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恋歌は乾かない

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恋歌は乾かない
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chapter.3 円をなす道交われど漕ぐは恋 


 プチサイクリングロード。
 みなとくうきょうに数ある他の施設と比べ、さほど賑わっているとは言い難いエリアだったが、それでもところどころで男女が仲睦まじく自転車を漕いでいる様子が見て取れた。

 セシル・レオ・ソルシオン(せしるれお・そるしおん)は半ば強引な形で自らのパートナーにこの施設へと放り込まれ、どうしたものかと考えを巡らせていた。特に誰かと待ち合わせているわけでもなかった彼は酒でも飲もうと思い立ったが、時間的にまだ早いと感じ、このエリアで体を動かすことにしたようだ。
「ったく、アスティはいきなりすぎんだよなぁ……こんな場所でひとりで自転車漕いでるのなんて、俺くらいじゃねぇのか?」
 ぼんやりと辺りを見回しながら、セシルは呟いた。その間も、ペダルには重力がかかり前へ前へと車輪を進めている。
 ゆっくり漕いでも、20分あれば一周出来るくらいのコース。そこを進んでいたセシルは、少し先に自転車を止めている女性の姿を見つけた。近づくと、どうやら自転車のチェーンが外れて立ち往生しているようだった。
「こんなの直し方分からないし! あー、もう最悪……こんなことなら家でじっとしてれば……」
 自転車の脇で座り込み、指で車輪をなぞっているその女性は御茶ノ水 千代(おちゃのみず・ちよ)。齢30を越えている彼女は、自らの容姿に衰えを感じずにはいられなかった。「可愛い」「綺麗」そんな言葉を耳にする回数も減り、情熱的と思っていた自身の性質すら若さゆえの勢いと欲求不満にすぎなかったのだと悟ってしまった。
 もう、諦め時なのでは?
 そう思いつつも、「まだやれるのでは」という希望を捨てることも出来ず千代は宙ぶらりんな気持ちでいた。心がぐらついたままこの施設にやってきた千代は、「駄目元だし」という諦めにも似た姿勢でトレーニングと銘打ってサイクリングをしていた。その途中で運悪くチェーンが外れてしまい、今に至るというわけだ。
「参ったなぁ……貸し出ししてたとこまでまだ距離もあるし」
「どうした? チェーンが直せなくて困ってんのか?」
「え? あ、うん、これが外れちゃって……」
 自然に話しかけるセシル。そのまま彼は自転車を降りると、千代の隣にしゃがみ込むと彼女の自転車に触れた。
「あぁ、なんだ、これならすぐ直るぜ」
 そう言うとセシルは後輪のギアにチェーンを引っかけ、逆方向にペダルを回し始めた。するとたちまちチェーンはしっかりと伸びを取り戻し、元通りとなった。
「ほら、直ったぜ」
「あ、ありがとうございます」
 礼を言い、頭を下げた千代を見てセシルはふと疑問に感じたことを尋ねた。
「お前も、ひとりで時間潰してたのか?」
「そうですわね、潰してたというか……まあ、それに近い感じでは」
 まさか希望を求めていた、とは言えず言葉を濁す千代。はっきりしないその言い方に多少の引っかかりを覚えたものの、セシルはそこまで気にした様子もなく朗らかに誘いかけた。
「なら一緒に走ろうぜ。俺もひとりだったんだ。ひとりで漕いでるより、ふたりの方が楽しいだろうしさ!」
 これを、ナンパと受け取るのは早計だろうか。一瞬千代の頭にそんな考えがよぎって、慌てて振り払う。ただ縁のひとつとして、一緒にサイクリングロードを回るだけ。困っていたところを助けてくれたのだから、そう悪い人ではないだろうと思っただけ。微かに波打った心を落ち着かせるように、そっと自分に言い聞かせた千代は冷静な口調で返事をした。
