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リアクション
3 スウィップの決断 1
(うわあ)
リンド・ユング・フートに残った陽太は、外側から見るリストレーションに驚き、目を瞠った。
真っ白のページに炎のような光が走って、流れる水のようななめらかさで次々と文字が生まれていく。
それはまさしく、現在進行形でリストレイターたちによって紡ぎ出されている物語(記憶)だ。感嘆せずにいられない。
スウィップの肩越し、息を殺してじっと文字の行方を見守っていると、最終行のセンテンスが打たれたのを見たスウィップが、突然そのページに手をついた。そして、何か引っ張り出すようなしぐさをする。
引き戻された手には、ページの形をした光が掴まれていた。
「スウィップさん、それは?」
「リストレイターたちの力、想いだよ。今回はこうして、少しずつジーナに届けるの」
そうしないと、いきなり最後に全部まとめてでは刺激が強すぎる。強すぎる光が毒になるのと同じで、ジーナは膨大な力を受け止めきれず崩壊してしまうかもしれない。
そうならないために、スウィップはある程度まとまったところでジーナへ送り込む方法を選んだのだった。
少しずつ、彼女を自身が作り出した恐怖の檻から誘い出すために。
「ジーナ。ここに込められたみんなの想いを受け取って」
スウィップの手が開かれ、自由になった光は、まっすぐ空の一点へ向かって飛んで行った。
「あの先にジーナがいるのか」
空に向かって飛翔する光を見上げて、エース・ラグランツ(えーす・らぐらんつ)はつぶやいた。
リンド・ユング・フートに召喚されたとき、彼は真面目にリストレーションに取り組むつもりだった。けれどスウィップにジーナのことを聞かされて、今回真に取り組むべきはそちらだと思った。
スウィップは「ジーナは救えない」と言った。「運命の理(ことわり)に従って、その生を終える」とも。
だけどそのスウィップ自身、実は5000年前の人間だというじゃないか。ジーナと同じで、5000年前この無意識世界に下りてきた人間の意識体だと。そしてそのままここにとどまっている。
ならスウィップと同じようにジーナもここにとどまれば、あるいは死ななくてすむんじゃないか――エースはそう考えた。
その方法をリヴィンドルから聞き出して――必要なら説得もして――、そしてジーナがそれを望むならかなえてあげたい。
「行くぞ、メシエ」
メシエ・ヒューヴェリアル(めしえ・ひゅーう゛ぇりある)に声をかけ、空に浮かび上がる。
その行動からして、メシエも同意見だとエースは当然のように考えているらしい。問う必要性も感じないほどに。
しかし真実そうかというと、実のところ、メシエはそうでもなかった。
運命の理には従うべきだ。人は生まれ、その生をまっとうし、死したのち再び新しい命として転生する。それが輪廻だ。そうして連綿と生命はつながっていく。古きものは新しきものへ生まれ変わる。
無意識世界に意識がとどまるということは、その輪廻の輪からはずれるということ。
散る命を惜しみ、とどめようとするのは感情的には理解できる。だがそこばかりに意識を向けていてはならないのではないか。
「…………」
とはいえ、エースの行動に全面的に反対というわけでもない。
スウィップが例外だとしても、選択できるチャンスがあり、その例外適用の可能性がゼロでないなら、そちらに賭けてみることも悪くはないだろう。
2人は光を追って空を翔けた。
光の飛速はかなり速い。このまま見失うのではないかと思われたとき、突然フッと光が消失した。
「ここか」
見回したが、それらしいものは何もない。
「エース、目で見るな。感じたまえ」
追いついたメシエが助言をする。
「おまえは感じ取れているのか?」
「ああ。例えるなら別の感覚器へチャンネルへ切り替えるようなものだ。気配を捉えてそこに自らを同調させる。
ジーナを感じ取るのが難しいと思うのなら私の気配を追ってくるといい」
言うなり、メシエの姿が消えた。
メシエと光とジーナらしき気配。それらの航跡をたどってエースも空間を切り替える。
直後、強烈な寒気が彼を襲った。
「くう…っ!」
