波羅蜜多実業高等学校へ

葦原明倫館

校長室

空京大学へ

Buch der Lieder: 桜んぼの実る頃

リアクション公開中!

Buch der Lieder: 桜んぼの実る頃

リアクション



【空京: ホテル】


「それでハインリヒ、一体誰がお前の本命なんだッ!!」
 テーブルを叩きつける音に、ティエンがぎゅっと目を瞑ったのが分かったが、最早それにかまけてはいられない。家族が――弟が、人様の家の大事な娘と息子に股がけしまくっていたのだ。これは家の沽券に関わる大問題である。
「お前はパラミタでこんな事をする為に――」
「あら、フラウエルフェはココにいないわ。そうでしょうハインツ」
 コンラートの怒りを遮る形で部屋に入ってきたのは、長女フランツィスカだった。
「コンラートったら直ぐに怒って前しか見えなくなってしまうんだから」
 くすくすと笑うフランツィスカが指をさす方を見れば、次兄カイが耐えきれない笑い声をあげてソファの上で転がっている。
「コンラートアンタね、この子らに騙されたんだよ!」
「騙…………そうなのか?」
 目を丸くして固まるコンラートに、ハインリヒが遂に笑い出し「ごめん」と小さく漏らしたのに続いて、部屋にきた仲間たちも皆笑いを堪えた表情だ。一応真面目にやってはいたが、恋人に次ぐ恋人の登場に、歌劇に、ホラーに妙な伝言ゲームに、最後の最後のあの下りは『無い』。
「そうか、おかしいと思ったんだ……色々と」
 緊張が解けたようにソファに沈む長兄を見て微笑んで、フランツィスカはくるりと部屋を見回した。
「皆あなたの為に色んな事を考えてくれたのね。
 ハインツ、あなたは良いお友達を持っているわ」
 フランツィスカは中立の考えを持っていたが、自分が此処に来る迄にこれほどの人が助けにきてくれたのだと分かれば、それだけで充分に弟が今居る場所がどういうところなのか分かってしまう。
 全て納得した様子の妹の言葉を聞いて、カイもコンラートに向き直った。
「オレもルカスがココに何時までも居る事は反対してるよ……。
 でもそれで本人の意志をねじ曲げたら、余計に拗れんじゃないか?
 コンラート、少し考え直したほーがいいんじゃないの?」
 弟に言われ、コンラートは考え込んでいるようだ。家族の話はそちらの言葉で交わされていたので、内容は分からなかったが、歌菜はなんとなく雰囲気を読んで声を掛けた。
「嘘は良くないので、なるべく嘘にならないで丸く済むのがいいと思って考えたんです。
 彼がハインリヒさんの恋人というのは嘘ですが、ハインリヒさんには本当に大切な方がいるんです」
「俺はそいつを真似て演技しただけだ。
 そいつが此処にいたら、同じ事を言ったと思う…………多分」
 羽純が続いたのに、ダリルが「この際、本当に友人になってしまうか」と冗談めかしてハインリヒに言う。
 と、最後に、コンラートとカイの前で仲間達が演技する間は、ずっと黙って聞き役に徹していた陣が口を開いた。
「俺はハインツの事、嘘でも演技でもなく、本当にダチだと思ってる」
 その言葉に後押しされるように、ハインリヒは長兄を見据え、ゆっくりと、部屋の皆が分かる言葉で吐き出した。
「コンラート、家に帰るべきだというあなたの考えは、分かるよ。
 お爺様は僕を家長に選んだ。でも僕は、あの家はあなたが継ぐべきだと、今も思っている。その考えは変わらない。
 それと確かにあなたの言う通り、僕に此処でやりたい事はない。でも僕はまだ此処に居たい。此処には僕の、大切なものがあるんだ」
「……分かった。
 ハインリヒ、お前がパラミタに残りたいのなら、そうしなさい。
 それからシグネットリングについては、改めてきちんと話をしよう」
 コンラートが出した結論に、仲間がわっと沸き立った。皆が同時に話を始めて騒がしくなった部屋の中で、フランツィスカが部屋を見渡し、次に弟の顔を見て首を傾げる。
「ところでハインツ。
 あなたの恋人は? どうしていないの?」
 ぎくりと固まったハインリヒに代わって、ミリツァが言う。
「フラれたのよ。連絡無いんですって」
 しかしユピリアは、その話を妙に思っているようだ。ハインリヒよりも納得がいかない表情で、反論を口に出す。
「本当にフラれたのかしら。
 ここパラミタよ? 何かあったと考える方が自然じゃないかしら。
 彼のパートナーに連絡した? 関係者にも聞いた? 本っ当に『生存確認』したの?」
「否、だって彼と一緒に向こうに居た歌菜さん達は帰ってきてるじゃないか。
 僕の連絡には一つも返事がないのに――」
 端末を恨めしそうに見るハインリヒの肩をガッと掴んで、ユピリアはゆさゆさと彼を揺さぶった。
「念を押すけど!
 ここは地球じゃないのよ。
