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あなたが綴る物語

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あなたが綴る物語
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●開拓時代アメリカ 1

 こんなはずじゃなかった。
 目の前の皿に乗った昼食――と呼ぶべきかも悩む代物――を、遠野 歌菜(とおの・かな)は見つめた。ただゆでてあるだけの野菜、ゆで魚、ゆでられてほんの少しやわらかくなった干し肉。ゆですぎの野菜はどれもぐずぐずで、フォークで突き刺し持ち上げたそばからべちゃりと皿に落ちた。そしてとどめは水で薄められた三流ワイン。
 こんな物が三度の食事で出てくれば、そしてそれがアメリカへ到着する3カ月の間続くと思うだけで、歌菜は気が狂いそうな思いにかられた。こんなのは全く想定してなかった。海の上で家と同じ食事が出るとは思っていなかったが、それにしてもこれは人間の食べ物だろうか? この船の料理人はきっと料理のノウハウなんかかけらも持っていないに違いない。
 ロンドンの港を出るとき、見送りに来てくれた遥遠を抱き締め「大丈夫。心配しないで」と何度も繰り返した。
「死ぬわけじゃないんだから。相手の人だって、会ってみたら実は超絶イケメンで思いやりがあってやさしくて、アメリカの社交界じゅうの美女たちにめちゃくちゃうらやましがられるかもしれないし!」
 だがあれから1カ月も経たないのに、アメリカへ着く前から歌菜はもう半分くじけかけている。
「下げておいて。なんなら、あなたが食べてもいいわ」
 もう視界に入れるのもいやだと、小間使いのいる方へトレイを押し出し、立ち上がった。小間使いはあわてて口に入れていた物をうんうん言いながら飲み込むと歌菜のあとを追おうとする。
「お嬢さま、どこへ行きなさるんです?」
「甲板よ。風に当たってくるわ」
 船室はあきあきだった。こじんまりとした部屋に、小間使いと朝から晩まで2人きり。甲板へ出れば気分も一掃できるに違いない――そう期待して出た先で歌菜が見たのは、船酔いに苦しむ客たちの姿だった。彼らのたてるうめき声やら何やらに辟易して顔をしかめた歌菜に、通りがかった船員が陽気に話しかける。
「お嬢さん、船首に行ってみてはどうですか? 望遠鏡もありますよ」
 望遠鏡を覗いたところで今目にしている海以外見える物があるとも思えなかったが、礼を言ってそちらへ向かってみることにした。
 ばたばたと海風にはためくスカートを押さえつつ、ちょうど半分ほど進んだとき。突然メインマストの監視台から声が降ってきた。
「船だ! こっちへ向かってくる!!」
 とたん、甲板上にあるあらゆる戸がバタバタ開いて、なかからわらわらと船員たちが飛び出してきた。掻き分けて前に出た船長がポケットから小型の双眼鏡を取り出し、見張り番の指差す方角を見る。
「船長、どうです?」
「カッターだ。……向こうの方が速い。追いつかれるな」
「旗は月に鷹です!」
 船長の語尾に重なって、またも見張り番が叫んだ。その旗に船長も乗組員も聞き覚えがあった。私掠船だ。南部連合政府から許可を得ていると言えば聞こえはいいが、やっていることは海賊と変わりない。北軍に渡さないという名目で禁制品の取り締まりをしながら禁制品でなくても難癖をつけて接収していくからだ。第一に、今どき禁制品を積んでいない船はない。
 なかでも船として一番困るのは乗組員の強制徴募だ。
 こうなれば船長には2択しか残されていなかった。全面降伏か、無理を承知での逃走か。戦いは無理だ。これは商船で軍船ではない。船員の数も知れている。逃走に賭けてみるとして、逃げ切れるだろうか? そう考える間にも相手の船は追い風に乗り、みるみるうちに距離を縮めた。鷹を肩に乗せた女性の像を付けた船首の門が開き、小型の大砲がチカッと太陽光を反射する。
