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リアクション
●霧雨の中
数日後、霧雨が降った。
地球規模の異常気象が続いているため、雨の色は煤けて黒い。おそらくは有害物質も多量に含まれているのだろう。濃密な火山灰の散る中で歩いているようなものだ。それは死にかけたこの惑星が、延命のため苦い粉薬を口にして咳き込んでいるかのようだった。
雨の中惑うようにして、しばしばつまずき、転倒して生傷を増やしながら駆ける少女の姿があった。長い金髪は黒く濡れ、つやのある肌も泥にまみれていた。
――なんで!?
満月・オイフェウス(みつき・おいふぇうす)は逃亡者である。だが何から逃げているのか、正直なところ彼女は理解していない。
知識としてだけなら『知って』はいる。
この一週間、『パラミタ』のあちこちを満月は放浪した。そしてようやく、ここが自分のいるべき世界ではないことを学んだのだった。
満月の認識では2024年はこんな世界ではない。その『2024年』でも世界に緊張状態がないとはいわないが、もっと平和で安定していた。御神楽環菜は一度死んだが復帰を果たし、金鋭鋒をはじめとする複数の偉人がそれぞれ学校を組織を運営して、独自の教育と統治を実践していた。巨大な機械が空を飛び交い、科学と魔法のもたらした恩恵が、人類史上かつてないほどの繁栄をもたらしていた。
――私の知っている過去とは全然ちがう……!
2020年を境として、そこからこの世界は異様な歴史をたどったと推察された。
地上は滅亡、パラミタもクランジに支配され、灰色一色の異様な空京に人々が暮らしているとは……!
満月は未来人である。しかし満月が生まれた未来は『この世界』の延長線上にはないことは間違いないだろう。それだけは満月も確信できていた。
どういう過ちがあってこの世界を満月が訪れることになったのか、それは彼女自身も認知できない。深刻なまでの記憶の混乱が発生しており、真相について考えようとすると頭が割れそうに痛むのだ。
それに、ゆっくり考えている暇はなかった。
「逃げても無駄です。止まりなさい!」
追跡者……機晶姫夜霧 朔(よぎり・さく)に率いられた人間狩り部隊が追ってくる。部隊長の朔をのぞけば、あとはすべて機械人形、量産型クランジだった。
少女風の姿をしているものの、量産型は人間に似せる気はほとんどないらしくマネキンないしデッサン人形のような姿をしており、色は現在の空京さながらの灰色一色、口はあるも開かず、目もかたどられているが眼球はなく、一本の頭髪すらなかった。両腕に一本ずつの電磁鞭を仕込んでいるのが基本だが、飛び道具を内蔵するなど変種もあるようだ。
クランジの追跡装置の性能は、満月の未来テクノロジーより数段劣るもののようだ。これが彼女をこの日まで生かすことにつながった。つねに満月は彼らの一手先、二手先を読んで行動することができる。といっても、いつまでも逃げられるとは限らない。この世界にいるという『レジスタンス』と合流しなければ。
――それにしても……!
満月が身震いしたのは、追われている恐怖からだけではなかった。
人間狩り、という恐ろしい行為をおこなう部隊、自分を追ってくる相手がリーダーの名前がよりによって『朔』とは! 皮肉にもほどがあるではないか。
髪が、重い。黒い雨がしみ込んでしたたり落ちてくる。
「逃げても無駄です。止まりなさい!」
バイザー越しに視界を確保しようとするものの果たせず、夜霧朔は拡声マイクのスイッチを入れ、苛立たしげに声を張り上げた。
「前も名乗ったはずですね。私は、夜霧朔。私は、使命は必ず成し遂げます……諦めたほうが身のためですよ!」
直接的な視界だけではない。電波妨害物質を含んだ雨が吹き荒れる中では、レーダーがレーダーとして用をなさない。また逃げられるという不安が瞬時、朔の胸をかすめた。重傷を負って前線を退いたオミクロンにアピールするためにも、朔は絶対にあの逃亡者を捕らえたかった……。
――!
このとき、一瞬だが自分が、クランジそのものの思考をしていた気がして朔は己を恥じた。
人間狩りをすることが目的ではない。朔の目的は、その契約者である朝霧垂を一日でも生かすことではなかったか。
垂を生かす代償として、忠実に任務を果たしているだけではなかったか。
――こんなことをしていて垂が喜ぶわけがないなんてこと、誰よりも理解しているはずなのに……情けないですね、私。
しかし垂のためということを第一に考えるならば、非情にならねばならない。あの逃亡者……数日のあいだ自分を悩ませた正体不明の少女を、どうしても捕らえなければならない。なぜなら少女は、理由はまったく不明だがあきらかにオーバーテクノロジーと思わしきものの数々を所持していると考えられたからだ。これがレジスタンスに渡ったとしたら、相当に危険なことになる。
――垂のためにも、私は全力を出さなければならない、決して手を抜くことはできない……!