 会いたいなら、直接行けばいいんじゃないの!? 『お兄ちゃん』!」
 ユピリアの声は直接頭に響いて真を突いてくる。空京の事件が起こる兆しが見えていた時、ハインリヒは助けを求める手を、彼に伸ばさなかった。拒否されるのを恐れて口を噤んだ。
 今も同じ事だ。会いに行って、面と向かって首を横に振られるのが怖くて、ハインリヒはただここで突っ立っている。
 何時もはそうしていれば割り切れたのに、今度だけはそうはいってくれない。
「どうしてだろう…………」
 自分に問い直す必要も無いくらい、答えは分かっていた。それ程深く相手の事を思っていた。どうしようもなく後悔していたのだ。彼に傍に居て欲しいと言わなかった事を。
「…………クローディスさんに連絡してみる」
「何時? 後でとか言わないわよね!?」
「い、今、します…………!」
 ユピリアの勢いに気圧されて、ハインリヒが部屋の扉の前に蹴り出される様に出た瞬間だった。
 ドアノブに手をかけるより早く、向こう側から扉が開いたのだ。
「失礼します、遅れてすみませ――……」
 その姿を瞳に入れて一瞬呆けていたハインリヒが、腕を引き寄せて強い力で抱きしめてきたのに、ツライッツは目をしぱたかせる。慣れた感覚に確認せずとも相手が恋人である事は分かったが、ハインリヒに人前でこんな事をされた事は初めてで、戸惑いも露に首を傾げ、伺うようにその顔を覗き込もうとした。
「ハインツ? あの……ご心配おかけしてましたか? 端末が壊れてしまって、ばたばたして修理も出来ず、連絡が遅れてしまって……」
 仕事に行った帝国で巻き込まれた事件で様々な事後処理に追われていたツライッツは、組織を束ねるリーダーであるパートナークローディスが入院してしまった為、サブリーダーとして普段の倍以上仕事をしなければならない多忙な日々を送っていた。更に何より優先すべきマスターが入院してしまった事が追い打ちをかけ、事件の所為で壊れた端末を修理に出す暇すら無い位に――所謂頭が空っぽの状態にあったのだ。
 そしてクローディスの体調が安定してきたと医師から告げられ、漸く一息つけたところで、クローディスの端末に着信があったのをツライッツが代理で受けたのだが、その発信者がジゼルだったのだ。勿論ジゼルが頼んだのはアレクを隠す件では無い。
 ユピリアからハインリヒの件について連絡を貰っていたジゼルは、その事をツライッツに教えたのだ。
 団員達に断りを入れ、状況を噛み砕くよりも先に慌ただしく飛び出したツライッツは、此処へ着て自分がすべき事の優先順位を逡巡し、それをさせないハインリヒを押しのける事も出来ずに手を空中で泳がせる。
「ちょっと、あの、すいません、ハインツ? ……まだ俺、皆さんに挨拶も済んでいないんですが……」
 子供を宥めるよりも柔らかい調子で言うツライッツだったが、ハインリヒからは「うん」だとか「そうだね」といった相槌しか返って来ず、表情にも狼狽を隠せなくなってきた間に、背中の後ろから声を掛けられた。
「あれ、ツラたん。帰って来たんだ」
 ツラたん、と巫山戯た渾名で呼んでくる人物は、ツライッツの記憶野の中に一人しか居ない。
「アレクさん!?」
 動揺に身体ごとびくんと揺れて首だけで振り返れば、アレクどころか契約者の集団が背中の後ろに輪を作る様に立っていた。彼等を塞き止める形になっているのが忍ばれる上に、皆驚いて目を丸くしたり、頬を染めているのが見えるので、より一層ツライッツの困惑は大きくなり、慌てて自分を抱きしめてくるハインリヒの背中を叩いた。
「ハインツッ、み、皆さん集まられてますから、いい加減に……!」
 ふっと急に拘束が解けた事にほっとしていると、自分達を囲むように立っている人物に、ツライッツは払ったばかりの落ち着きを、またも捨てなければならない。
(……この方達は、ハインツの……)
 以前見せて貰った写真を思い出して、条件反射のように、普段のよそ行きの笑顔を浮かべてしまうツライッツをよそに、三人の中で一番年嵩の男――つまりコンラートが目礼をして、ハインリヒに顔を向ける。
「この方がお前の本物の恋人なんだね?」
 長兄の質問に頷いたハインリヒの顔を見て、次兄がはたと何かを思い出す。
「コンラート、シグネットリングを返さないとだ!」
「ハインリヒが彼を選んだのなら、指環を持つ正統な権利は、今彼にあるものね」
 フランツィスカが示した『彼』とは、自分の事かもしれない。そう気付いたツライッツは、全く飲み込めない状況に、ハインリヒをおろおろと見上げた。
「……すいません、これは、どういう状況なんです……?」
 と、そんな彼に答えてくれたのは、ハインリヒでも彼の兄弟でもない。ぽんと肩を叩いてきたアレクが一言、口に出したのだ。
「玉の輿おめでとう」
「………………はい?」


