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月下の無人茶寮

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月下の無人茶寮
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ふわふわの思い出


 月の光は今はどこか柔らかで、春の陽光にも似た優しい金色の光を放っている。

 その月光の色に、どこか少し似ているかも知れない……

 エセル・ヘイリー(えせる・へいりー)は、テーブルに現れた皿に載ったものを見て、そんなことを少しだけ思った。
「もう一度食べてみたいって、思ってたの」
 話し出すエセルを、レナン・アロワード(れなん・あろわーど)はじっと見ていた。
 懐古する瞳が、皿の上のそれにじっと落ちるように注がれているのを。

 皿の上に載っているのは、柔らかい黄色で、ふわふわした……

「これ、料理ってより菓子って言わないか?」
 レナンはそれを見て怪訝そうに言った。
 この『無人茶寮』では、客の記憶に残る料理を魔法で再現して出すという。てっきり、もっと食事然とした「料理」が出てくると思っていたが……
「『ふわふわたまごのスフレケーキ』なの」
 エセルはいとおしげに、そのお菓子を見つめていた。
「お母さんの得意料理だったの」

 ふわふわと甘い、優しい味。
 懐かしい味。噛みしめるとあの頃の思いが甦る。
 柔らかな甘さは、母の面影そのものに思われた。

「でも、食べられたのは本当に小さい頃だけだったの。
 地球でお母さんとお父さんと暮らした……5歳くらいまでだったの」
 ――あの頃は分からなかった。
 何故急に両親が居なくなったのか、どうして婚約者の男の子の家で育てられることになったのか。
 でも、大きくなるにつれて、その事情が少しずつ解ってきた。
 小さい頃には分からなかったことを理解していく……その過程は、少しだけほろ苦いものに思えた。
 大人になること、それ自体のほろ苦さ、なのかもしれない。
 卵を使って柔らかく焼き上げたふわふわのケーキにはない、少しだけ寂しい苦さ。

 両親の元から移された婚約者の家で、何度か「ふわふわたまごのスフレケーキ」を食べたいと強請った。
「でも、小母様もメイドさんも、誰にも作れなかったの」
 それからずっと、食べることは叶わなかった。


「初めて食べた時、美味しくて、何個も強請ったの。
 お母さんには『お夕食入らなくなるからダメ』て、怒られたけれど……
 結局、お父さんがお母さんを宥めて、作ってもらって食べたの。
 でもやっぱりお夕食入らなくて、お母さんに怒られちゃったっけ」
 てへっ、という顔でエセルは笑った。少しのほろ苦さを隠して。
 親父さん娘に甘かったんだな、とレナンは思ったが、言わなかった。
「本当に美味しかったの。レナンちゃん、一口上げるの」
 皿をこちらに少し寄せてきた。レナンはちょっと躊躇したものの、素直に一口貰った。
 子供が好みそうな味だ、と思った。口の中でほろりと溶けるような柔らかさだ。
「あぁ……うん。子供には病み付きになりそうな味だね」
「本当にそうなの。何個も何個も食べたくなるの。
 さすがに3個目で止められたの」
「3個目……って、3個も?
 ああ、だから今もぽっ○ゃり……いや、何でもねえよ!?」
 うっかり素直に口走りそうになって、慌てて誤魔化すレナンであった。

「もう一度食べられるなら、食べてみたいって思ってたの」
 幸いにもレナンの失言(未遂?)に引っかかることなく、エセルは懐かしい思いにふけっているらしかった。
 懐かしい味の向こうに、追憶の影を探しているような、どことなく遠い目をしていた。
 きっと自分の中で一番古い、父母の思い出を。
 ――もう二度と叶わないから、こうして魔法の力を借りて、再現されたのだろうか。

「初めて食べた時みたいに、何個も欲しいなんて言わないから……」
 そこまで口にして、何だか湿っぽくなっていると思ったのか、エセルは顔を上げて、照れ隠しのように笑った。
「…って、こんな話をレナンちゃんに、食べながら話してみたいって思ってたの。
 契約する前の話しってあんまりした事なかったの」
 急に話を振られて、レナンは一瞬目をぱちくりさせたが、寸の間おいて「あぁ」と簡単に頷いた。
「そういや、そういう話って聞いたことなかったな」
 エセルが契約前の事を話した事なんて、そういえばなかった、と思い返した。
 レナン自身は「思い入れのある料理」と言われてもピンと来るものが浮かばなかった。
 それでも、エセルが思い出に浸れる料理、というのも興味があったので、一緒に来たのだった。

「レナンちゃんは? どんな思い出のお料理なの」
「ん? オレの思い入れのある料理、って……知ってどうするんだ……。
 まあ、オレも料理とは言い難いものだからな。
 オレはいいんだよ、ほら……せっかくの思い出の味なんだから、堪能しとけって」
 水を向けられたレナンはやや焦って、味見を勧めるためにこちらに寄せられたケーキの皿を彼女の方に押して返しながら言った。
 エセルはごまかされた感じにちょっと首を傾げたが、ふわふわのケーキを目の前に再び口元を綻ばせる。

「それもそうなの。せっかく今日食べられたんだから、よく味わって最後まで大切に食べきるの」



 もう2度と食べられることはないかと思っていた、大事な思い出の味。
 今だけ、今日このひと時だけは、存分に味わいたい。
 天の園にある甘味のような、鄙びたほろ苦さを含まない、このふわふわでほろほろの、心まで空に舞い上がるように軽い、柔らかい甘さを。
 母の胸に安らぐ幼子に返った心持ちで――