「大砲持ちか…」
 船長はうなった。こうなってはもう逃走の選択肢はない。
「すまんな、お嬢さん。運がなかったとあきらめてくれ」
 歌菜を振り返り、暗い目で船長はつぶやいた。



 それは一方的な略奪だった。
 イギリス商船は船長以下一切抵抗を見せず、積荷を持って行くかわりに乗組員の命と船を保障してほしいと言われ、私掠船ムーンホーク号船長月崎 羽純(つきざき・はすみ)は応じた。脇にいた巨体のアルクがチッと舌打ちをして不満を訴えたが、羽純は無視した。先の決闘で彼を打ち負かした今、この船の船長は羽純で全決定権は彼にある。
「積荷を移せ」
「……わぁーったよ。おい、野郎ども。新しい船長さんのご命令だ!」
 アルクはしぶしぶ部下たちと一緒に客船に乗り込んだ。彼らは船倉から梱包されたままの中身が何とも分からない積荷をムーンホーク号へ移していく。それを客船の船長や乗組員たちは甲板に整列して見ているだけで、抵抗する素振りはなかった。
 自分の命令がきちんと守られているか、羽純もまた乗り込んで船室を回る。そちこちで略奪が起きていた。船室の客は部屋の隅で青ざめ、荷物を物色され、金目の物を奪われていたが、危害は加えられていない。
 だが最奥の船室で突然女の悲鳴が上がった。
「何事だ!」
「オラ! 出て来い女ァ!」
 羽純が部屋へ飛び込むのと同時にアルクが長櫃から女性を引きずり出した。
「……ひいいぃっ…」
 女性は長櫃につまずいて床に転がる。今にも死にそうな小型犬のようにがたがた震えて頭を抱え、その場に丸まろうとした。が、すぐに髪を上に引っ張られ、のけぞるように膝立ちになった。
「この女、俺がもらったぜ!」
 アルクの宣言に羽純は床の少女から目を離し、彼の方を向いた。そして何かを言わんとしたときだった。
「ミナを放しなさい!」
 クローゼットから歌菜が飛び出した。
 船長は念のため船室で隠れているようにとアドバイスしていた。こうなることを見越していたのだろう。部屋へ押し入ってきたこの男は歌菜よりずっと背も体格も良くて力も相当ありそうな野蛮人だったが、ミナを見捨てることはできなかった。たった1人、アメリカへ渡る彼女について来てくれた小間使いなのだ。主の自分が守らなくてどうするのと、義憤にかられての行動だった。
「その汚い手をさっさとどけるのよ!」
「なんだ? このクソナマイキなアマは」
 ペーパーナイフを両手で握り締めた歌菜にアルクはいら立った視線を向ける。しかし彼女が今自分が持ち上げている少女よりもずっと極上の獲物と知って、とたん目つきが変わった。
「へっ。そんなオモチャで何するつもりだ? おまえも俺の女にしてやるよ」
 掴みかかろうとしてきた手に向かって、歌菜はやみくもにペーパーナイフを振り回した。しかしそんなもの、アルクには通用しない。岩のような片手で払い飛ばされ、痛みにひるんでいる隙にもう片方の手が歌菜の肩めがけて伸びる。ぎゅっと目を閉じた歌菜の耳に、ぴうんと何かがしなる小さな音が聞こえた。
 目を開けてみると、あとから現れた細身の男が腰の細剣を抜いてかまえていた。アルクは切られたのか、歌菜に向けて伸ばしていた手の甲を押さえて彼と向き合っている。
「てめえ…」
「船の乗員には手を出さないと言ったはずだ」
「こいつは乗組員じゃねえ! てめえに邪魔される筋合いなどねえぞ、この腑抜け野郎め! 大体てめえは私掠船が何だかちっとも分かってねえ! 法を犯して禁制品運んでる船は何されようが文句は言えねえんだよ! 積荷は全部押収! 乗組員は強制徴募で船は燃やす! それができねえやつに船長の資格はねえ!!」
 羽純の目が険しく締まった。
「なら2人とも俺がもらおう」
「なんだと!?」
