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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

リアクション

 アリスが消滅したあの直後、ヒパティアはパニックに陥った。
 兄の言葉も聞き入れられないまま、ログインしていた全員がはじき出され、その後は何をどうアクセスしても応答がなくなった。
 肝心のフューラーは力尽きて再び眠り込んでしまい、目を覚ましたのはまる1日経った後という有様だった。
 彼は勿論すぐにヒパティアにアクセスしようとしたが、パートナーロストと昏睡のち間髪入れずあれだけの強行軍を行ったために、未だ
 に絶対安静を言い渡されている。
 今も病室のベッドの下に転がり落ちた彼を、祠堂朱音が腰に手をあてて厳しく見張っていた。
「今抜け出そうとしたよね? ボクの目は誤魔化せないよ!」
「ええっとこれは眩暈で…、………ハイ…スミマセン…」
 完全にやりこめられて頷くしかない、どうにも彼は基本的に小さいものに弱いのである。
 外傷はないが、眩暈や頭痛はしばらく続くはずで、彼女の監視も続くだろう。ちなみに昨日は寝ていて知らないが、真たちが居てくれたそうだ。
 窓の外ではかんかんと土木工事などの音が響いて、修復作業が行われている。学長にも挨拶にいかなければ、こんな騒ぎを起こしてしまったのだから。
「いつも過ごしていた空京大学で、まさかあんなことが起きるとは思わなかったなあ…」
 はたしてヒパティアにとって、あの出来事が良い影響を与えたかどうか。
 だが彼には悲しい予感しかしなかった、一刻も早く妹のところに行きたいのに、いまだ兄でさえログインを拒まれているのである。
 シラードも今だに寝込んだままだ、年齢的な差がショックをよりひどいものにしていた。

 からりと部屋の引き戸が開いて、林田樹たちが顔を出した。こんな風に時々、知人が見舞いに来てくれる。
「失礼するぞ」
「はい、どうぞー」
 応答とともに、樹に張り付いていたコタローがフューラーに向かってすっ飛んできた。
「ふゅーらーのにーにー!」
「んがっ…ぐはっ!」
「こらっ、コタロー!」
 焦ってコタローを取り押さえようと、樹と章が引き剥がし、ジーナが見舞いの品を脇に置いた。
「…こ、こたくんおなかは…かんべんして…」
「にゃーっ! ごめんあしゃい…」
 ロケット頭突き+腹上ジャンプのコンボは、いくらなんでも一応安静の彼には厳しいだろう。
「いてて…そういえば聞きましたよ、テクノクラートになったんですね、おめでとうございます」
「らから、こたみんなとがんあったれすよ!」
「ありがとうございます、ものすごく助かりました、ぼくも負けていられないなあ」
「にゃはー、えへへ」
 いきてる、いきてる、にーにわらってる。コタローはリボンをなおしてもらってご満悦だ。
 続いてスパーン!と引き戸が枠から外れそうな勢いで開いた。
「たのもー!!」
 フューラーの脳内デフコンが発令された。坂下鹿次郎のお出ましである。
「ここにヒパティアはいませんよっ!」
「うるさいですわよ!」
 鹿次郎の後ろ頭をこちらもスパーン!と雪が張った。地べたに沈む鹿次郎は、いつものことなので再起動も早い。
「そんなことは承知でござる! まあとりあえず、おぬしが元気であればヒパティア殿も元気になることは必定であるからして」
 彼もヒパティアを心配しているのは間違いない、…その手にした巫女服を別として。
「なにやら、ずっと彼女は様子がおかしかったので気になっていたのでござるが、まだ会えないようでござるな…」
「その節はご迷惑をおかけしました…」
 その言葉を引き出した鹿次郎の目がキラリと光った!
「では迷惑をかけたツケに、フューラー殿も!巫女装束を着るのでござるな!」
「ぐっ…」
 大変な迷惑をかけたのは事実なので、何も言えない。
「まあ、お、思ったより元気なようでなによりで…。それでは失礼致す…ぅいたいいたい雪殿!」
「おほほ、それでは失礼いたしますわ」
 思い切り雪に背中をつねられながら、鹿次郎は退散した。
「それでは、私達もそろそろお暇しよう」
「にーに、またねー!」
 ぷいぷいと振られるちっちゃな水かきに手を振り返して、フューラーは喧騒を見送った。

