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悪魔の鏡

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その2:金鋭峰のゆううつ


 その少し前のこと……。

「さて……、“彼”は今頃どうしていることだろうか……?」
 不意に、シャンバラ教導団団長の金 鋭峰(じん・るいふぉん)は、仕事の手を休めそんな台詞を口にした。
 ふと思い立ったように、デスクの前から立ち上がり、執務室の窓から外を眺める。
 ここは、ヒラニプラの教導団本拠地。
 金鋭峰は、この日も、自分の執務室でいつも通りの職務を忙しくこなしていた。が、日常業務に集中しようにも、昨日の出来事が頭にこびりついて離れなかった。
 昨日、所用で空京へ出かけた際、うかつにも謎の錬金術師が作り出した鏡に映されて、ニセモノと遭遇してしまった。
 早急かつ総力で調査した結果、鏡の効果も事件の概要も把握している。
 憲兵隊の一部を派遣し、契約者たちも事件に興味を持って空京へと駆けつけていった。彼らに任せておけば、程なく事態は解決するだろう。 
 だが、それで済む話ではない。
「私としたことが……。何たることだ……」
 執務室の窓からヒラニプラの町並みを眺めながら、金鋭峰は、苦々しげに吐き捨てる。
 とんでもない失態だ、と彼は内心忸怩たる思いだった。国軍を率いる教導団の長としてありえないほどの体たらく。
 自分が気づかぬうちに、鏡で映されてコピーが作り出された? 自分が気づかぬうちに無防備にも……。それがどれほどの重大な危機を引き起こすことになるのか、彼は十分に理解していた。
「私は、あの時一度死んでいたのだ……」
 鏡だったからよかった、と笑い話にするつもりはない。
 あれが、寺院のテロリストの狙うライフルの砲口だったら。自分は今頃、棺桶の中だっただろう。護衛も関係者たちも責めるつもりはなかった。
 取り巻きの優秀で忠実な部下たちに守られ過ぎて、当たり前の感覚になってしまっていたことに戦慄を覚える。戦場において必要な緊張感が欠損し、なまってしまっていたとしか考えられない。
「もう一度、鍛え直す必要があるな。ドージェ・カイラスと戦った頃まで……。いや、それ以上に、か……」
 金鋭峰は、皮肉げな笑みを浮かべる。
 今更ながらに、かつての恥辱の記憶が思い出されるが、当時ほどの痛みはない。あの負けはいい負けだった。
 まだ教導団の長として就任する前の若かりし頃、だ。修行を重ね、自身を鍛えに鍛え上げ、気力も体力も技も充実していた若年期。己よりも強い者はいないのではなかろうか、と思い上がっていた自分に戒めることを覚えさせてくれたのだ。
 あの頃は、青臭く部下もおらず地位も権力もなかったが、確実に今より強かっただろう。一人の男として。
 多くを手にして、自分は弱くなってしまったのではなかろうか……。
 だとしたら由々しき事態だった。弱い指揮官に誰がついてこよう。
 彼の全ての部下たちはそれでも、彼に失望することなく忠誠厚いままだろう。
 それに甘えてはいけない、と厳格で堅物の彼はそう考える。
「うむ。今回の失敗もまた、私の教訓とせねばなるまい」
 と……。
 思いに耽る鋭峰は、執務室がノックされるのに気づき、一つ咳払いをして気を取り直す。
「入れ」
「失敬、団長殿。まもなく作戦が開始される。憲兵隊も、無事に空京に着いたみたいだので報告に来た」
 端末を手に、執務室に入ってきたのは夏侯 淵(かこう・えん)であった。
 彼は、誰かが全体の状況把握と連絡役に残らねばなるまいと、このヒラニプラで各種処理を引き受けることにしたのだ。
「できればこの部屋を借りたいんだがな。執務の邪魔をするつもりはないが、空京の現場と連絡を取り、団長殿の指示を仰ぎやすい」