「俺がムーンホーク号の船長だ。海の上では俺が全権を持つ。そうだな?」
 緊張にこわばった背筋、盛り上がった筋肉などからアルクが屈辱と怒りを感じているのが歌菜にも分かった。男たちの間には軽い緊張感が流れている。
「お嬢さま…」
 腰が抜けたのか、這うようにして近寄ってきたミナを助け起こそうと手を伸ばしたとき、ペッとアルクは唾を吐いて部屋を出て行った。どすどすと踏みつけるような足音が遠ざかっていく。羽純は剣をしまい、歌菜たちを見下ろす。
「さあ、来てもらおうか」
「いや!」
 差し出された手を歌菜は拒んだ。
「私はアメリカへ行かなくちゃならないの!」
「……なら仕方ない」
 目にも止まらないすばやさで、羽純は歌菜を持ち上げ、肩に担ぎあげた。
「ちょ!? 何するの!!」
「おまえは俺のものだ。どうしようが俺の勝手だ」
 そう言う間にも羽純はずんずん廊下を歩いて行く。いくら歌菜が抵抗しれても彼女を担いだ腕の力は緩まない。
「暴れるな。落っことすかもしれない。そうなったらどうなるかは分かるな?」
 階段を上がっているときにそう言われて、歌菜はぴたっと暴れるのをやめた。それが羽純のツボに入ったのか、くつくつ笑いの振動が伝わってくる。歌菜は赤面するのをとめられなかった。
 歌菜は彼に担がれた格好で甲板を渡り、ムーンホーク号へと運ばれていった。とても貴婦人のする格好ではない。周囲から視線が突き刺さってくる気がしてならなかった。なけなしの威厳で歌菜は抵抗せずに、毅然と顔を上げる。船長たちは申し訳なさそうに目を伏せるだけで、だれ1人彼女を助けようという動きは見せなかった。だんだんとムーンホーク号が近付いてくる。
「せめてミナは見逃がしてあげて! まだ13歳なのよ!」
「お嬢さま! そんなっ」
 小走りで後ろをついてきていたミナが驚声を上げた。羽純が振り返って自分を見たのを見て、びくっと縮こまる。その小リスのような少女に羽純はため息をつくと、船長たちの方へ押しやった。
「向こうへ行け」
「で、でも…」
「早く行け! でないとアルクに下げ渡すぞ!!」
 ミナはびくっと飛び跳ねて、べそをかいた顔で歌菜を見上げた。
「いいから行きなさい」
 主人の歌菜に言われて、ミナはようやく船長たちの方へ向かう。
 歌菜は腰をねじり、なんとか感謝の笑みを羽純に伝えたが、それも長くは続かなかった。ムーンホーク号へ乗り移った羽純は出航の指示を出したあと乗組員の注視するなか船長室へ戻り、歌菜をベッドの上へ放り出したのだ。
「服を脱げ」
 命令に、さーっと歌菜の顔から血の気がひいた。
「ま、待って! 待ちなさいよ!」必死にひっくり返った状態から身を起こす。「いいこと? 私の婚約者は大陸海軍の将校なの! もし私に指1本でも触れてみなさい、この船は海の藻屑に変えられて、あなた以下乗組員は全員縛り首よ!」
 おどしが効くかどうか、歌菜にも分からなかった。婚約者といっても顔も知らない相手だ。親同士が決めた、金と爵位の交換のようなもの。そんな男性が歌菜のために指1本でも動かしてくれるかどうか…。男と部屋に2人きりで、しかもベッドの上にいる、これだけで歌菜の評判はすでに取り戻しようもないほど傷ついた。婚約を破棄され、放り出されてもおかしくない。
 だが目の前の男にそれと悟られてはいけないと、歌菜はひたすら視線に力を込めてきつくにらみ返す。
 おもむろに羽純の手が胸元へと伸びて、歌菜の服を下まで一気に引き破った。
「脱げと言ったはずだ」
 あまりの出来事に歌菜は絶句し、引き裂かれた自分のドレスを見下ろした。口をぱくぱくさせるが言葉が出てこない。けれど、それも羽純が上におおいかぶさってくるまでだった。
 ベッドに押し倒され、のどに唇が押しつけられるのを感じた瞬間、金縛りは解けて歌菜は絶叫した。
「いやっ! いやだってば!」
