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リアクション
●現代ヨーロッパ 2
パリへ来て初めての休日。佳奈子はノアールとの待ち合わせ場所へ急いでいた。
慣れない街で効率的に買い揃えるのは大変だからと、ノアールが一緒に買い物につきあってくれることになったのだ。
何着て行こう? どんな髪型にしよう? 靴は? バッグは?
昨夜、佳奈子はそのことで頭がいっぱいで、ベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。
これはもう、間違いなく恋だ。
はじめのうち、あの天使のような外見に圧倒されているだけ、しかも中身も優しくて非の打ちどころのないフランス紳士なものだから、ぼーっとのぼせているだけだと何度も考えて自重しようとした。
でもだめ。彼のことを考えただけで胸がきゅーって苦しくなって、顔がほてってくる。話しててもいつの間にか見とれちゃってて話の内容聞き逃しちゃってるし。
こうなったらこれ以上ばかなことしでかす前に告っちゃうしかない。
「……そう決めた矢先に遅刻するなんて〜〜〜〜」
待ち合わせ場所まであと少し。交差点の歩道で信号が変わるのを待っていたら、人波の向こうにいるノアールの姿が視界へ飛び込んできた。
だれかと談笑している。相手は佳奈子に背中を向けていて顔はうかがえないけれど、黒髪にスーツ姿の若い男性のようだった。
「――あ。来たみたいだね」
近付く佳奈子の気配に気付いた男性が振り返る。
「それじゃあまた。近々学園の方にも顔を出させてもらうから」
「はい、セルマさん。お待ちしています」
ノアールの会釈に応じるようにセルマは挙げた手を振りながら離れて行った。
「知り合い?」
「うん。部活の先輩で、去年学園を卒業された人。卒業と同時にIT系の会社を興してね、業界からも注目されてる新進気鋭のベンチャー企業の社長なんだよ」
「へえ。すごい人なんだね」
「うん。ちょっとうらやましいな。僕には到底無理だから…」
そのあこがれとあきらめを含んだ口調になんらかを感じて、佳奈子はノアールを見つめた。セルマの背中が人混みに消えていくのを見守っていたノアールは、佳奈子の視線に気付いてふっと笑う。
「さあ、行こうか」
それがごまかしであることには佳奈子もうすうす気がついたけれど、問うことはしなかった。
「今、パリはちょっと不穏だから」
ノアールは佳奈子を車道側へと誘導し、手をつないで歩き出す。
「不穏?」
「うん。不況がこんなにも長引いているのは政治に問題があるって、週末ごとに公園や広場で集会が起きているんだ。失業率も10%近くまで上昇してて、年内に超えるんじゃないかって……ああ、ほら、あそこ」
ノアールが指差したのは青銅の塔が立つヴァンドーム広場だった。
佳奈子たちのいる位置から道をはさんだそこには数十人の人々が集まって円になり、中央で演説をする男性の話に聞き入っている。周囲の雑音でほとんど切れ切れにしか聞こえないが、かなり強い主張を行っているのは声の調子や身振りで理解できた。そして合間に、囲っている人たちが持参したプラカードを持ち上げたり、手を振り上げたりしている。
「暴動になったりするの…?」
「どうかな。郊外の方ではたまにそうなったりしてるみたいだけど、パリでそんなことは――」
そのときだった。
ピリピリと笛を吹きながら警官隊が現れて、集会に集まった人たちを掻き分けて男性の元へ進む。よく分からないが、多分解散しろとか言っているのだろう。もしかしたら無許可の集会なのかもしれない。
興奮した彼らが用いる早口のフランス語はまだ来仏して間がない佳奈子には聞き取れないけれど、広場の彼らを包む空気がますます穏やかでなくなっていっているのは感じ取れた。
「……遠回りになるけど、別の道を行こうか」
ノアールの提案に従って、広場から目を離した瞬間だった。
わっと背中を押すような声が上がったと思うや、人々と警官隊が衝突した。あわてて目を戻すとその先では人々がプラカードやボード、日傘、タオルといった物でひたすら警官たちを殴りつけている。そして逮捕される前にと、クモの子を散らしたように八方に逃げ出した。
当然その一部の人たちは佳奈子たちのいる通り目がけて一目散に走り込んでくる。巻き込まれまいとだれもが四散するなか、唐突な展開についていけず、逃げ遅れた佳奈子はそのうちのだれかに突き飛ばされてしまった。
「きゃあっ」
ノアールとつないでいた手がはずれて、佳奈子はその場にひざをついてしまう。
「危ない!」
蹴られそうになった佳奈子の腕を掴み、強引に引き寄せた。
そのまま腕のなかに抱き込んで、壁に押しつけて自身でかばう。佳奈子は何がどうなったかも理解できないまま、気がつけばノアールの腕のなかで息をあえがせていた。
心臓がこれ以上ないくらいドキドキしているのはこの出来事のためか、それともノアールと全身を密着させているからか…。
しかし次の瞬間。
(――って。……えっ?)
ノアールの胸に両手を添えていた佳奈子は、そこにあり得ないふくらみを見つけてしまった。
(えっ? これって……え? ええええっ???)
