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第5章 ムティル受難

「久しぶりだな、ムティル」
 部屋に戻る途中、聞き覚えのある声にムティルは振り返る。
「呼雪か」
 薔薇の学舎でかつて同級生だった、早川 呼雪(はやかわ・こゆき)だった。
「ジャウ家の噂を聞いて、気になってな。何かあったのか?」
「わざわざ来てくれたのか? 俺のために」
 ムティルの紫色の瞳がすうっと細くなる。
 呼雪の腰に、そっと手が回される。
「学生の時には、なかなか話す機会がなかったからな。一度、ゆっくり話をしてみたいと思っていた」
「俺もだ」
 ムティルの顔が、近づく。
 触れ合いそうになった時。
「それでも……今、この時、お前は目の前にいる俺を見ていないだろう」
 呼雪が冷静に、告げる。
「どういうことだ?」
「気付いていないのか」
 どこか冷たさを感じさせるほど淡々とした口調で、呼雪は語る。
「お前は薔薇学で、一体何を学んできたんだ? 本当に大切なものは何か、よく考えてみると良い。大切なものを、失ってしまう前にな」
「おい……」
 それだけ告げると、呼雪は去って行った。
 一人残されるムティル。
 そこに。
「あらー、振られちゃった?」
 軽い声。
「お前か」
 さほど嬉しくなさそうな様子で、近づいてきた相手の顔を見るムティル。
 呼雪と同じく薔薇の学舎にいた……呼雪の恋人、ヘル・ラージャ(へる・らーじゃ)だった。
 まぁ、僕がいるのに簡単には靡かないよねぇと小さく笑いながら、ムティルとの距離を詰める。
「……僕が、慰めてあげようか?」
 気が付けば、ムティルは壁際に追い込まれていた。
「好みじゃないんでね」
「まあそう言わないで……今頃、ムシミスも他の奴と楽しんでるかもしれないだろ」
 ヘルの言葉にムティルの顔色が変わる。
「なんであいつの名前が出てくるんだ?」
「あっれー、気づいてないの?」
 わざと大げさな様子で驚いて見せる。
 それと同時に、ムティルの半身を壁に抑え込む。
「な、何を……」
「ねぇ、想像して。ムシミスは今、こんなコトされてるかもしれないんだよ」
 ヘルの手が、ムティルの服のボタンにかかる。
 するりと服の中に潜り込む。
 びくり。
 ヘルの手が肌に触れた瞬間、ムティルの体が震える。
「や、やめ……」
「どう思う? 大好きな君の事も忘れて、君の知らない男の手にかかっているムシミス……」
 服の下で蠢く手。
「……っ!」
「ナニか、感じない?」
「……んっ」
「――なぁんてね」
 ひらりとムティルから離れる。
 離れる寸前に、耳元でちいさく囁いた。
「それはきっと、恋だよ」

「お待たせ、呼雪」
 ヘルが廊下を曲がると、恋人が黙って立っていた。
 ヘルは呼雪にそっと口付ける。
 しかし返事はない。
「……もしかして、妬いてる?」
 無表情の歩き出す呼雪。
「呼雪ー?」
 その後を、慌てて追いかけた。

 ヘルが去った後、一人残されたムティルは壁にもたれたまま動かなかった。
「好きだから気になる……違いますか?」
 どこから聞いていたのだろう。
 執事としてジャワ家に入っていた清泉 北都(いずみ・ほくと)が、ムティルにそっと告げた。
「ここに来たのは、200年以上前だったかな。当時の当主に比べると、今の当主はまだまだだな」
 北都に続いて、ソーマ・アルジェント(そーま・あるじぇんと)も軽く笑う。
 彼の視線の先には、古い肖像画。
 そこには、当時の当主のピアノに合わせてヴァイオリンを弾くソーマに似た男性が描かれている。
「……っ!」
 北都たちの言葉の内容にだろうか、それとも見られていた事にだろうか。
 赤面して北都達を睨みつけるムティル。
「お、お前らには関係ない……いや、そんな訳ないだろう! くそっ、不愉快だ。モーベット!」
 北都らと共に執事として雇われたモーベット・ヴァイナス(もーべっと・う゛ぁいなす)を呼ぶ。
「何だ」
「今夜も付き合え」
 モーベットの顔に手を伸ばすムティル。
「構いませんが……あ」
 ムティルは腹立ち紛れに、モーベットの眼鏡に手をかける。
 それが彼の逆鱗とも知らず。
「……」
「たまには眼鏡を取った顔を見せてみろよ」
 せせら笑いながら取り上げた眼鏡をかざすムティル。
 そのレンズに、指紋。
「あ」
 ソーマが小さく声をあげた。
「どうした……ぅわ!」
 モーベットは無言でムティルの手を押えると、眼鏡を取り上げる。
 ゴゴゴ……無言のムティルの背後に、そんな書き文字が見えたような気がした。
 氷の瞳でムティルを見下ろすモーベット。
「執事として、ご主人様が悪さをしたときはお仕置きしなくてはなりませんね」
「な……おい!」
 そのままムティルを抱え上げると、彼の部屋へ向かう。
「お兄さんがあぶないですよー! あいじゃわあたーっく!」
 部屋に連れ込まれたムティルを助けようと飛び掛かってきたあい じゃわをモーベットは軽くいなす。
「危害を加えるつもりはありません。調きょ……指導です」
「待て、今のわざと言い間違えたな!」
「しどー?」
 モーベットの言葉に首をかしげるじゃわ。
「社会勉強です」
「おべんきょー、でしたか。それじゃあじゃわはお邪魔しませんので、ごゆっくりー」
 ぺたりと座ると、両の手で目を塞ぐ。
「お子様に隠してヤルのもまた燃えるらしいですしねー」
「分かってるんじゃねえか!」
 ベッドに押し倒されそうになりながら、ムティルは叫ぶ。
「それじゃあ僕はお風呂の準備をしてきますねー」
 淡々と浴室に向かう北都。
「ほら子供には刺激が強すぎるから出た出た。北都もな」
 じゃわと北都を部屋から出すソーマ。
「誰か、止めろ……っ、くっ……ん」
「いつも襲う側だと思ったら大間違いだ」
 モーベットの言葉を最後に、扉は閉められた。

 モーベットが部屋に戻ったのは、その夜遅くだった。
「……遅かったな」
「途中で眼鏡を汚されたので、更に指導に時間がかかったのだよ」
 眼鏡を拭きながら表情も変えず告げるモーベットの言葉に、思わずムティルに同情するソーマだった。