「そうですね、これも何かのご縁ですし」
 自転車のスタンドを上げ、千代がセシルの隣に車輪を並べる。サドルに腰をかけペダルを漕ごうとする彼女に、セシルが話しかけた。
「そういや名前まだ言ってなかったな、俺セシル、よろしくな!」
「私は千代。御茶ノ水千代です」
 反射的に目線を外して、千代は名乗り返した。それは、目が眩んだから。セシルの真上で照っている太陽に。それか、同じくらい真っすぐな光を帯びた彼の笑顔に。
 並んだペダルは風を切る音だけを立てて、ふたりを景色に馴染ませた。約10分ほどのサイクリングを終えたセシルと千代は、コースから抜けると自転車貸し出し場がある小屋の脇に腰を下ろした。
「ほら、喉乾いたろ?」
 自販機でジュースを買ってきたセシルが、ひとつを千代に手渡した。
「そういや、千代はさ」
 さらっと目の前の女性の名前を呼ぶ。自転車に乗っている間お互いの学校や普段の活動について話をしていたセシルは、もう千代のことを呼び捨てで呼んでいた。ともすれば馴れ馴れしいと敬遠されてもおかしくない言葉遣いだったが、彼の底抜けに明るいキャラクターがそれを自然と許していた。
「なんでそんな綺麗なのに、ひとりだったんだ?」
「……え?」
 カンッ、とジュースが千代の手から滑り落ちた。
「な、何言って……」
「だってこんなにいい女なのにさ。誰も声かけないなんてもったいないよな」
 あっけらかんとした口調でセシルが言う。千代は缶を拾うことで、自分の顔を隠した。熱を帯びてしまったそれを気取られるのが、恥ずかしかったのだ。
「そ、そういえば君は将来の夢とかは?」
 視線は合わせぬまま、話題をそらす千代。セシルが少しの沈黙をつくる。思わず彼の方を向いた千代が見たのは、大人びた表情で空を見上げているセシルだった。
「ここで、ひとつでも多くのものを見て、学んで、受け止めたいかな。そこからどうするかなんてまだわかんねぇけどさ。パラミタでも見える空は変わらないけど、その下には何が広がってんのか、どんなやつがいんのか。そりゃ辛いこととか汚れたこととかもあるんだろうけどさ」
 一息吐いて、彼が言った。
「そういうの考えただけでも、わくわくしねぇ?」
 いつの間にか千代は、セシルを真っすぐ見つめていた。前向きな彼の言葉が、千代に視線を注がせたのだ。千代の口の端が、小さく動いた。
「千代には、夢とかあるか?」
「私ですか? 私はね……」
 ふたりはそれからも、いつか訪れる未来について言葉を交わしあった。

「ふむ……セシルには意外と大人の女性が合うのかもしれないな」
「綺麗な人だったしね。これが良い縁になるといいんだけど」
 植え込みの陰からセシルと千代の様子をこっそり窺っていたのは、彼のパートナーカイルフォール・セレスト(かいるふぉーる・せれすと)アスティ・リリト・セレスト(あすてぃ・りりとせれすと)だった。ふたりはサイクリングロードでセシルが千代に声をかけた時から、ずっと隠れて後をつけ、観察していた。
「セシルが誰かを綺麗だとかいい女だとか言っているのは初めて聞いたな。しかし……アレで口説いている自覚はないのだろうな」
「ま、いいんじゃない? こういう機会でもないとセシル、ずっとひとりのまんまだろうし」
 苦笑しながら言うカイルフォートに、アスティがけらけらと笑って返事をする。そもそもセシルを焚きつけて今日のイベントに連れていったのは、このアスティなのだ。いつも他人の恋愛応援ばかりしているセシルを不憫に思ってのことだったが、思いのほか順調にいっている彼を見て、アスティはどこか満足気な様子だった。
「うまくいくといいね、フォール」
「もしかしたら、もしかする可能性はある……まだ分からない、先の話だろうけどな」
