。
 一方ヴェロニカは、政略結婚ですから、愛は期待していなかったが、全くないわけでもなかった。そこに、ジェラルドのなんともない『拒絶』……これで、二人の間につつがなく愛が芽生えるでしょうか?
 ジェラルドは元の恋人を、ヴェロニカは女王への忠誠を口実に、すれ違い続けたのではないでしょうか。真実の愛が芽生えたとしても。
 アレッシアさんは、すれ違ったままでいいですか?」

フランツ・シューベルト(ふらんつ・しゅーべると)です、奥様。ぜひオペラの第二幕にいらしていただきたいと思っています。芸術の擁護者たるあなたへ、芸術家達が感謝を捧げたいと思っているのですよ。
 僕もオペラの第二幕にチェンバロで加えさせていただこうと思っています。
 ……音楽を愛して下さってありがとう。音楽もあなたを愛し、必要な時には心配をし、支えたく思っているのですよ。
 そして音楽は、周りの気配にも敏感に反応しますから、また殺気が現れれば僕が対応できるはずです。二度と悲劇は起こさせません。
 僕を知ってくださっていた、貴方の為に」

 というわけだ、と顕仁は言った。
「上演中に何かがあろうと、我らがそなたの警護を引き受ける。安心して欲しい。しかし、レイチェルも言っていたが、……本当に愛したいのは、一体どなたか? そなたの心を引き裂くのは何?」

「上手くいってるんやろか」
 ──顕仁のパートナーである、地球人大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)は、顕仁が消えた窓を遠くから見つめながら、小さく呟いた。
「長居してアウグストさんに見つかりでもしたら、色々厄介やからな……」
「きっと大丈夫です。誠意を尽くせばご理解いただけますよ」
 レイチェルの真摯な顔に、泰輔は苦笑する。
「それなんやけど、レイチェルの伝言……、アレッシアさんはオペラをどうシンクロさせてるか、気になるな」
 かつてのバルトリ家を描いたオペラ『騎士ヴェロニカ』も、現状のバルトリ家も、どちらも政略結婚で結びついた夫婦の話なのだ。
「見るのが辛くなる内容なら、ますます来たくなくなるかもしれん。それにオペラ開演前にちらっと見たあの貴族っぽい女性と旦那さん、あの二人の間柄は、当主ジェラルドとその引き裂かれた恋人と同じなんやろか?」
 泰輔は腕組みをして考え込む。
「で、アレッシアさんがヴェロニカだとして、何に/誰に忠誠を誓っていて、ダンナと打ち解けられへんねやろ? 夫婦の間は移り変わるものなのかもしれへん。ロジーナとアルマヴィーヴァ伯爵が『セビリアの理髪師』では魅かれあう恋人同士やったが『フィガロの結婚』では不誠実な夫に悩む妻と、領民の新妻に初夜権を行使したがる伯爵になってしまったようにな。あれは一度は誠実に愛し合った恋人達や。そして最後には、許しあう……」
「的確な表現なのは認めるけど、ここに歌曲の王がいるんだから、僕のオペラでも例えて欲しかったね」
 当の歌曲の王──繊細なシューベルトの英霊はパートナーへ残念そうに抗議したが、君のオペラはマイナーやからよう知らん、と言われてしまって、がっくり肩を落とした。
「た、確かにマイナーなのかもしれないけど……ひそかに名曲揃いだって、一部では評判なんだけどな……」
「死にたいほどに自分を追い詰めてしまったのは、アレッシアさんのどんな感情やろ? ……来てもらえたら、きっと何か分かる、変わると思うんや」
 再び窓に目を転じると、パートナーの袖が翻っていた。泰輔はすかさず“召喚”で、顕仁を呼び戻す。便利な片道切符だ。
「どうやった?」
「……そなたの疑問には答えがあったようだぞ。アレッシア・バルトリが忠誠を誓っているのはその役割。名家の夫人としてアウグストを補佐し家を守ること。しかしアウグストは彼女を顧みなかった。そして信じたものにも裏切られたと思った故に、役割を続けることに疲れ果てている様子であった」
 そして、彼自身の問いには、アレッシアはこう答えたのだ。
「私は夫を愛そうと努めましたが、あの人の心には届きませんでした。そして今他の誰かに惹かれても、恋をすることは許されません。憎むのは私の弱い心です。無関心であるべきは私の欲望です。私は人形であるべきなのに」
 顕仁は彼女の言葉を思い出しながら、自分が先ほどまでいた、部屋へと続く窓を見上げた。
 そこにいたのは、──空を舞う一人の少女の姿。