芯まで凍りついてしまうようなビリビリとした痛み。
彼が飛び込んだそこは、ジーナの狂気が作り出した、まさに死の恐怖の空間だった。
真っ暗な闇が彼の意識に重圧をかけてくる。
肉体という鎧はない。ジーナの攻撃的な恐怖が乱反射する光のように無軌道に走り、激痛はまっすぐ彼の意識を貫く。
自身をとりまくあらゆるものへの恐怖。
全てが敵であるかのような絶望。
だが一番は、自分独りという孤独だった。
恐怖。絶望。孤独。恐怖。絶望。孤独。恐怖。絶望。孤独。恐怖。絶望。孤独。恐怖。絶望。孤独。恐怖。絶望。孤独。
それらが繰り返しエースに揺さぶりをかけてくる。
もしもこの空間にいるのが自分1人だったなら、エースの無防備な意識は一瞬で消し飛んでしまっていたかもしれなかった。
「エース」
彼の視界にはメシエがいた。
かろうじてだが、彼の意識そのものの光がメシエの姿を浮かび上がらせている。
「大丈夫だ、問題ない…。
それで、ジーナはどこに…?」
「あそこだよ」
メシエの指差した先、はるか下を落下していく固まりがあった。
それは一見、黒い影の固まりに見えた。
しかしよくよく目を凝らしてみると、部分的に人の顔や指先といった、体の部位がかろうじて見える。
あるいはエースの意識が自分に最も認識しやすいかたちとして、そう知覚してみせているのかもしれなかったが。
とにかく、あれがジーナとリヴィンドルだ。
「行こう」
前もっての打ち合わせどおり、エースはクリスマスキャロルの歌を口ずさむ。
少しでもジーナの精神を落ち着かせようとして。
そうして相手を刺激しないよう、少しずつ近づこうとした彼の横を、ヒュッと何かがかすめて行った。
「なにっ!?」
それは小芥子 空色(こけし・そらいろ)を抱いた双葉 朝霞(ふたば・あさか)だった。
以前彼女はリンド・ユング・フートを訪れたとき、スウィップに無意識世界へとどまることを懇願した。
スウィップは無意識世界の住人として、それを拒絶した。
人々の『知識』としてしか知りようのないこの世界よりも、己の心身で全てを感じ取れる意識世界で生きる方がはるかにすばらしいのだとさとした。
『もしもこちらの住民になりたいというのなら、あなたはひと粒の種となり、ここでゼロから始めなければならなくなる。向こうにいたことも覚えていない。なぜここにいるのかも!』
あれがつまり、意識が流れるということだったのだろう。
意識体は無意識世界では意識体であったころの記憶を保っていられない。
「あれからずっと考えてたわ。本当よ? スウィップさん。ここであなたに言われた記憶は一切なかったけど、心のどこかで考えてた。なぜかも分からないまま」
そのつぶやきは朝霞の耳にだけかろうじて届くほど小さい。
「でもね、あれから何カ月も経ったけど、やっぱり私、変われない。やっぱり思うの『私にできることなんて何ひとつない』って…。
ただの歯車になることも、心を死なせることも、変わることも、何ひとつ」
結局それは、たった1つの原因に集約される。
頑張ることができない。
なぜなら、心が1ミリも動かないから。
だけどひとは言う。
あれをしろ、これをしろ。あるいは、してみたらどう? もしかしたらその気になるかもよ?
なぜしたくもないことをさせようとするのだろう?
したくないことをする苦痛、しなくてはならないというプレッシャー、苦悩がなぜ分からない?
苦しかった。つらかった。
そんな状態で何かを成し遂げられるはずもなく、いつだって最後には諦めて、不満と失望と嫌悪にさいなまれた。
だけど、彼らの無理解が悪いとうらむ気にもなれなかった。
おかしいのは自分の方だと分かっているから。
そして、こんな『私』が私はきらい。
きっとだれより大きらい。
「ジーナ…。あなたに触れられたら、私……『私』のこと、少しだけ、好きになれるかもしれない」
「エース、彼女はジーナに触れるつもりだ」
まるで1本の矢のようにジーナに向かって翔ぶ朝霞の姿にメシエは直感した。
「なんだって!? ――くそッ!」
朝霞を追って、エースも翔んだ。
彼女を死なせるわけにはいかない。その意志が爆発的な加速を生み、ぐんぐん追い上げていく。
エースは彼女とジーナの距離、自分と彼女との距離を目測した。
(だめだ、間に合わない…!)