 世話焼きなふたりは、最後にちらりとセシルたちの方を見るとそっとその場を離れていった。



 みなとくうきょう入口からショッピングモールである青レンガ倉庫に行くには、このサイクリングロードを抜けていくのが近道となっている。
 白雪 魔姫(しらゆき・まき)は、その青レンガ倉庫に向かうためひとりこの道を通っていた。そこに、たまたま自転車を漕いでいたスレヴィ・ユシライネン(すれう゛ぃ・ゆしらいねん)が現れすれ違う。瞬間、スレヴィは魔姫の瞳に何かを感じとり、思わずペダルを漕ぐ足を止めていた。キキキ、と乾いたブレーキ音が鳴る。
「……何?」
 目の前で静止し、こちらを見ているスレヴィに魔姫が問いかけた。
「運命……」
「え?」
「運命の出会いとやらが、本当にあるのかと思ってね」
 スレヴィの言葉に、魔姫はますます目を丸くした。
「何言ってんのよ」
 釣り目なせいか、睨んでいるようにも見える彼女の視線を浴びて、スレヴィは自分の気持ちを再確認した。
 ――やはり、間違ってはいなかった、と。
 その鋭く上がっている目尻から、プライドの高さを、負けず嫌いそうな性格を感じとるスレヴィ。そしてそれは、彼の好みと合致していた。
「とりあえず、自転車に乗ってみない?」
 スレヴィが自分の自転車の後ろを指差す。正直なところ、魔姫の好みは落ち着いた大人な男性だったためさほどストライクでもなかったのだが、友人として仲良くなるだけなら……とその誘いを受け入れることにした。せっかくこういうイベントの日なのだから、運命かどうかはさておき、楽しまなければ損だしね。自分に言い聞かせるように魔姫はスレヴィの後ろに腰を下ろした。
「よし、じゃあ行こうか」
 スレヴィがペダルを漕ぎだす……が。
「……ちょっと」
 漕ぎだして数分で、スレヴィは足を止めた。いや、正確には足が止まったのだ。肩は上下に揺れ、額からは汗がこぼれおちている。そう、彼はバテていた。
「悪いね、疲れちゃった。代わりに漕いでくれない?」
「はい……って言うとでも思ったの!? そっちから言いだしといて何よこれ。あなたよくこの私に声かけといてそんなこと言えたものね?」
 重い、と間接的に言われた気がして、魔姫は呆れのような、怒りのような感情をスレヴィにぶつけた。毒づかれた彼はてっきり落ち込むのかと思いきや、その表情はどこか嬉しそうだ。表に出すまいとしているのか、緩む口元が震えそうなのを押さえている。
 そう、彼は女性に罵倒されることで興奮を覚えるタイプの人間だった。
「ワタシもう行くから」
 スレヴィの前から離れていく魔姫はもちろんそんなことを知らない。今回表出こそしなかったものの、実は彼が女性をいじめる性癖を併せ持っていることも。もっとも、知らない方が幸運と呼べるかもしれないが。

 魔姫が去った後、スレヴィはひとり自転車を漕ぎながら運命の残酷さに復讐を誓っていた。
 と、またまた前方に女性の姿が見えた。それは、みなと公園から歩いてきた式部だった。
「まだ、運命に続きがあったのかな」
 さっきの出来事を忘れたかのような勢いで、スレヴィは式部に話しかけた。
「やあ、ちょっと一緒にティータイムでもどうかな?」
「えっ……?」
 それは奇しくも、このイベントに来てから初めて式部が受けたナンパらしいナンパだった。彼女自身待ち望んでいたことのはずだったが、いざ身に降りかかるとどう返していいか分からず、式部は口ごもってしまった。
こんな時、タイミングは重なるものである。どう言葉を返そうか決めかねている式部の元へと、菅原 道真(すがわらの・みちざね)がやってきた。
「やっと会えた。あんたが式部?」
 中身はともかくとして、男性の外見をしていた道真に声をかけられた式部は「もしかして、またナンパ?」と微かに期待を抱いたが、自重すると同時に慌てて訂正した。