 もがいてとにかく遮二無二羽純を押し返そうとするが、羽純は自重で歌菜を押さえ込み、鎖骨に、胸に唇を押しつけながら彼女の服をどんどん緩ませていく。どこをどうすればいいか、女のドレスに精通した手の動きだった。しかし今の歌菜にそんなことに気付く余裕はない。コルセットをはずされたことでますます悲鳴を上げ、彼の腕のなかから抜け出そうと必死に暴れる彼女が自由になれたのは、羽純が解放したからだった。
「悲鳴はもう十分だ。乗組員たちも納得しただろう」
「……え?」
 意味が分からないと身を起こした彼女に、羽純はクローゼットを開けて着替えを放って寄こした。
「俺が来る前にいたキャビンボーイのらしい。俺には小さいがきみにはぴったりだと思う」
「なぜ…」
「早くしろ。それとも今みたいに俺に着せてほしいのか?」
 その言葉に首をぶんぶん振り、あたふたと着替え始めた彼女を見て、また羽純はくつくつと笑う。後ろから聞こえるその響きが妙に耳に心地よくて、歌菜は複雑な思いだった。
 着替えをすませ、身だしなみを整えてようやく人心地ついた気分で歌菜は羽純へと向き直る。
「この船は私掠船なんでしょ?」
「そうだ」
「ならこんなこと許されないのは知ってるでしょ。私をノースカロライナの港へ連れて行って。ニューヨークでもいいわ。礼金はちゃんとお支払いします」
 椅子に腰かけ、彼女が着替える間手紙のようなものにペンを走らせていた羽純は、少し検討するような素振りを見せた。
 私掠船は政府から敵船拿捕免許状を受けて海賊行為をしている、きちんと法的に認められた組織。だがピンキリで、私掠船をかたる本物の海賊もいれば真面目に愛国心からしている船もある。どちらの場合も商船乗りには海賊と同様の目で見られ、敬遠されているが。
 この船長はどちらか? 固唾を飲んで返答を待つ歌菜に、羽純は拒絶するように手を振った。
「できない」
「なぜ!?」
「今すぐは無理だ。こちらにも予定というものがある。この船はスネイク島へ行くことになっている」
「スネイク島? それはどこ?」
「俺も知らない。俺は2カ月ほど前にこの船の船長になったんだ。それまではさっきの男がこの船の船長だった」
「知らない島へ行くの?」
 驚く歌菜に羽純は肩をすくめて見せる。
「私掠船を取り仕切る男がいる。黒のリーアムと呼ばれている。そいつに顔を見せなくちゃならないそうだ」
「じゃあそれが終わったら……私を帰してくれる?」
「考えておこう。きみの婚約者とやらが、いくら身代金を払うかによるが」
 私掠船の船長らしく、羽純は狡猾そうな笑みを浮かべた。



 それからムーンホーク号は南へ進路を取った。航法について詳しくないため、歌菜には今船がどの位置にあるのかも分からなかったが、船はまっすぐスネイク島を目指しているわけではないようだった。あれから3回商船を襲い、私掠したようだ。「ようだ」というのは、歌菜は乗組員たちを刺激しないようにとの配慮から部屋から出ることを禁じられたためだ。羽純といると、ときどき部屋へあのアルクとかいう大男が報告にやってくる。言葉から感情は消し去られていたが、彼の視線は熱く煮えたぎっていた。
「あなた、憎まれてるのね」
「全乗組員の前で決闘してひざをつかせたからな。あの気性から根に持っていてもおかしくない」
 そして自分も同じように憎まれていると歌菜は直感していた。
「きみはこの部屋から一歩も出るなよ。海の上で俺の命令は絶対だが、違反した場合、きみを守れるという保証はない」
 淡々とそう告げると羽純は書いていた手紙を丸めて小さな筒のような金属に入れると鷹の脚輪に付けて、連れて出て行った。外で放つつもりなのだろう。彼はときおりこんなふうにどこかと連絡を取っている。商船を航路で見張る仲間とだろうか?
 歌菜はおとなしく従い部屋からは出なかった。こんな少年のような姿をして、彼らの目の前を歩いて無用な挑発はしたくない。それだけの分別はある。
(……彼ならいいの?)
