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第8章 深淵の暁闇より生まれ出ずる新世界の堕天使は、混沌とセカイを天秤にかけた


 正直なところ、フェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)は疲れていた。
 一人で片づけできない幼児が散らかしたおもちゃを、危険だからとおもちゃ箱に戻す、出される、戻す、出される……というような、際限のない作業を続けていたからである。
 更に、周囲に怪しまれぬようにと、恥ずかしい演技付きだった(幾つか考えた末、彼の「設定」は、『深淵の暁闇』の誘いを断り、狙われるに至ったフリー契約者、というものになった)。
 その上、どこからかずっと視線を感じる。
(あまり気にしないようにしましょう。害もないようですし……今のところは。それよりも……皆さんのサポートが先ですね)
 彼はテーマパークに来てからというもの、細々とした避難だのなんだのをしてきた。誰かに当たりそうな武器の先を削ったり、投げられるゴムボールを受け止めたり、倒れ込む自称契約者の頭を打たないように支えたり、巻き込まれそうな一般人を、近づかないように誘導したり。
 一応、契約者の端くれだ。おまけに避難誘導には慣れてきていた──悲しいことに、ここ二、三年、何度もヴァイシャリーが危機に晒されてきたからだ。
 危機の度に、あらゆる意味で大した力を持たないヴァイシャリーの無力さを味わってきた。同時に圧倒的な、あらゆるかたちでの「暴力」も、嫌というほど味わってきた。今のヴァイシャリーの対話も政治も交渉も経済も、あまり役に立っていない気がした。それが自身の無力感に繋がっていて、ただそれは、契約者と一般人の関係にも似ているとも思った。
(それでも、契約者よりそうでない方が圧倒的に多い以上、少しでもヴァイシャリーの役に立てることがある以上……諦めるのは卑怯と謗られるでしょうね)
「きゃっ!」
 小さな悲鳴に彼は振り向き、手を伸ばして、契約者の一人が投げ損ねた、折り紙手裏剣を受け止めた。
「ありがとうございます」
「いいえ、お気を付けて」
 その女性は軽く会釈すると、小さな子供を連れて去っていった。
(さて……)
 フェルナンはパートナーから届いた携帯のメールに軽く目を通してから、続く舞踏会の会場に目を向けた。
 時間は午後三時。自称契約者の数は、ここに至って十人を切っていた。
 その中に、一人場違いな感のある少女が立っていた。
 黒史病の原因が、彼女──「黒い本」を本体とする魔導書であることは、ほぼ間違いがなかった。
 おそらく彼女は何らかの方法である種の人の望みを嗅ぎ付け、病を発症させ、その後、病を発症した人間の「妄想」を食べて成長する。百合園本校からの報告書にあった、「人によって正気に戻る速度が違う」のにもその妄想を食べる特性が何らかの形で関わっているのだろう。
 『ここに残った方たちは、より想像力に富む方が多いようです。“彼女”は必ず行動を起こすでしょう。気を付けてください』
 フェルナンはパートナーと協力者に向け、メールを打った。
 今まさに、最後の戦いが始まろうとしていた……。

