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狙われた少年

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狙われた少年

リアクション

   三

 夜が白々と明けてきた頃、人通りのない道をのんびり――というより片方はぐったりだが――歩いている二人連れがあった。
「……天音よ、我々は何をしているのかな?」
 ブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)の質問に、黒崎 天音(くろさき・あまね)はしれっとして答えた。
「花見に来たんだけどねえ」
「だな。だがなぜ、今、こんな朝早くにこんなところにいるのだ?」
「この前来たとき目をつけていた桜があったんだけど、残念ながらまだ咲いてなかったから、かな」
「我もそう言ったはずだがな。おまえが大丈夫だと太鼓判を――」
「もういいと思ったんだ。今年は少し遅いのかな?」
「我は昼にしようと言ったが、おまえがどうしても――」
「だって、夜桜って綺麗だろう? さぞ見物だったと思うんだけどな。次は満開の頃に来ようじゃないか」
「……我は昨日の昼からせっせと弁当を作り――」
「美味しかったよ。真っ暗で何食べてるかよく分からなかったけど」
 ブルーズは体中から力が抜けるのを感じた。この男には何をどう言っても堪えないに違いない。悪かった、とは露ほども思っていないのだ。
 くしゅんっ、と小さな音がした。
「おやおや、スピカ、風邪かい?」
 天音の肩にはゆるスターのスピカがちょこんと乗っている。よせばいいのに、ひくひくと鼻を動かしてはくしゃみを繰り返していた。
「花粉症かな?」
 天音は周囲を見回した。どこもまだ雨戸を閉めている。その内の一軒で、女性が戸を開けていた。「飯屋」と看板にある。
「お姉さん、店、開くのかな?」
 真ん丸の顔をした店員は、まだですよ、と答えた。「まだ準備がありますからね」
「スピカが寒そうにしているので、中に入れてもらえれば助かるんだが。お代はちゃんと払うよ」
 店員は天音の肩を見て顔をしかめた。
「ネズミじゃありませんか」
「着ぐるみを着た、ね」
と天音は笑った。「ゆるスターというんだ。ちゃんと洗ってやってるし、衛生的だよ。何しろ裸じゃない。上から下まで、このブルーズが作った着ぐるみを着ているんだから」
 店員は目を丸くしてブルーズを見た。
「へえっ、お客さんが作ったんですか、器用ですねえ」
「まあな」
「……ま、いいでしょ。他のお客さんの迷惑になりますから、ちゃんと掴まえといてくださいよ。ま、この時刻じゃあ他に客なんていないけど」
「あのう、私もいいでしょうか?」
 天音たちが振り返ると、セーラー服に眼鏡の、いかにも「学級委員長」的な少女が立っていた。朝だというのに目の下に隈を作り、覇気のない顔だ。
「少し休ませてもらいたいんです……」
「あらあらまあ、どうしたんです、そんな疲れて。朝っぱらからフルマラソンでもしたんですか?」
 店員に促されるまま、伏見 明子(ふしみ・めいこ)は店に入り、椅子に腰掛けた。程近い席に、天音とブルーズも座った。飯台にスピカを下ろすと、てこてこ足音を立てながら明子の方へ向かい、くい、と首を傾げた。
「可愛い。心配してくれてるの?」
「若い娘が朝からそんな顔では、ネズミだとて案ずる。こんなところで何をしているんだ?」
「それが……春休みだし、いえどうせバラ実なんで休みも何もないも同然なんですけど、とにかく来たことなかったんで葦原に来てみたんです。それがどういうわけか、二日目ぐらいからやけに疲れて……」
「観光疲れかな?」
 天音の問いと同時に、スピカが反対側にくいっと首を傾げた。明子は手を伸ばして、スピカの喉を指先で撫でてやった。
「そんなに歩いてないんですけど……まだ三日目ですし。どうしたのかなあ?」
 スピカが気持ちよさそうに目を細め、喉を鳴らした。
「今日は一日休んだ方がいいだろう。それで疲れが取れないなら、病院に行くべきだ」
「そうですねえ……」
「店、開いてるのかい?」
 入り口から男が顔を覗かせた。先程の店員がひょいと半身を出す。
「まだ準備中ですけどね、待っててもいいですよ」
「お姉さん、そういえばこの店のおすすめは何かな?」
「嫌ですよ、お客さん。ここは一膳飯屋。出すのはご飯と味噌汁に香の物、それから魚だけです。今の時期なら茶飯も出せるけど、夜だけ」
「ふうん」
「贅沢言う奴ぁ、他行けってことさ」
 男の言葉に、いつの間にか入ってきていた客たちがどっと笑った。「なあ、ヒナちゃん?」
「三十近い子持ちの女にちゃん付けはないでしょ」
「なぁに、ヒナちゃんはこの店の看板娘だからよ」
「そうそう、あんたが来てくれてよかった。なんせ皺くちゃのじーさんとばーさんだけだったからよ」
 皺くちゃで悪かったね、と奥からしゃがれた声が飛んできて、またどっと笑い声が起きた。常連たちに居心地の良い店らしい。
 しかしその中にふと、決して笑わぬ客がいるのを天音は見た。顔だけではない。目も笑わず、それどころか周囲に気を配っている。
「……ブルーズ」
「何だ?」
「僕はこの店が気に入った」
「どうした?」
「しばらくいよう。金は僕が出すから、のんびりたっぷり食べてくれ」
「何だって?」
 ブルーズは目を丸くした。
 スピカの喉を撫でながら、明子は呟いた。
「そういえば私、昨夜はどこに泊まったんだろう……?」