 人が出て行ってひと時静かになった病室に、今度は金色のきつね耳ときつね尻尾の獣人が現れた。
 ちょうど用事をしにいこうかと迷った朱音が、これ幸いと彼に頼みごとをする。
「いらっしゃい、ボクはちょっと席をはずしますけど、このひとをここから逃がさないでくださいね」
「では、手前がその間見張りを仰せつかりましょう。所用もあることですし」
 にこやかに朱音を見送って、彼はベッドの傍の椅子に座る。自己紹介をして一礼する。
「…フューラーさんと申されましたか、手前若輩者ながら空京の地祇、空京稲荷 狐樹廊(くうきょういなり・こじゅろう)と申します。体調のすぐれないところ申し訳ないのですがどうしてもお尋ねしておきたいことがございます」
「し、失礼いたしました、地祇さんでしたか。…ええと、ぼくでよろしければ…」
 不躾ながら哲学など色々混み入ったことだから、耳障りならば聞かなかったことにしてくれと前置きし、狐樹廊は静かに話し出す。
「…およそ生物というものはなぜ『死ぬ』のでしょう? 手前はある種の安全弁ではないかと考えております。情報や知識が失われることも途切れることもなく単一の存在に積み重ね続けられたとき、果して如何なる結末を迎えるのか…」
 病室の空気が、次第に張り詰めたような錯覚を起こし始める。
「あなたが存命である内は気にする必要などないことなのだと感じます。ですがその後は? 空京に仇名す恐れのあるものにかける情けを手前は持ち合わせてはおりません」
 もはや狐樹廊は先ほどまでのにこやかな顔を残していなかった。
―けして優しい話ではありませんが避けては通れぬ道でもあること、御一考してはいただけませんか?
 しばらく探り合うような沈黙が続き、フューラーはため息を吐いた。
「そうですね…、…そいつは難しいなあ。ぼくも正反対ですが同じように、何故『生まれる』『生きる』のだろう、それは一体なんの始まりだろうって、考えたことがあります」
 ヒパティアが真似をするから、言葉遣いを直した。髪の長さの違いを不思議がるから、自分も伸ばすようになった。
 性別や肌の色の違い、身長にも差がつくようになってようやく、自分たちは違う存在なのだと彼女は理解しはじめた。時は過去から現在を経て未来へと進み、決して戻ることはないことに気が付いた。
 かつて空腹よりも知識の飢えに耐えられなかった、本が好きな子供は、まるでごく当たり前のきょうだいのように、一風変わった妹に振り回されながら、共に未来を見透かそうとしている。
「人間が何千万年もかけて作り上げてきた精神活動を、一朝一夕で模倣できるわけなんてありません、まだまだやることはあるだろうし、皆さんのお手を煩わせることになるでしょう」
「我々でできる事ならば、如何様にも力になりましょう」
「でももう何があっても、どんな可能性につまづいても、彼女を破壊や絶望に導くことだけはしません。やがて彼女は自らの道を、『生き方』を選び、一人で立てるようになるでしょう。その時は彼女自身が選んだ人や、今度こそ彼女と同じような存在が隣にいるかも知れませんね」
「…なにやら、そこにはあなた自身が居られないような言い様ですな…? 手前は確かに先ほどあのように申しましたが…」
 決意や夢を語るようでいながら、そこにある種の諦めを狐樹廊は嗅ぎとった。それは時間に対してだろうか、いや別の何かだろうか。
 先に特定の宗教を信じているわけでも、貶めるわけでもないと前置きし、笑いながらフューラーは応える。
「それは…大それたことを考えた科学者達の、人を作った神に対するひとつの勝利の形でもある、と思うからですよ」
 決して互いに答えを導き出せたわけはなく、納得ができたわけもない、突き詰めれば確実に傷つくなにかがあるとわかっていて、決定的な言葉だけを避けて手を引いただけだ。
「なるほど、意見の一つとして心に留め置きましょう」
「いえ、こちらこそ、言いにくいことをありがとうございます」
 またこの事について話をするかもしれないし、しないかもしれない。何にせよ、フューラーはその中で初心を思い出していた。
 朱音が戻って、狐樹廊が去り、疲れからかフューラーには眠気が訪れた。