「事後報告だけ持ってくれば構わない」
「解決にはさほど時間はかからないであろうと予想される。すでに大勢の協力者たちが空京の町へやってきている。我々が行く頃には、大半は片付いているかもしれないな」
 丹念な調べ物をしていたために、出遅れたかもしれない。だが、のんびりとした口調で部屋にやってきたのは、ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)だった。
 空京の町に一番乗りしたからといって、闇雲の探し回っていたのでは埒が明かない。到着するのが目的ではなく、獲物を確実に確保することだ。
 思うところもあって、図書館でこれまでの錬金術関係の書籍をあさり、悪魔の鏡の正体とそこから作り出されるコピーの詳細に調べ上げてきていたのだ。
「わかったことは、あの悪魔の鏡は“ろくでもない”。という事だな」
「そうだったの? 私、全然わからなかったんだけど」
 答えたのは、一緒に執務室にやってきていた、マスターのルカルカ・ルー(るかるか・るー)。こちらも、最後までヒラニプラに居残っていたのだが、焦った様子はなかった。
「錬金術で美味しいチョコレートを作る方法の本が面白くて。悪魔の鏡に関する文献は読んでないの。ごめんね、てへっ」
「ああ、そうだろうとも。チョコレートがあれば、全て解決。まあそれでいいさ、お前がいいならな」
 ダリルは冷ややかに言ってから、鋭峰に向き直る。
「一つ確認しておくが……。いいんだろう?」
「もちろんだ」
「?」
 頷く鋭峰と、二人の会話が理解できなかったルカルカ。
「うむ、色々とご苦労だ。……だが、空京の警察には借りを作ってしまったようだな」
 昨日、すんでのところで、ドッペルゲンガーを取り逃がしてしまったのも痛かった、と鋭峰は難しい顔をした。そのおかげで余分に人員を割かなければならなくなったのだ。
「これでも私は、気を使っているのだよ。空京には空京の事情がある。我々国軍が介入するのは、かなり危険な越権行為になりうる可能性を秘めているのでな。……少なくとも、私なら、空京の治安部隊が教導団に乗り込んできたら怒る。そういうことだ」
「誰も、そんなのを貸しだなんて思う人はいないわよ。そんな程度の協力で、団長に恩を着せるようなら、私たちが黙ってないんだからね」
「……」
「それからね」
 ルカルカは、言うべきか言わざるべきか少し迷っていたが、思い切って口を開く。
「ねえ、団長。知った風な口を聞くのはおこがましくて恐縮なんだけどさ。そういう、人望や持っている力を全て含めて、その人の強さなんだと思うの。ただ身体を鍛えればいいってものじゃないわ。だからね、私、教導団に来る前の団長の昔の姿はしらないけど、それでも今のほうが昔よりはるかに強いわよ」
「なんだ、聞いていたのか」
「ううん。でも雰囲気だけで団長が何を考えているかくらいはわかるわ。笑ってくれてもいいけど、私たちはそれくらい団長のことを注目しているんだから。何があっても忠誠心は揺らぐことはないわよ」
「笑いはしない。ありがたい言葉だ。だが、ルカルカ。ゴマをすっても無駄だ。今年の俸給はこれ以上は増えぬ。階級が上がった手当てだけだ。今年の夏のボーナスは据え置きとなる」
「そ、そんな……!?」
 意外な話の成り行きに、ルカルカはガーンとコメディ調によろめいた。
 本気なのか冗談なのか、そんな彼女を見て鋭峰は続けてきた。
「……まあ、実質的には減給だな。世界的な不景気が続き教導団の金庫も寒いのだ。私とて、様々な政策は打っているのだが、なかなか効果が上がらなくてな。神の見えざる手には勝てぬ。酌量したまえ。薄給でよく働く国軍兵士たちよ、いつもご苦労である」
 いつもの気勢を取り戻した冷笑的な口調で、鋭峰は答える。
「その代わり、経費は全て支払われているし、教導団は軍人のアルバイト、副業を認めているだろう。給料が足りなかったら、他の任務で稼ぎたまえ」
