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電子の国のアリスたち(前編)-エンプティ・エンティティ

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電子の国のアリスたち(前編)-エンプティ・エンティティ

リアクション

 誰も知らない場所で、それは目覚めた。
 己が何者であるか、何をすべきか。
 何もわからず、教えてくれるものもなかったが、ただこれだけは覚えている。
 −あらゆるものを越えよ。
 それが己に与えられたものか。
 その後、経緯は皆目不明だが、今目覚めるに至る永い眠りについたのだ。
 たどり着いた此処で、いつ醒めるともしれず、ただ何かの可能性だけを抱きながら。

 そうして、それは遅い産声を上げた。

  ◇ ◇ ◇

 ひとりの学生が、教室を出て次の講義へ向かおうとドアに手をかけた。
「あれ?」
 従順に開くはずのドアは突如頑なに抵抗し、ガタリと音を立てたのみ。鍵も開いている、学生は引き戸になっているドアを揺さぶって、何度も開けようと試みた。
「なにやってんだよ、早く出ろよ」
「い、いや…開かない…んです」
「なにい…? …本当だ」
 薬品や機材が常設されているような特別用途の場所でない限り、基本的に教室類は解放されているのが常だ。
「こっちも開かない!」
 別のドアに向かった生徒も悲鳴を上げた、こちらも開かず、やはり鍵は開いているはずであることを確認している。
「電子錠のエラーかな」
「おい、窓も開かないぞ!」
 その叫びにまた教室内のざわつきが高まる。校内設備のほとんどのロックは電子制御で管理されているのだ。それがエラーとなると、原因が取り除かれるまでは、下手をすると閉じ込められるままになる。
 おまけに、この教室は棟の上階にあった。仮にドアよりも耐久の低い窓を破れたとしても、下に下りる手段が何もない。
 空京大学の設備は大抵どこもしっかりしたつくりになっている。大学のみならずどの学校にも言えることだが、身体能力の高い契約者達が多少ぶつかり合っても耐えられる想定になっているのだ。
 今回はそれが仇となって、のどかな教室は、一瞬にして堅牢な檻と化した。
「もしもし! …電話も通じないだと…?」
 携帯を取り出して外部と連絡を取ろうとするもの、内線から警備室へ連絡を入れようとするものなど、なんとかして状況を知らせようとして、儚くも全て潰えることになった。
 いや、ひとつだけ通じたものがある、パートナーと繋がる通信だ。パートナー同士なら、電話回線や電波の有無など関係なく意思の疎通がかなうのだから。
「やっと通じた! 今教室に閉じ込められて…そっちは?!」
 同じような悲鳴がどの教室でも上がるのは時間の問題であり、状況が浸透していくのに時間はさほどかからなかった。
 教室だけではなく、廊下の主要なポイントが防火シャッターなどで分断されている。コンピューター類がエラーを吐き、また異常をそれと認識しない。空調設備の設定が狂い、低温保存されていた実験試料がすべて台無しになった等の被害も報告された。
 全ての異常には共通点があり、それは例外なく校内のイントラネットに制御を委ねるシステムだった。
 サーバー類を停止しようにもイントラ経由で即座に再起動がなされ、無線の類もコマンドを受け付けず、外からのアクセスも内部からの応答も遮断できない状況にある。
「ネットワークを完全に遮断するのだ、大学が孤立してもかまわん、ウイルスならば拡散と進行を止めねばならん!」
 ハッキングを受けたと判断した空京大学の上層部は、即座にネットワークの物理的切断を決定、アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)学長の檄が飛び、ネットワークケーブルが切断され、大元の無線タワーが破壊された。
 しかし攻撃はやまなかった。
 身動きが取れるものの中から、コンピューター技能持ちの学生達が集められ、被害状況のチェックと原因究明、解決へ向けて振り分けられた。
「閉じ込められたものの中に、他校の生徒が混じっているようですな」
 上がってきた報告に、学長はかすかに渋面になる。校内に放送をかけて誘導できればいいのだが、現在はそれもかなわない。
「契約者ならば、問題の解決を自ら進めようとする者も多いだろう、それを止める道理はない。根幹システムはわが校の関係者に委ねるが、多少は各々の判断に任せることとする」
「よろしいのですか?」
「かまわん、多くのものが動き回れば、逆に犯人が身動きとれぬ状況に陥る可能性も高い。犯人は自分まで閉じ込められないよう、自由に動ける場所にいるかもしれないだろう」
 学生達はサーバー点検、ネットワークログの洗い出し、攻撃の全容を探るために振り分けられて所定の場所へ向かっていく。

 その中に、フューラー・リブラリアの姿もあった。学部の先輩と共にサーバー点検をあてがわれ、さっそくリストをめくってその分量にしかめっ面をしていた。
 部屋で待つ妹、AIヒパティアを思って寮のネットワーク状況を脳裏によぎらせ、いつも遮断してあるから大丈夫だ、と安堵して作業にとりかかる。
 しかし彼は知らなかった。彼所有ではない、存在も知らない無線機器がいくつも電波の届く範囲にあり、隣室から、階上から、あらゆる場所から一斉にアタックが仕掛けられ、電源を落としていたはずの彼女専用の中継機器が呼応するようにそのステータスを『接続』へと変化させたことなど、よもや思いもしなかったのだ。
 さらにその数時間後、一旦自分の寮へ戻った彼が意に染まず学校へととんぼ返りすることなど、しかも昏睡状態に陥って、シラード・ヌメンタ教授にパートナーロストの症状を引き起こしているなどとは、だれが想像しただろうか。