「そうだけど……あ、ううん、違うっ、私は源氏、光源氏よ! プレイボーイでお馴染みの、あの源氏よ」
「あれ、そうなのか。まあ名前なんてどっちでもいいか」
 大して気にしていない素振りを見せると、道真は細長い紙を一枚懐から取り出しそこに筆を走らせ始めた。
「……ん? 何書いてんだろ、あれ」
 その様子を少し離れたところから観察していた道真の契約者、茅野 菫(ちの・すみれ)は不思議そうに呟いた。どうやら彼女は同じ平安時代の英霊を持っていたため式部が気になっているようだったが、「本気で口説く」と意気込んでいた道真を珍しく思い自分は観察側に回ることにしたようである。
「はい、これ。よかったら貰ってよ」
 その道真はといえば、文字が加えられた短冊を式部に渡していた。よく見ると道真の手には短冊の下にもう一枚小さな紙切れが乗っており、よく見るとそこには道真のメールアドレスが書いてあった。
「じゃ、そういうことで」
 式部の反応を見るより先に、道真はその場から立ち去ろうとする。式部は一瞬その背中を目で追いかけ、すぐさま視線を短冊に落とした。自然と、言葉がリズムに乗って口から出る。
「見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめくらさむ……」
 それは、「全く見なかったわけでもなければじっくり見たわけでもない人を思い、ただ物思いにふけろうか」という内容の歌だった。有名な和歌集に収められている上に、教養のあった式部はその意味をすぐに理解していた。同時に、この歌が元々は道真ではない、別な貴族がつくったものであることも。
「……お茶、冷めちゃいそうだけど?」
 短冊を持ったまま止まっている式部に、カップを持ったままだったスレヴィが話しかけた。
「歌なら、俺だって歌えるよ」
 歌に式部の心が動いたと思い込んだスレヴィは、負けじとその口からメロディーを紡ぎだした。が、彼はとてつもない音痴だったため式部にとっては迷惑以外の何物でもなかった。
「ええと……ごめんなさい、歌が好きなのは充分わかったから、ちょっとおつかいを頼まれてほしいの」
 スレヴィにどうにか歌うのをやめさせようとした式部は、彼に一枚の紙を渡した。それは、道真が渡した短冊だった。
「これ、さっきの人に返してきてくれない?」
「……」
 お世辞にも機嫌が良いとは言えない表情の式部を見てスレヴィは複雑な心境に陥ったが、これも運命のひとつかもしれない、と悟り式部から紙を受け取った。同時に、プライドの高そうな目の前のこの女が冷めた目で自分を見ていることに気づいた彼はもっと罵られ、かつ罵りたい衝動に駆られた。
「式部……」
 ここまで我慢していた何かが溢れ出るかのように、ふらりと式部の方に近づくスレヴィ。ただならぬ気配を感じた式部が一歩退いた時だった。
「ちょっと、にーちゃん、ええかげんにしたりぃや。ねぇちゃんかて困っとるがな。やめたりぃ」
 たまたま近くを通りがかった大久保 泰輔(おおくぼ・たいすけ)が、式部とスレヴィの間に割って入った。
「ほら、にーちゃんちょっと下がりぃや。さっきねぇちゃんになんか頼まれとったやろ? あぁ、これか?」
 泰輔はスレヴィの手から短冊を取ると、もう用はないと言わんばかりにスレヴィを追い払おうとする。
「にーちゃんいつまで自転車乗っとんねん。早く返しにいかなあかんで」
「……そうだね」
 ある意味助かった、とスレヴィは思った。このまま居座っては、また悪い癖が出てきそうになってしまうかもしれないと危機感を抱いていたからだ。運命は、また日を改めて探しに来よう。スレヴィは自嘲気味に笑うと、そのまま自転車を漕ぎだした。
「いらんお節介やったかな?」