 後日ついにヒパティアの訪問許可が降りた。まだ時間制限があるけれど、ようやく会うことができるのだ。
 だが何度もログインを拒まれて、ようやく諦めたように受け入れられ、フューラーは安堵した。
 知人達が気にかけてくれていたのだろう、何度もアクセスして諦めたログがあり、完璧に自閉しているのではと危惧していたのだ。
「やあピート、キズひとつないいい毛並みだね」
 AI猫のピートが珍しくも出迎え、彼の周りをぐるぐると回る。
 今はバックアップから修復が完了しているが、あの時電脳で彼、護民官ペトロニウスは、自分のフレームを壊しかけながらも自分を探してくれたらしい記憶がかろうじてある。
 電脳空間は、いつもの常春の風情を失い、寒々しい冬の様相を呈していた。ピートが寒いのか襟巻きのように巻きついて、一声鳴いた。
 館に踏み込んで、兄は妹を呼ばわったが、いくら呼んでも反応がなかった。
「ティア、いないの?」
 ピートはヒパティアのところに先導するように歩くのだが、時々方向を失ってうろつき、耳を伏せて途方にくれていた。
 声と足音が館のなかに虚ろに響く。感じたことのない虚無感がひたひたと押し寄せるような、なんだかいやな感じだった。
「うわっ!」
 途中で何かに蹴躓くが、こんなつまずくような障害が、館の中にあるはずもない。
 その障害は、厳重に何重にも圧縮されたデータだった。部屋の片隅に乱雑に積み上げたあげく、ガムテープなどでさらにがちがちと固めて転がしてあるようなもので、さすがに気に留めずにはおれない。
 間もなく制限時間だとアラームが鳴るが、異様に早いタイミングである。
 電脳内でのおかしな時間の過ぎ方も、この光景も、そのままヒパティアの精神の荒れように繋がるのだ。
 とりあえずそのデータのコピーを自分の端末に放り投げ、現実に戻ってデータを何とか展開したフューラーは、顔をしかめてため息を吐く事になる。
「…以前送ってもらった写真じゃないか…」
 少し前まで、彼女はそのデータ達を嬉しそうに眺め、手放しできれいだと褒めていたことを知っている。
 無邪気に、無心にできていたことが、今はできなくなったのだろう。恐怖か、いや罪悪感か何かのせいで。
 しかしデリートすることもできず、乱雑に放り出して目を反らそうとしているのだった。
 少しずつでも、彼女の心を解きほぐす手がかりを見つけていかねばと決意する。
 もっと何も知らなかった頃のことを、何もかもが手探りで、触れるものすべてが発見だったころを思い出した。
―ぼくは、そこらへんにどこにでもいる、ただ妹を心配して右往左往する間抜けな兄貴なんだから。


 兄が戻っていったことを知り、ヒパティアはまたあのつらい記憶を思い返している。
 動かない兄、反転した少女、ついに解析できなかった心乱す偏向のベクトル、この手で犯した過ちの恐ろしい手ごたえ。
 わたしは、かれとは違う『モノ』だということを、忘れてしまっていた。
 傷ついた電子の女王は、知ったからこその心細さを味わっている。

―あの導きの手を、わたしはとってはいけなかったのだ。

 だがしんしんと積みあがる諦めの中から、なおも諦めきれないものをふるい分ける術を見つけるその時まで、彼女の頬を濡らす涙が乾くことはない。

担当マスターより

▼担当マスター

比良沙衛

▼マスターコメント

長らくお待たせしてすみません、比良沙衛です。
本筋ではいつのまにか学長が学長じゃなくなったりしていますが、こちらでは一貫して学長だったころとして話を進めていますので、それについては一切関連はありません、あしからず。

本編については、前回撒いたあるヒントが今回回収されませんでしたので、敵AIを救うアクションはありましたが、成りませんでした。
こういうところこそ、MSの腕の見せ所になるんでしょうね、精進します…。
ヒパティアを止めようという人、フューラーを探そうという人が多く、ステージが広がったような気がします。
結局はヒパティアが手を下してしまう結果になり、憤る方もおられるでしょうが、実は私の中ではノーマルエンドといった所です。
全てが救われてめでたしハッピー、というものは、とても難しいと思います。

それでは、また次にお会いできましたら、よろしくお願い致します。
彼らの物語についてはもう少し後になると思いますが、またほんわかやれたらいいなと思っております。