 携帯に目を落とすフェルナンの背中を、じーっと見つめる一人の少女・七原あゆみ(七瀬 歩(ななせ・あゆむ))。
 彼女の唇から悩ましげなため息が漏れた。
(ああ……何故私は生まれてしまったのでしょう。罪深きこの穢れた世界を救うことが私の役目。
 しかし、例え穢れきった世界とはいえ、この地に住まう力なき人々を巻き込むことは心が裂ける想いです。彼らの無知を嗤うことは容易いこと。ただ、私にはその愚かさすら愛おしい……)
 一見しとやかなお嬢様に見える彼女の二つ名は、闇の救世主(ディリーズ・メサイア)
 深い闇の力を持ち、世界を滅ぼす運命を因果にも与えられている少女である。
 本来なら組織に属し、奉られ、世界を破滅へと導く先鋒となったのかもしれない。けれど、彼女はその名を忌み嫌っていた──運命なんかに、負けたりはしない。
「笑顔+敬語……。あれは組織の中でも幹部クラスね、間違いないわ!」
 招待状が来たときは、迎え入れられたのかと思った。次に、滅ぼす運命が顕現したのかと思った。運命に飲み込まれるか否か迫られたとき彼女は決意した。これは組織を壊滅させるためのチャンスでもある、と。
 彼女はまじかる☆ますけっとを構えると、フェルナンの前方に回り込んで行く手を遮った。
「組織の幹部ね……覚悟しなさい!」
「いいえ、私は──」
 フェルナンは弁解しようとして、躊躇した。どうも「フリーの契約者設定」はお呼びではないらしい。仕方ないので設定を変えよう。
「よく分かりましたね。私は組織の最後の幹部の一人。偉大なる『恋人』と呼ばれるお方黒薔薇の姫──ノワール・ノワゼット様の忠実なる腹心」
「やっぱり……」
 どうやら疑問は持たれていないようだ。少しほっとしつつ、フェルナンは情報を(彼女の設定を)引き出すべく言葉を続けた。
「どうでしょう、貴女は『恋人』と敵対関係にある『教皇』の手の者ですか? あるいは『吊るされた男』の……?」
「闇の救世主? 私はそんな名ではないわ。組織など許さない! 私は弱き人と共に歩む!」
 聞かれてないのに二つ名を答えて、彼女はフェルナンをにらみつけ。
「先手必勝、直水垂平撃(バーティカルホライズン)!」
 因果律を操ることにより、かつて失われた時の中に対象を閉じ込める術式。この技を受けたものは、過去と現実の狭間に囚われ未来永劫さまよい続けることとなる。
 ──という設定を、フェルナンは知らなかった。
 どうしようか、と迷う。正気の人間から見て黒史病患者は、手を突き出してカッコイイ台詞を言っているようにしか見えない。
 少しでも抵抗した方がいいのか、倒されるならどんな格好がいいのか、とか。幹部設定だから、一発でやられても不自然だろうとか。
 数秒迷って、彼は両手を天井に向けると、両手の親指と人差し指三角を作って見せた。それを胸まで持って行き、次に、逆三角に変える。
 両手に光が生まれているかのように手を離し、円を描くように再び頭上に掲げた。右手の指先を開き、叫んだ。
<水奏交響曲(エターナルシンフォニア)>
 必殺技を出すように右手を突き出し、“光術”による光を呼び出した。同時に踵を蹴って、
「うあああっ」
 苦痛の声を上げながらのけぞり、ずさあああっと床に肩から飛ばされるように倒れる。必殺技を受けたフリだった。相手の技の属性を知らない以上、このフリでいいのか果たして自信はなかったが、ダメージを受けたという演出にはなる。
 同時に、彼女もまぶしい光に(明るめの懐中電灯程度だったが)に小さな悲鳴をあげた。
(一応、相打ちらしくなった……でしょうか?)
 フェルナンは顔を腕で庇いながら、薄目を開けてあゆみを確認する。
 あゆみはあおむけにゆっくりと倒れると、青空の広がる天井を、薄ぼんやりと見上げた。
 薄れゆく視界のなかで、あゆみは彼女に告げた。
「術が、不完全だったの……。ライバルの……あなたに、頼むのは……悔しいけど……後は、お願い……」