 スレヴィの姿が見えなくなった後、泰輔が式部に尋ねる。式部は肯定とも否定とも取れない曖昧なリアクションでお茶を濁した。どちらを答えても、誰かに悪く思われてしまう気がして。
「あの、それ……」
 式部が泰輔の手にある短冊を指差す。道真に返そうとしていたものだ。泰輔は「おぉ、そうか」と納得した風な様子で、式部に笑いながら言った。
「じゃあ、一緒に返しにいこか。ほら、旅は道連れ言うやん?」
「あ、ええと……」
「なんや、大人しい子やなぁ。それ使い方合ってないやん、とか言うてくれてええんやで」
 そんなに明るく話せるなら、もっとモテている。式部は心の中でそっと毒づいた。泰輔はそんな式部に対し、あくまで自分のペースで場を和ませようと明るく話しかけた。
「そや。せっかくやしこの用事終わったら、どっか行こうか。暗くなったら近くの公園で蛍も見れるみたいやし」
 きっと楽しいで、と付け加える泰輔。言うまでもないが、彼は漁夫の利をひっそりと狙っていた。
 せっかくのイベントなのだから、それらしい気分は味わいたい。そう思っていた彼は、何人もの女性とすれ違ってきた。中には綺麗な女性もいたが、競争率が高そうだと見切って声はかけなかった。そしてこのサイクリングロードまで来た彼は、道真やスレヴィに絡まれている式部と出会ったのだ。
 あの子なら、いけそうかなぁ。
 式部からしてみれば失礼極まりない考えだが、彼女のモテないオーラを感じとった泰輔はそう踏んで行動に移ったようだ。一応そこには変な絡まれ方をされていた場合の人助け、という名目もあったようだが。
「どないや? 飽きさせへんで?」
 泰輔が式部に手を差し伸べる。が、彼の心の中にあった妥協のようなものを敏感に感じ取ったのか、式部はすんなりとその手を取りはしなかった。
「とりあえず、それを返してきてほしいんだけど……」
「あ、ああこれか? しゃあないな、じゃあちょっと届けに行ったるから、ここで待っといてや?」
 強引さよりも親切心が勝り、泰輔は道真の後を追いかけていった。その後泰輔が戻ってきた時、式部の姿が消えていたのは言うまでもない。

「せっかくメアドも渡したのに、メールじゃなくて、短冊が返ってきてるし」
 泰輔を通して式部からそれを返却された道真を見て、菫がニヤニヤしながら言った。
「和歌と一緒にメアド交換してメル友とかまどろっこしいことやってるから」
「平安貴族ってのはそういうもんなのよ。それに、ただ突っ返されただけじゃないしね。さすが頭いいわ、あの子」
 口説き逃したと菫はからかうが、当の道真は短冊を見て小さく笑みをこぼしていた。他人の詠んだ歌が書かれた短冊、道真はそれを裏返す。そこには、式部からの返歌が書かれていた。
「知る知らず なにかあやなく わきて言はむ 思ひのみこそ しるべなりけれ」
「……どういう意味?」
 声に出してそれを読み上げた道真に、菫が尋ねる。
「よく知ってる、さほど知らないなんて区別に意味あるの? どのくらい思ってるかが、恋の標でしょ? ってとこかな」
 道真は知っていた。それが、自分の送った歌と同じ古今和歌集からの引用であることを。つまり、式部自身の言葉ではないということを。
「デートは、式部の言葉をちゃんと貰えてからね」
 その時は自分も堂々と自分の言葉で口説こう、道真はそんなことを思っていた。そしてやがては菫を若紫とし、式部と共に良い女に育てよう、とも。ちらりと見て含み笑いをする道真の胸中を、菫が知ることはない。
 しかしまた道真も、メールが式部から来なかった理由を知れはしなかったのだった。
 ――そっちから声かけてきたくせに、私からメール送るなんておかしいじゃない。
 知れはしないのだ。式部がそんな風に思っていたことを。
 道真たちとは逆方向に歩いていく式部。サイクリングロードを抜けた彼女はやがて、青レンガ倉庫へと辿り着いた。