ギリ、と奥歯を噛み合わせる。
そのとき、小さな子どもが両手足を広げて朝霞とジーナの間に立ちふさがった。
全身に怒りのオーラをまとい、決死の目をして朝霞を見据えている。
パートナーアイ・シャハル(あい・しゃはる)の姿を捉えた朝霞の目に、苦痛が走った。
「アイ……邪魔しないで」
「アサカのばか! アサカは自分のことしか考えてない!!」
とがった八重歯をむき出しにして、アイは吼えた。
「アサカが死んだらパートナーのボクやソラはどうなるのさ!? パートナーロストだよ!? 巻き添えにして殺す権利がアサカにあるの!?」
「…………私を失っても……死ぬとは、限らないわ…」
「あーそーだね! よくて死ぬほどの苦しみ、死ななくても廃人になって一生ベッドの上かもね!!」
ぐっと朝霞はのどを詰まらせる。
アイに指摘されたこの瞬間まで、朝霞はそのことについて考えたことがなかった。
それだけ心が追い詰められていたということだが……自分のことばかりと責められても仕方がない。
「百歩譲って、この際ボクはいいよ! それが本当にアサカの心からの望みならね! でも、ソラはどうなの?」
アイは朝霞の腕のなかの空色を指差した。
空色はただの人形ではない。朝霞のパートナーの機晶姫だ。身体は機能停止で指1本動かせず、まばたきすらできない状態だが、それでもまれに意識が戻ることがある以上、死んでいるわけではない。
「ソラはアサカに何かあったら本当に死んじゃうよー!」
「……お人形さんは……お人形さんよ」
「違う! 違う違う違う!!」じだんだを踏む。「ソラは生きてるの! ボクはちゃんと未来でソラが生きて動いてるのを――あっ」
話している途中、いきなり空色を押しつけられて、アイはよろめいた。
その隙に朝霞はアイの横をすり抜ける。
「アサカ!!」
「ごめんね、アイ」
死にたいわけじゃない。死ぬのは怖い。
でもここで全力で走って、彼女に触れられたら……『それ』を成し遂げることができたなら。来世ではこんな私にも『できることがある』気がする。
「ジーナ、あなたも死にたくないのよね。でも……少なくとも、独りじゃないわ」
間近に迫ったジーナに向けて手を伸ばす。
だが追いついたエースがそれを許さなかった。
反対側の腕を掴まれて、がくんとストップがかかる。
「やめて! 放して! 死なせて! お願いだから!」
ようやく成し遂げることができそうなのに…!
どんどん離れていくジーナを食い入るように見つめ、狂ったようにもがく朝霞をエースは揺さぶった。
「ああ、そんなに死にたいなら死ねばいい! 生きる権利があるように、ひとには死ぬ権利だってある! だけどきみのパートナーの言うとおりだ! きみの一方的な感傷でパートナーを死の危険にさらす権利なんかない!
きみには彼らをパートナーとした責任がある! パートナー契約がどういうものか知っていて絆を結んだんだから! 死にたいというエゴを貫きたいなら、最低限それを果たしてからだ!」
「………っ」
朝霞はもはや言葉もなく。
ただ小さく嗚咽を漏らした…。
そのころ、リカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)はラメがキラキラ光るリボンロードを歩いていた。
「戻って、スウィップくんたちと一緒にいていいのよ」
パパパヤ〜パパパヤ〜、と道の両側で歌う花やふよふよ浮いてぶつかってくるコンペイトウにいちいちびくつく禁書写本 河馬吸虎(きんしょしゃほん・かうますうとら)に言う。
河馬吸虎はぷるぷるぷるっと首を振って、ぎゅっとリカインの上着の裾を握り締めた。
石本の河馬吸虎に『手』がある?
驚いたことに今回、河馬吸虎は人の姿に化身していた。
リストレイターたちはスウィップから聞かされた衝撃的な話に気を奪われてその存在に気付けていなかったが、河馬吸虎を知る者が見れば声も出ないくらい驚いたに違いない。それほど石本の河馬吸虎と人型の河馬吸虎は違っていた。
外見は言わずもがな、内面的な性格が。
180度正反対。
普段であれば先頭切って前を行き、がはは笑いをしながら「リカイン、もっとしゃんしゃん歩け! 遅いぞ!」と叱りつけてくるに違いない河馬吸虎が、風が葉を揺らす音にもびくびくしてリカインの上着の裾をもみくちゃにしている。
(どうも調子狂うわね)
ちらとその様子をうかがって、嘆息をついた。
リカインが向かっていたのはこのリンド・ユング・フートの中枢、館長や検閲官たちが居する光の宮殿だった。
何もかもが発光し、黄金の光を放っている。
訪れる者を威圧するような荘厳で重厚な門は、しかしリカインの手が触れるまでもなく開いた。
同時に、しゃらんしゃらんと鈴のような音を立てて光が走る。幾重にも張り巡らされた縦糸、横糸のように。
侵入者を知らせる警報のように。
河馬吸虎はますます縮こまり、リカインの背中にぴたっと貼りついた。
「ねえ、聞いて」リカインは光と音に満ちた高天井に向け、言葉を発する。「私はスウィップくんに召喚されて来たリストレイターの1人よ。ここへは話があって来たの。スウィップくんの上司の検閲官に会わせてほしいんだけど」