 彼女は魔法少女のよしみよ、と頷くと、倒れたフェルナンの鼻先に、魔砲ステッキを突き付けた。
 百合園女学院の制服を着たその少女は、彼の知らない顔だった。尤も、名前を聞いたら余計混乱していただろうから、幸いだっただろう。
 彼女は百合園に通うお嬢様・宇都宮祥子、彼女は奇遇にも、彼の知人の空京大学生・宇都宮 祥子(うつのみや・さちこ)と同姓同名だった。
「倒れたふりは無駄ですよ。直水垂平撃(バーティカルホライズン)は失われた時の中に閉じ込める術式。術式が不完全だったのは、ここにいることからも自明の理です」
 彼女はしぶしぶといった風に起き上がったフェルナンに、再び、びしっと、ステッキを突き付ける。
「『月極』……いいえ、深淵の暁闇。ついに尻尾を出しましたね。静香のお父様とお母様に莫大な借金を背負わせた張本人!」
(静香……借金、というと、桜井校長のことでしょうか?)
 フェルナンも、百合園の校長・桜井静香の実家が借金だらけ、という話なら知っている。相手が地元の銀行であることも、借金を負った経緯も知っている。
 だが、彼女は、病気によって、どうもその原因を組織のせいだと思っているようだ。
「愛と正義と桜井静香の名のもとに、深淵の暁闇を滅ぼす、恋する可憐なか弱い乙女の底力──本気狩(マジカル)ランサー・ロザ☆リン正々堂々正面突破で登場です!」
 ああ、とフェルナンは、心中で頷いた。祥子はどうやら、ロザリンド・セリナ(ろざりんど・せりな)に憧れているらしい。
 百合園女学院生徒にとって、パラミタ校も同じ百合園という親近感があるというのは自然なことだ。白百合団班長かつロイヤルガードの彼女に憧れる生徒がいても別段おかしくなかった。
「あなたたちを倒して組織の全貌を暴き、桜井家の借金を帳消しにしてみせます!!」
 えいやー、と、祥子はステッキ(という名の傘)を振り回した。
 頭をかがめて交代するフェルナンに、えいえいと祥子は追い打ちをかけた。その表情には余裕が見て取れる。
「ふふふ……ただの契約者の身でロイヤル契約者である私に勝てると思ったのですか?」
「ロイヤル契約者……。なんだかゴージャスな名前ですね」
「あぁ、静香。もうすぐ自由の身になれます。そうしたら……ぽっ」

(組織潰す→桜井家の借金無効→校長しなくて良い→晴れて自由の身に→結婚!)

 薔薇が色づくようにさっと頬が染まり、妄想満開の様子に、口に出さなくても何を考えているかダダ漏れだ。
「流石にそれは飛躍しすぎでは……」
「飛躍じゃありません、共に飛翔するんですっ! さあ、私に大人しく狩られてください!」
 祥子はステッキを槍のように持ち替えると、拳をひねって突き出した。
「槍よ、敵を貫け──<美技・飛翔光槍貫閃>!」
 ステッキの先から伸びた光の槍が、フェルナンの腹を貫く。それを見逃さずに、再び彼女は杖を掲げた。
「秘儀・<槍天来雨>! 魔法の力で召喚した神話伝承に登場する槍たちが、あなたに降り注ぎます!」
 ロンギヌス、グングニル、ブリューナク、ゲイボルグ──。
 神話に伝えられるその槍が、後方に跳ねたフェルナンの四肢を貫き、大地に繋ぎ止める楔となった。

「…………」
 こういう時は、どういう顔をして、どんな台詞を言えばいいのか。
 先程みたいに、やられていない、という設定を回避するためには、どうすればいいのか。
 フェルナンは少しだけ考えて、首筋から力を抜き、かつてどこかで聞いたことのある台詞を吐いた。
「……………………ぐふっ」
 その台詞に勝利を確信したのか、手を取り合い勝利を喜ぶ二人の魔法少女。
 彼はその横顔に安心しながら、魔導書がひそやかに近づき彼女たちの妄想を“食べ”て行くのを、薄眼で見ていた。
 黒史病の患者から立ち上る魔力の揺らぎが、魔導書の開いた口腔にすっぽりと収まると、彼は起き上がり、床に座り込む二人の少女に、手を貸しに行った。