 皆が状況を報告する中で、ルカルカはジゼルを見つけ彼女の前へコードの背中を押した。
「この間の事なんだけど――。
 操られていたとはいえ、自分とアレクのために行動した人をあまりに悪し様に罵った事に対して、人間なら、後で謝罪するのが当然だから」
 この間の事とは、異世界の亜人に契約者達が“パートナーとの契約の絆を断たれた”事件の話だ。
 巻き込まれたジゼルは記憶の一部が抜け落ちた状態で、歌手として活動をしていた。その際あちこちで彼女を待ち構え、無理に説得しようしてきたコードが自分をからかっているのだと思い、止めて欲しいと懇願したのだ。
「強引に連れて行こうとしてゴメン」
 コードが謝罪をしたタイミングで、ルカルカがジゼルに言う。
「ジゼルも酷い扱いをした事に対して謝るべきでしょう。
 だって忘れてたんだもんとか、だって大変だったんだもんとか、セイレーンは人じゃないからわかんない、で、他人に謝罪しないような自己中で身勝手な女ではないでしょう?」
 ルカルカが笑い声混じりに喋る間に、彼女の目を見ていたジゼルの視線はそこから外れ、俯きがちになり、俄に身体が震えだした。“人間なら”“セイレーンは人じゃないから”、ジゼルが過去に自分の全てを否定する程恐れていた言葉を、親しい友人と思っていた人物から聞かされるとは――。
 幾ら暖かい友人達に支えられて克服した事とは言え、その言葉を受けたショックと絶望で頭が動かない。何とか声を絞り出そうと努力しても、じわじわと涙が浮かぶばかりだ。
「…………あのね……」
 蚊の鳴く程度の声が漸く出た時、隣に現れた影に顔を上げると、そこにはハインリヒが立っていた。
「失せろバカって言ったのは、俺の方だよ。それと訂正する気は、無い」
 ルカルカにそう言った後、表情にはっきりと不快感と怒りを現して、ハインリヒはコードを見る。
「罵った? ジゼルはそんな事言って無い。彼女は怯えてたんだぞ? 移動中や楽屋まで追い掛けられて、恐怖しない女性があるものか。まして一度友人だった男に襲われた経験があるっていうジゼルが――!」
「落ち着いて頂戴」
 静かなトーンでハインリヒの怒りを嗜めたのは、いつも通りの毅然とした態度で、すっと前へ出たミリツァだった。彼女はジゼル隣で止まると、彼女へ視線を向ける。
「ジゼル、謝りなさい。
 あなたがどんな言葉を使ったのかは知らないけれど、彼等がそれを不愉快だと感じたのなら、あなたは彼等との付き合い方を間違ったわ。謝りなさい」
 義姉に促され、ジゼルはコード達へ向かって頭を下げる。
「コード、ルカルカ、傷つけて……不愉快な思いをさせて、ごめんなさい」
 たっぷりとした時間の後ジゼルが顔を上げると、ミリツァがルカルカへ向き直り、優雅な微笑みを見せてこう言った。