 正確には二人だった。
 少女牛皮消 アルコリア(いけま・あるこりあ)の体を覆うのは、パートナーの魔鎧ラズン・カプリッチオ(らずん・かぷりっちお)だったから。
 彼女達がここに来たのには、理由がある。
 彼女が何故アレッシアを襲撃するようなことをしたのか、知り合いの百合園生らに尋ねられて、理由を答えた時に聞いた。……アレッシアからアルコリアの名が出たというのだ。
 ならば、襲撃の件で百合園女学院から出ないよう、謹慎を言い渡されていても、それは些細なこと。
 尤も最初は手紙を出して、電話で連絡を取るだけのつもりだった。一度は手紙を渡すために聖なる鹿とドンネルケーファーを使いにしたのだが、彼らにはその動物並みの知能しかなく、道順をたどって、よく知りもしない人物に渡すことはできなかったのだ。
「あーあ、せっかく出たのに誰も襲ってこないね? つまんないのー」
 ごまかして出てきたから当然だけど、と言いつつラズンは不服げだ。といっても鎧姿だから、その声が不服げ、というだけだが。
「帰る頃には気付かれているかもしれませんよ」
「そうだね、襲ってくるかもね? 正当防衛よね? だよね? きゃふっ」
 アルコリアは無言で頷くと、アレッシアの部屋の窓枠に手をかけると同時に“空飛ぶ魔法↑↑”を解除した。
「はろはろー、いけまさんですよー、ちゃおー」
 アルコリアは窓から顔をのぞかせると、手をひらひら振った。
 ソファに体を埋めていたアレッシアの顔が強張る──それは恐怖とは別のものだ。
「嫌ですね、そんな怖い顔しないで下さいよ。せっかく百合園から抜け出して来たんですから」
 部屋に降り立とうとする彼女を、アレッシアは手で制した。
「そのままでお願いします」
「……どっちでもいいですけど」
 アルコリアは要望を聞き入れることにすると、窓に腰かけて長い髪を指先にくるくると巻きつけた。
「私の名前を百合園の知り合いに出したそうですね。何か話したいことがあるんじゃないかって思いまして」
 ミアとレキからではない。彼女と連絡を取った百合園生の一人から、アルコリアに伝わったのだ。
「何故私を、殺人者の汚名を被ってまで助けたのですか?」
「助けてないですよ。命が失われるのを阻止しただけ。命に触れ続けてきた人殺し故に死なせなかった、それだけです。だって、助けを求められてないのに助けるなんておかしな話じゃないですか」
 アルコリアの言葉にアレッシアは怪訝な顔を向けるが、彼女はさほど気に止めることなく、
「人は誰も自分を救えない、だから自分で救われるしか無いんですよ。……さて、貴女には今数多の手が差し伸べられています……自分の手で選んで、掴んで下さい」
 じゃ、とアルコリアは言いたいことだけを言うと、彼女に背を向けた。言葉を連ねてもあまり意味がないのは分かっており、距離をわざわざ置いた彼女からすぐに返答があるとも思わなかった。
 けれど、アレッシアの声が背にかかる。
「私からも伝えたいことがあります」
「何ですか?」
「私は貴方とは会わなかったことにします。真意がどうあれ、貴方は多くの貴族や友人を傷つけました。貴方は他にもっと穏便な方法を知っていながら、わざと選択しなかったのです。私の命よりも大事なものを守るよう考えてください。いえ、貴方が自身の居場所や友人を失いたくないのなら、そう行動するべきです。掴むのが自分なら、手放すのも自分」
「……忠告ですか。それだけ言えるなら、もう大丈夫ですね」
 くすり、とアルコリアは笑うと、身を翻し、再び窓から空へと舞った。
 
 ──果たして予測通り、アルコリアらが百合園女学院から姿を消したことはすぐに学院内で知られることとなった。
 二人が百合園に帰ると、校門で待ち構えていた生徒会役員によって校長室に連行された。そして校長は、謹慎を破ったことによって、停学処分を下したのだった。