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春待月・早緑月

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春待月・早緑月
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リアクション

 ピピッ、ピピッ、ピピッ。
 オーブンレンジの音にハッとなって、蓮見 朱里(はすみ・しゅり)は自分が軽くうとうとしていたことに気付いた。
「やだ、大変!」
 スリッパをパタパタさせながらレンジへ行き、あわてて中身のスポンジを引張り出す。
 焼けすぎてなさそうだとホッとしてから、タイマーどおりだったことに気付いた。ちょっとあわてすぎだ。
「疲れてるのかな」
 年末の買い出しから始まって、連日まさに戦争のような慌ただしさで家事をこなしてきた。特に1月1日はお正月であると同時に最愛の夫であるアイン・ブラウ(あいん・ぶらう)の誕生日、そして2人の愛娘ユノ・H・ブラウの2歳の誕生日でもある。
 つまりは他人であれば1年でそれぞれ別の日に行われるイベントが、この家では3つも重なっているのだ。しかも、そのどれ1つをとってもおろそかにすることはできない。単純計算でも、主婦の朱里は他宅の3倍忙しい日々を過ごしてきていた。
 きょろきょろ後ろを見て、だれも見ていなかったことにホッとして、スポンジの入った型をバットの上へ移した。そして上に塗るクリームや間に挟むフルーツ、マジパンで作った飾りといった物を用意している間に冷めたそれを、ケーキ台に取り出す。新しいスポンジ種を型に入れて、予熱していたオーブンへ入れた。
 家族3人でホールケーキ2つは、いくら15センチサイズでも多いかもしれない。でもやっぱり、2人で1つより、お誕生日ケーキは1人1つずつがいい。
 鼻歌まじりに手際よく2つに割ったスポンジにシロップとクリームを塗っていると、入口をくぐってアインが現れた。
「いいにおいだ」
 そして朱里の元まで行き、後ろから抱きしめてこめかみにキスをする。
「ケーキ?」
「そう。あの子のね。……内緒よ?」
 最後、口元に人差し指を立てた朱里の仕草にくすりと笑い、アインは両手のそでをまくると、さっと水で手を洗った。
「手伝おう」
「ありがとう。じゃあフルーツの方をお願い」イチゴや水切りしたパイン、キウイフルーツ等々が置かれた一角を指さす。「あ、イチゴは上に飾る分をのけておいてね」
「分かった」
 アインはうなずき、それらを小さな子どもが食べやすい大きさにカットしていった。
 それらをクリームを塗ったスポンジではさんで、上から生クリームでデコレートする。イチゴやマジパンで飾りつけ『ハッピーバースデー』と書かれたホワイトチョコのボードを最後に乗せて、ユノの分のケーキは完成した。
「もう2歳か。早いな」
 ユノに見立てて作ったマジパン人形を指でつついて、アインは感慨深く言う。
 2年前の今日――正確には夜明けとともに――ユノはこの世に生まれ落ちた。朱里が産気づいたのは、子どもたちが眠り、夫婦2人厳かな気持ちで新しい年を迎えようとしていたさなかの出来事だった。それから一連のどたばたは、夢のようでもあり、またつい先日出来事のようにも感じられる。
 朱里もまた、思い出しているのだろう。初めてユノを抱いたときの重み、喜び。母が愛しいわが子を見つめるときの、無償の愛が面に浮かんでいる。
 小さなてのひらから伸びた指、1本1本についた桜貝のような爪。腕のなかにいるユノのすべてが完璧で、まるで神様が生み出したこの世の奇跡のようだった。
「生まれたとき、この腕のなかにすっぽり収まるぐらい小さかったのに。今は歩いたり走ったり、片言だけど言葉を話し始めたり。
 子どもの成長って本当に早くて、いつも驚かされるの」
 ほんの少し目を離していただけで、大事な何かを見逃してしまいそうだった。もちろん、わが子から目を離すことなんてあり得ないけれど。
「どうかしたの? アイン」
 ケーキを見つめたまま、ずっと黙しているアインに気づいて問う。
 アインはなんでもないというように首を振り、朱里の小さな肩へ腕を回した。
「アイン?」
「僕はなんて幸運な男なんだろうと思っていただけ。
 4年前、きみと契約を交わしたとき、まさか機晶姫の自分が恋に落ちて、結婚するなんて思ってもみなかった。騎士として戦い、壊れて終わる以外の生き方が自分にもあるなんて、想像したこともなかったんだ。
 だけどきみを愛した。きみは僕に愛をくれ、僕にも愛を返すことができるんだと教えてくれた……。あのときも、これ以上の幸福なんてないと思った。きみがそばにいてくれる以上の幸福なんか存在するはずないと。
 まだその先に、これほどの幸福があるなんて……」
「アイン」
 朱里はアインにしがみついた。小さな体ながらも、精一杯アインを包み込もうとするように。
「何言ってるの。幸福にはね、果てとか限界とかはないんだから。これからもずっとずっと、この幸福は続いていくの」
 ユノが成長して、恋をして。結婚して、子どもが生まれる。アインと朱里の孫だ。その孫がまた大きくなって、子どもを産んで……。
 そうやって、アインと朱里が愛しあうことで生まれた絆は、未来へと続いていくのだ。この世から2人が去ったあとも、ずっと、ずっと、2人で生み出した奇跡は永遠に途切れることなく続く。
(でも、教えてあげない。だって知ったらアイン、ユノはどこの馬の骨にも渡さない、お嫁に出さないでずっとそばに置いておくんだって言いそうだもの)
 今からもう目に見えるようだった。そして、花嫁衣装を着たユノを見て、歯を食いしばって涙をこらえるアイン。
「どうした? 朱里」
 抱き合った腕のなかで突然朱里がくすくす肩を震わせて笑い出したのを感じて、アインは腕を解く。
「なんでもない」
 ぽんぽんと腕をたたいて一歩後ろへ下がった朱里は「子どもたちを起こしてきて」と頼んだ。
 子ども部屋へ向かったアインが戻ってこないのを確信して、オーブンレンジに入れてあったもう1個のスポンジを取り出す。アインのバースデーケーキだ。
「こっちは手伝ってもらうわけにはいかないもんね」
 寝ている子どもを起こして支度をさせるのは時間がかかる。まだ十分時間はあると、あわてずケーキを仕上げていく。そして、お正月料理の並んだテーブルの上に、2つのケーキを並べて置いた。
 そのころになると、子どもたちのはしゃぐ声が洗面所の方から聞こえてきていた。あの様子だと、アインは相当手を焼いているようだ。
 おせちとお雑煮、そこにケーキが一緒に並ぶのは、ちょっとおかしいかもしれない。
 でも、これが我が家のお正月だ。
 食べ盛りの子どもたちに、年始参りの友達もたくさん来るから、並べきれなくてまだ水屋に残っている分まで、きっと三が日の間になくなってしまうだろう。
 廊下をぺちぺちとこちらへ歩いてくる子どもの足音が聞こえる。
 朱里はエプロンをはずし、出迎えるべく朱里は廊下へ向かった。
「お誕生日おめでとう、ユノ」


 その夜、アインの腕に包まれて眠るなかで、朱里は夢を見た。
 朱里がいて、アインがいて。今よりちょっと成長したユノがいて。
 そして腕のなかには、ユノの弟か妹らしい赤ちゃんがいる。
 みんなで笑う赤ちゃんを覗き込んで、楽しそうに笑っていた。

 もし、これが今年の『初夢』なら。
 近い将来訪れるかもしれない未来なら。
 どうかこの幸せが、いつまでもいつまでも続きますように……。