 もう羽純の前では何度か着替えをしていた。それどころか風呂も使っている。羽純はもちろん、彼女を情婦にしていると乗組員たちに知らしめす一貫だろうが、なぜ自分はこういった行為に危機感を覚えないのか。かなり彼を挑発していると思うが、彼に襲われるかもしれないとの不安は感じていなかった。
 最初の夜、一緒のベッドで寝ろと言われたけれどことわって、さっさと床で寝てしまったが……多分、一緒に寝ても襲われることはなかったと思う。
 強引で、不遜で、命令ばかりするけど、女性を尊重する高潔な男でもあった。商船を襲って積荷の略奪はしても船を燃やすことはなかった。たとえ乗組員たちから不満や文句が出ても、強制徴募もしない。効率的ではあったが乗組員のストレスはどんどん溜まっているようだった。彼にそれと気付かないはずはないが、気にしている素振りも見せない。
 自分だって、はじめこそ肩に担がれドレスを裂かれたりもしたが、あれ以来乱暴なことはされていないし。
 鏡のなか、彼の唇が押しつけられた箇所についたあざに指を添える。今はもうほとんど薄れてしまったが、ここに触れた彼の唇の熱さや衝撃は今も新しく、思い出すたびに胸がどきどきした。あれが二度とないのだとしたら。
「ちょっと残念…」
 思わず口にしてしまったあとで、はっと気付いてほおを染める。
 名ばかりの婚約者は心の衝立にもなってくれない。認めるしかなかった。自分は彼に惹かれているのだと。
 私掠船の船長なんかに。
 名前と、ここ数日間一緒に過ごしただけのことしか知らないのに。
 だけどそれで十分な気がした。どうせアメリカへ行ったところで次の船でイギリスへ追い返されるのは目に見えている。それでイギリスに帰って何があるの? 海賊の情婦だったという汚名が残るだけ。それくらいならこの船にとどまった方がマシじゃない?
 今夜話してみようか。そう思った矢先に、歌菜は彼から衝撃的なことを告げられた。
「明日の昼までには島につく。それが終わったらきみをニューヨークへ連れて行く」
「わたし…」
「きみの婚約者の一家と話はついた。港できみの到着を待っているそうだ。
 どうした? うれしいだろう。ついに婚約者に会えるぞ。きみはそのためにイギリスを出たんだからな」
 まるで突き放されたような痛みを胸に感じて、何も言い出せなかった。だから「そうね」とだけ返した。
 その夜、歌菜は何度も逡巡した末に覚悟を決めて羽純のベッドへもぐり込んだ。瞬時に目を覚ました羽純が驚いてひじを立てる。
「歌菜?」
「あなたが好き」
 羽純の上に馬乗りになって、歌菜は一気に言った。今にも破裂しそうなほど心臓がどくんどくんいっていて、のどから飛び出してしまいそうだった。だけどここまできたらためらっているわけにはいかない。
「私……あなたの情婦になるわ。だから……だから、このままそばに置いてくださいっ」
 小さな窓から入る月明かりのみのうす闇は恥じらいを隠してくれるが、同時に羽純の反応もあやふやにしてしまう。
 歌菜にとってはかなり長い時間と思える沈黙が過ぎたあと。羽純の腕が持ち上がって少し冷たい指先が歌菜のほおに触れた。
「それで、情婦の歌菜はこのあとどうするんだ?」
「えっ? ……えーっ、と…」
 そこまでは考えてなかった! とあせる歌菜に、またも羽純が吹き出し笑う。
「……あなた、もしかして笑い上戸?」
「いや。おかしいな。そんなクセはなかったはずだが……きみにはよく笑わせられる」と、やおら羽純の手が肩を掴み、ぐいっと横に引っ張った。「少し手伝ってやろう」
 ぐるんと回転して、気付いたときには体勢が入れ替わっていた。背中に触れたシーツからさっきまで寝ていた彼のぬくもりが伝わってくる。羽純の黒い瞳が窓からの光を弾いて歌菜を見下ろしていた。
「俺の情婦になると言ったな。俺はただの私掠船の船長で、持っているのはこの船だけだ。商船を襲うし、いつ返り討ちに合うかもしれない。捕まればその場で縛り首だろう。海軍将校の婚約者とは大違いだ。それでいいのか?」
「……上等よ!」
 うなじに回した両手でぐいと頭を引き下ろして、噛みつくようなキスをした。
「契約成立だ」
 笑ってそう言うと、羽純は指の下でつんととがった胸のいただきをそっと口にふくんだのだった。