少々時間はかかったが、リカインの希望はかなえられた。
事務員らしき光に導かれ、2人は応接室に通される。そこにはすでに氷の検閲官がいて、2人を出迎えた。
「いらっしゃい、リカイン・フェルマータ。そして禁書写本 河馬吸虎」
氷の検閲官は2人の名前を知っていた。
足元をおおうほどの長いひげをたくわえ、スウィップと似た――ただしスウィップの物よりもっと豪華で威厳に満ちた――服装をした彼は、外見的に見れば年齢は100歳にも200歳にも見えたが、根本的に彼は『人』でないように見えた。
さながら、この宮殿を構成するものと同じ存在。
この無意識世界に満ちる力が凝縮し、受肉して人の形を成したものにすぎない。
リカインは直感的にそれと悟って、彼が自分たちを知っていることに驚くことはなかった。
(これがこちらの人だというのなら……スウィップくんは間違いなく、こちらに属する人じゃないわね)
そんな考えはおくびにも出さず、リカインはさっさと彼の薦める席へ腰かける。1人掛けのソファーだったため、河馬吸虎とは席が少し離れたが、河馬吸虎は手を伸ばしてリカインのひじのあたりをつまんでいた。
「きみたちがなぜ訪ねてきたか、おおよそ検討はつく。あの子のことについてだろう」
硬い表情のまま、リカインはうなずいた。
「スウィップくんから聞きました。彼女はここの人間ではないそうですね。5000年前に下りてきた意識体だということですが」
「そうだ」
「彼女は何者で、どうしてここへ下りてきて、とどまったんですか?」
「ふむ」
氷の検閲官は少し考えこむ素振りをし、上着の長そでを払ってひじ掛けにひじを立てる。
「それを、あの子はきみに訊いてきてほしいと言ったのかね?」
「いいえ、違います。ここへ来たのは私の独断で、スウィップくんには一切関係ありません」
「では、話すことはできない。
スウィップにはそれを知る権利がある。私も隠すつもりはない。あの子が知りたいと望むなら話すこともかまわないが、しかしきみにそれを知る権利があるだろうか?」
「それは…」
「きみはなぜそれを知りたいと思うのか?」
「スウィップくんが意識世界へ戻るにしろ、ここへとどまるにしろ、判断材料が少なすぎると思ったからです。
それに、意識体でここへとどまることを許されたのであれば、同じ意識体であるジーナも下りてきた者としてここにとどまることができるのではないかとも考えました」
「ああ、それはいい着眼点だ。だが無理だ。スウィップとジーナでは、根本的に違う。
きみは逆説的に考えたことはあるか? なぜあの子はとどまれて、ジーナはそれができないか?」
「……スウィップくんが魔女だから、ですか」
そこまではリカインも考えていた。
ジーナは意識世界で死にかけている。だから深淵へと向かっている。スウィップはそうではない。つまり、意識世界の彼女は死にかけていないというわけだ。
5000年間生き続けられる種族は限られている。
さぐるようなリカインの言葉に氷の検閲官は応とも否とも言わなかった。彼の無表情は完璧で、一切読むことができない。
「下りてきたのはジーナと同じく偶然だが、ここにとどまらざるを得ない理由があの子にはあったからだ。
彼女はわれわれと交渉し、リスクを考慮した上でここにとどまった。どうやらそのこともあの子は忘れているようだが」
「過去、スウィップくんは自分の意志でこちらに残ることを選択したということですね」
それからもリカインはいろいろな方向からあれこれと試して氷の検閲官から情報を引き出そうとしたが、スウィップの意識世界での本体にかかわることについてはがんとして何ひとつ話そうとはしなかった。
「……最後に1つだけ、教えてください。スウィップくんが戻ることを選択した場合、どうすれば戻ることができるんでしょうか。われわれのうちのだれかとパートナー契約をして意識世界につなぎとめるという行為は可能ですか?」
「ここで絆を結ぶことはできない。あちらの世界であれば、あの子と契約することは可能だろう。
戻る方法についてだが、あの子はこれまでも何度か意識世界へ戻っている。だから、あの子が戻りたいと思えばいつでも戻ることができる」
それが氷の検閲官の答えだった。
「スウィップくんに死の危険はない、戻ろうと思えばいつでも戻れる……言えそうなのはこれくらいね」
ではなぜ戻らずにとどまることを選択したかという謎が残るが…。
礼をして退室しようとしたリカインを、氷の検閲官が呼び止めた。
「待ちなさい」
「私もあの子がかわいい。契約とはいえ、5000年の間司書として勤めたことに感謝する意もある。
だから、あの子のためにここまで来たきみに、これをあげよう」
彼が差し出したのは、小さな鍵だった。
鍵はリカインの手に移ると同時にキラキラ輝く光となって彼女を包み、しゃらんと鈴のような音を立てて同化する。
「これは一体?」
「これをどうするかは、きみ次第だ」
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