「これで満足かしら」と微笑むミリツァだったが、金の瞳の奥には全く別の感情を宿しているのが、彼女に近しい人間なら分かってしまっただろう。
「でもご免為さいね、私はあなたと違って家族に対する侮辱を簡単に赦せる程、優しくも甘くも無いの。
 私の義妹は人間では無いけれど、心は持っているわ」
 言い切って、ミリツァは今度はコードの顔を見据える。
「貴方。貴方がジゼルを説得しようとした時に、一言でもアレクの名前を出して? 閣下がそうした時に、ジゼルは記憶に引っかかりを感じて採石場まで行ったと聞いている。
 ……貴方は今迄に意識の無いジゼルにキスをしようとした事や、重婚を申し込んだ事があるそうね。私は私の目でも、貴方がジゼルを追い掛けていた所を見ているわ。
 貴方のそういった今迄の行動を見れば、そこに下心が無かったと考えるのは疑わしい。夫ある女性をしつこく追い掛けるというのは、それだけで侮辱だわ。それこそ分からなかった、知らなかったと言えば多めに見てもらえる事では無くてよ。よく覚えておきなさい」
 話が終わったところで、ミリツァが全て終わったと教える様にジゼルの腕の上に優しく手を置いた。
「ジゼル――」
 ふと覗き込んだ顔に生気を見つけられず、ミリツァの表情が凍る。
「ジゼル?」
 ミリツァがセイレーンの疾患を頭に過らせ恐怖を覚えた瞬間、何時の間にかジゼルの真後ろに立っていたアレクが彼女の耳元で何かを囁いた。そしてぐらっと後ろに揺れたジゼルの身体を支え、動揺するミリツァに薄く微笑みかけた。
「大丈夫だよミリツァ。ジゼルは眠っただけだ。
 俺達の代わりに動いてくれて有り難う」
 アレクの後ろからスヴェトラーナ達の視線が飛ぶ。彼等は軍人だ、他国の軍隊に所属する人間相手に不容易な行動は取らない。ミリツァが誰より早く動いたのは、それを見越しての事だったのだ。
 アレクはそのまま意識の無いジゼルを抱き上げると、ルカルカのほうを向いて淡々と伝える。
「あんたは俺の前で一度、軽率な言葉で妹を侮辱した。
 彼女はそれを赦したが、俺はあれを赦してはいない。あんたがそこのパートナーをこれ程拗れるまで放置してきたことも、良くは思っていない。
 俺はそれが大嫌いだが、経験が幼く物事が分からないのであれば、正しい方向へ導いてやるべきはあんただったんじゃないのか? 身内の事で目が曇っていたのかもしれないが、少佐と言う立場ならそのくらい――否、他国の人間に言う事じゃないな。
 兎に角、俺の部下の為に此処まで着てくれた事は感謝する。だが今日はもう帰ってくれ」
 ルカルカが言葉を飲み込んでいるのを確認して、アレクは皆へ少し待っていて欲しいと告げジゼルを抱いたまま部屋を去る。ハインリヒが案内するのに着いて行った為、二人に従うように後を追い掛けたツライッツは、視線の置き場所が分からずに廊下の絨毯を見つめていた。