薄いけれど、まさしくそれは女性にしかないものだった。
「どうやら行ったみたい――」と、佳奈子へ注意を戻したノアールは、凍りついた彼女の表情から自分が女子であることに気付かれてしまったことを悟る。「ああ。バレちゃった?」
「……どっ……どど、ど、どうし…っ」
ようやく声が出るようになっても、舌がもつれて言葉になってくれなかった。
頭のなかではがーんがーんと鉄槌が乱打されている。
「家族の秘密で、それは僕の一存では言えないんだ。ただ……騙してごめん」
ノアールは本当に申し訳なく思っている顔で頭を下げた。その真摯な態度を見ているうち、佳奈子のなかでもだんだんとパニックがおさまってくる。
言えないというのはごまかしでも何でもなく、本当なのだろう。彼のことだから、きっと不真面目な理由でしている男装ではないというのはすんなりと理解できた。
(――あ。「彼」じゃなくて「彼女」か)
そう思うと、もうノアールが女性にしか見えなくなるから不思議だった。
もともと中性的な容姿だとは思っていたけれど、それでも女性と考えたことはなかったのに。
「……本当の名前、教えてくれる?」
「エレノア」
「そう。きれいな名前ね。これからもよろしく、エレノア」
手を差し出す佳奈子に、エレノアはあきらかにほっとしていた。何を言われるか……きっと怒り、責められるのを覚悟していたのだろう。
「よろしく」
握手に応じるエレノアの浮かべた花のような笑顔を見ながら、佳奈子は告白する前に終わってしまった恋を思って、少し、かなり、残念な気持ちを隠して笑顔をつくったのだった。
「――そう。けがはしていないのね? よかったわ。……ええ、そうね。……ええ。じゃあ」
通話を切ってひと息つくと、御神楽 環菜(みかぐら・かんな)は受話器を元に戻した。
うつむいた顔の横をさらりと金の髪が流れる。指で梳き、耳の後ろへかけていた彼女の耳に隣室のドアが開く音が聞こえてきて、環菜はそちらを振り返った。
「どうでした?」
夫の御神楽 陽太(みかぐら・ようた)だった。
電話は隣室にも通じていて、通話中はランプが点灯する。ランプが消えたのを見て、入ってきたのだろう。
彼はこの学園の卒業生で、環菜は元校長。臨時で復帰しているとはいえそこまで厳格にしなくてもいいと思うのだが、彼はけじめを重んじてか、迎えに来ても、環菜が校長としての仕事に従事している間は決して校長室で2人きりになろうとしなかった。
でも、それも今日、今をもって終わり。
時計は6時を回っている。
「軽いすり傷をつくっただけで大事ないそうよ。うちの子たちが何人か暴動に巻き込まれたらしいって呼び出しを受けたときはびっくりしたけど、グランクルスからの報告だと暴動というのもただのこぜりあいで終わったようだし」
「それはよかった」
「そうね。私を信じて留守を任せてくれた彼女に申し訳ないことをするところだったわ」
そう言って、環菜は校長席にあらためて目を落とした。
その表面についている傷1つ1つを環菜は熟知している。かつて長い期間、1日の大半を過ごしていた場所。どの傷がどうしてついたか、彼女は覚えていた。
そのなかの1つを懐かしむように指先でなぞる彼女をブラインドを透過してきた西日が照らす。あかね色に染まった彼女の立ち姿はまるで1枚の絵画のようだ。
なかば見とれていた陽太の胸で、今の彼女と、いつか見た彼女の姿が重なった。
「……あのとき」
「え?」
「まだ俺が学生で、あなたが校長だったとき。あなたは言いましたね、「ここからの景色を一緒に見たということが、私たちの心の支えになるかもしれない」と」
あの直後。陽太は環菜を失いかけた。いや、事実一度失った。
あの気も狂わんばかりの恐怖、喪失感。
『古事記』に登場する男神・伊邪那岐のように、ただもうひたすらに、がむしゃらになって彼女を求め、ただひと筋残された希望にしがみついて取り戻した。
あのとき感じた、まるで生きながら体じゅうの血という血、肉という肉を抜き取られたかのような空虚さは、絶対にもう二度と体験したくないと思った。
だがあれから時が流れて。環菜と結婚し、夫婦となって。同じ人生をともに生きている今、あのころのことをこんなふうに振り返る余裕も少し生まれて……ふとしたおりに胸に去来する疑問があった。
「もしかしてあなたは、あのときああなることに気付いていたんじゃないですか? だから俺に、あんなことを…」
環菜は陽太に向き直り、ほほ笑んだ。
否定も肯定もない、朱金の光に縁どられた環菜の姿はあまりに神々しくて、陽太から言葉を奪ってしまう。
「陽太」
彼女の細くてしなやかな肢体を引き寄せ、腕で囲い、そっと抱き締める。ソファへ導き、向かい合わせで横になった。
足を交互にはさみ、片腕は互いの腰へ。腕枕にした手で彼女の髪をもてあそぶ。額にキスをすると、くすぐったそうに環菜が小さく息をもらした。
肌になじんだ感触、ぬくもり、彼女のかおり。妻のすべてが陽太をうっとりさせる。
そうしてどちらともなくつれづれに、たわいのない学園生活の思い出を語った。
「……戻りたいですか?」
やがて話も尽きて、両手をついて起き上がった彼女に訊く。
環菜は首を振った。
なつかしい部屋、なつかしい机、なつかしい傷。けれど机には、環菜の知らない傷もあった。
時は流れている。
ここはもう自分のいる場所ではない。
「臨時校長の仕事は終わったわ。
さあ陽太、帰りましょう。私たち2人のいるべき場所へ。ちょっと遅れちゃったから、急がなくちゃ」
立ち上がり、さっとスカートを払って身だしなみを整えた環菜が手を差し伸べてきた。
「そうですね」
陽太もまた、ここ数日彼女の送り迎えで学園を訪れることで感じていた。
懐かしい、たくさんのいい思い出にあふれた大好きな場所。
だけどここはもう通過した駅なのだと。
ときおり訪れ、足を止めることはあっても、いる場所ではない。
環菜と手をつなぎ、部屋を出る。
2人の後ろでかちゃりとノブの回る音がしてドアが閉まったが、2人は振り返ることも足を止めることもなく、この場から歩み去っていった。