「いつもあんなに頑張ってるのに、あまりの仕打ち。ひどすぎよ……ううう……」
 ルカルカは芝居がかった仕草で、鋭峰のデスクに顔を伏せて、泣きまねをしてみた。こんな機会だ。年末だし、ちょっとくらい楽しんでもいいかもしれない。
「うう、……教導団がブラック企業(?)だった件について……。それでも、私たち忠誠心が満ち溢れているんだもの……どうしたらいいのよ。もう好きにこき使ってよ……ぶつぶつ……」
 敢えてグチグチ言ってみるルカルカの肩に、鋭峰はやさしい笑みを浮かべながら、ポンと手を載せた。わかっている、みなまで言うなと、小さく首を横に振った。
「ふふん。ケチな団長がいるから、教導団が回っているのだ。節約節約」
「本当にもう……。挙句にその台詞なんだもの。団長キツ過ぎて最高だわ。それにゴマすりじゃないんだけどな。やっぱり無理か……ってそれは冗談としても、よ」
 ルカルカは顔を上げ表情を引き締めなおす。それはさておき、と両手で取り繕っておいてから、多くの契約者たちが一番気にしているであろうことを切り出した。もう、最初に聞いておいたほうがいい。
「話しを元に戻すけど。実際のところ、どうするの。その……ニセ金の処遇については?」
「早急に処分せよ」
「うわ、即決っ!?」
「何を驚く? 混乱の元を断つのに問題はあるまい。鏡は破壊。鏡の製作者と関係者は全て連行して事情徴収だ。以上」
「え、で、でもそんな……」
 断定的な命令に、ルカルカは戸惑う。
 鏡から生まれたドッペルゲンガーだって、意思を持って動いているのだ。何とか殺さずに済ませることはできないのだろうか、彼女は渋った。
「鏡もドッペルゲンガーも、活用できれば有用なのではないかと思うんだけど……」
「……」
 鋭峰は、ジロリとルカルカを見つめただけだった。ほんのさっきまでとは全く違う、冷厳な雰囲気。
「あう……」
 ルカルカはその視線に凍りつく。恐ろしい、そして尊敬すべき団長の鋭く深い眼光に飲まれて、それ以上何も言えなくなってしまった。
「……では、行ってくる。団長は、吉報のみを待たれよ」
 代わりに、ダリルが何事もなかったかのようにルカルカを引っ張って執務室を退出していった。
 さらに、鋭峰は、執務室で事務仕事を始めようとしていた淵にも告げる。
「君も、彼女らを手伝うといい。報告は任務を終えてからでいいから、じっくりと事件に専念できるはずだ」
「ん? 俺は詳細な進捗状況を実況中継しようとしているのだが」
「必要ない。……事後報告だけでいいと言ったのだが、聞こえていなかったか?」
「……わかった、失礼する」
 淵もまた、鋭峰の冷たい口調に気圧されて、執務室を退出した。
 ルカルカ達と空京へ行き、鏡とドッペルゲンガーの回収に全力を尽くすとしよう。
「……」
 鋭峰は、そんなルカルカたちを無表情で見送ってから、再び執務室の窓から外を見た。
「金鋭峰は二人といらぬ」
 彼は、固い口調で呟いた。
 なんということだろう、自分としたことが……。昨日、空京でドッペルゲンガーと出会った時のあの衝撃。
 もう一人の金鋭峰は大いなる災厄の種となる……。やがては化け物じみた存在になり、人々に不幸を強いる事になるだろう。彼は、一目で確信していた。
 自分と同じ能力を持った、悪の自分。強くあるために自己分析を積み重ねてきた金鋭峰だからこそ、自分自身のことは良くわかっていた。
「私は境遇に恵まれた。もし教導団にいなければ、私は……“彼”だった」
 今なら、消滅させるのにさほど苦労はいらないだろう。
もう会うこともない。せめて安らかに消えるがいい。無用な慈悲は、時として害になることがある。これでいいのだ。
あいつは……、成長したら魔王になる……。誰に知られる必要もない事柄だった。
彼は、口元に小さく笑みを浮かべた。
「それとも、悪の金鋭峰を見てみたかったのかい、君たちは……?」