 ふと、何か音を聞いたような気がして歌菜が目を覚ましたとき、羽純の姿は部屋のどこにもなかった。
「船が揺れてない……島についたのね?」
 そう思ったのもつかの間、彼女は自分がどうして目を覚ましたのか知った。
 砲撃の音がしている。しかもいくつも。海の揺れとは全く違う振動で床が震えている。
「まさか!」
 歌菜はシーツを巻いただけの体で窓にとびついた。小さな窓ではよく見えなかったが、沖の方にかなりの数のカッターやスクーナーが浮かんでいて、そこから砲撃が島へ向けて行われているようだった。私掠船のいくつかは港を出て包囲網突破に起死回生の道を見出そうとしたようだが、例外なく砲撃を浴びてことごとく沈んでいっている。
 旗艦のフリゲート艦のメインマストでたなびく旗は赤と白のストライプにヘビ。大陸海軍(北軍)だ。南部連合政府の私掠船の集まる島がここだということをつきとめたのに違いなかった。
「そんな…!」
 歌菜はベッドの周りに散らばっていた服を手早く身に着けるとドアへ駆け出した。しかし彼女の手がかかるより一瞬早く、ドアは蹴破られる。踏み込んできたのはあのアルクだった。
「……くそ。てめえ……ブッ殺してやる…!」
 彼は体のいたる箇所にやけどを負っていた。閉じた左目から血の涙を流している。満身創痍のその姿は、手負いの巨獣を思わせた。
 激しい怒りを宿した残ったもう1つの目が床に倒れた歌菜を見下ろす。
「おまえからだ…! その細首、ひねり千切ってやる…!」
 アルクは丸太のような手を伸ばしたが、やはり片目では照準をつけがたいのか、指は歌菜の脇に落ちる。アルクは勢い余ってテーブルにぶつかり、よろけた。倒れたテーブルから飛んだ果物ナイフが床を転がって逃げた歌菜の目の前にすべってくる。それを見た瞬間、ほとんど反射的に握ってアルクへと突き出していた。
「ぐあああっ!!」
 腹に刺さった小さな刃に、アルクは獣のような声をあげてうずくまる。その隙に歌菜は外へ飛び出した。砲撃の音は依然として続いている。燃える家屋と火薬のにおいがあたりにたちこめていて、逃げ惑う男や娼婦たちで通りはいっぱいだ。どこをどう進めばいいのかも分からない、知らない町だったが、それでも歌菜はただひたすら羽純の姿を求め、彼の元へ行くことしか考えられなかった。
 その無私の祈りが通じたのか、やがて歌菜は港の一角で羽純の姿を見つけた。だが彼の周囲には海軍服を着た男たちが立っている。
『捕まればその場で縛り首だ』
 昨夜の羽純の言葉がよみがえって、凍りつきそうな恐怖にかられた。
「待って! やめて! お願い! 彼は違うの! 彼は――きゃあ!」
 叫びながら走り寄る歌菜に気付いて振り返った羽純は一瞬驚きの表情を浮かべたあと愉快そうに目をきらめかせたと思うや突然彼女を両手ですくい上げた。そして爆笑している。
「は、羽純くん!?」
「まったく、予想外の行動ばかりする女だな、きみは」
 笑う羽純はリラックスしていて、とてもこれから縛り首にあう人間とは思えない。
「大尉?」
 と、歌菜が来るまで羽純と話している様子だった男が問いかけた。海軍将校だ。
「そのお嬢さんは何者だね?」
「私の婚約者です。近々結婚する予定になっています。ぜひ大佐も式にご出席いただけたらと思うのですが」
「おお。聞いているよ。イギリスのお嬢さんだとか。しかしこのような危険な地へ同行するとは感心しないな。早く安全な場所へ連れて行ってあげたまえ。式にはもちろん参加しよう」
「ありがとうございます。では失礼します」
 両手は歌菜でふさがっている。羽純は会釈をしてその場を離れた。
 羽純が向かっているのはムーンホーク号ではなく、接岸された大陸海軍のスクーナーだった。歌菜はまるっきり意味が分からない。てっきり羽純が捕まって、船から吊るされるとばかり思っていたのに…。
「ど、どういうこと? あなた……婚約者、って…?」
「あとでゆっくり教えてやるから、まずはベッドに戻ろう。これからしばらくきみの居場所はそこだけだ」
「ちょっと! 先に説明――」
「俺が何者でもいいんだろう? 俺の愛人になると?」
 ぐっと言葉を詰まらせる。したり顔の羽純をまじまじと見て、歌菜は観念したように口を閉じると羽純の胸にもたれた。
「あとでちゃんと説明してよね」
「ああ。あとで。ずっとずっとあとにな」