そのため本日、夜霧朔は大軍と呼べるほどの量産型を引き連れてきた。
総督府には難色を示された。オミクロンがあんな状態でなければ、彼女が意を唱えて決して許可は下りなかっただろう。エデンの兵力まで一部引っ張ってきたので、パイからは『成果が出なければ……覚悟なさい』という通信文まで叩きつけられていた。
それでも、構わない。
数で圧倒しよう。
朔は、標的はそれだけの価値がある存在だと確信していた。
「包囲しなさい!」
朔が号令を下したときである。
黒い霧のなかでもひときわ目立つ、ぱっという閃光が上がった。
バチバチと頭部より火花を吹きながら、量産型クランジは振り向いた。その振り向いた腕の、肘から下が叩き斬られる。
「さてと、状況を確認するとしようか」
この霧雨より黒い大剣の柄を握って、長身の青年は不敵な笑みを浮かべていた。彼の眼前で、頭部を突き刺され肘を落とされた量産型が、バランスを崩した独楽のようにくるりと半回転して横転した。
満月・オイフェウスは半ば、呆然としながら青年を見上げた。助かったことだけはわかるが状況が飲み込めない。彼は稲妻のように突然現れ、満月に追いつきかけた量産型を葬り去ったのである。
長い黒髪の青年だ。顔の半分は面頬に隠されている。黒い雨に汚れているが、その野性的な眼には汚れすら似合った。しかし彼に凶暴な雰囲気はなかった。むしろ、満月はその立ち姿に頼もしいものを感じた。
青年は剣を一度払って続けた。
「……絵に描いたような四面楚歌だな。ご覧の通りすっぽり包囲されちまってる」
しかし青年……ベルク・ウェルナート(べるく・うぇるなーと)の口調には、これを楽しむかのような余裕がにじんでいる。
「どうする、フレイ? この子を守りながら尻尾を巻いて撤退するか、それとも連中のほうにお引き取り願うか」
この程度簡単に覆せる、と言わんばかりのベルクだ。
「そうですね」
別の声がしたので満月は、心底肝を冷やして振り返った。
手を伸ばせば届く位置に、すらりとした少女が立っていた。
いつの間に!――そんな気配すら満月は感じなかったというのに。
その少女は忍者装束、長い襟巻きのようなもので顔を隠していた。衣装は紫が基調だが、手甲と膝から下は夕陽のような赤い色だ。
「ベルクさん、いつも申し上げておりますように、私に生存への執着はありませぬ。この霧雨……多勢に無勢の方程式はこの状況下では成り立たぬ状況、敵幹部の首級を上げるには良日かと」
フレンディス・ティラ(ふれんでぃす・てぃら)は、あまり抑揚のない口調でそう応じた。
「されど――」
しかしここで、フレンディスはかすかに言い淀んだ。
「こちらの方……あの夜霧朔が追っているこちらの女性を、巻き込むのはいささか不憫」
「満月・オイフェウスと言います……!」
やっと発言を許された気になって、満月は声に力を込めた。
「私には、この世界で会いたい人たちがいます……ですが、お二人に命を救われたのも事実です。お二人の決定を尊重したいと思います」
満月は懐から、『銃閃舞闘』と名づけた銃を抜いて見せた。
「私のことならお気にならさず……自分の身は……これで守りますから!」
受け入れること、それが満月が、このパラミタで放浪することによって身につけたアティテュードだった。運命を受け入れて向き合う、そう決めていなければ、心が折れてしまいそうだった。
――満月さん、とおっしゃいましたか。この方の眼には嘘がない。
百年語り合っても理解し合えない相手がいる。されど、数秒ともにあるだけで理解し合える相手もいる。世の中とはそういうものであり、このときフレンディスにとって、満月とは後者であった。
「わかりました。私はフレンディス・ティラと申します。敵幹部……あの夜霧朔を討つほうを優先します」
このときのフレンディスの意志を物質にするならば、硬く重い鉄塊になるだろうか。フレンディスは頷いて身を低くした。量産型が迫っている……あらゆる方向から!
「俺はベルク・ウェルナートだ。ま、色々あってな、殺伐としたこの世の中でなんとか生きている。今日も、なんとか生き延びるつもりだ。だからこう言い残しとく」
フレンディスの姿が消えた。ベルクも、彼女を負って姿を消した。
「また会おう――!」
ベルクの言葉の余韻がまだ満月の頭から消えぬうち、もうその遠く前方では、剣が金属を叩き斬る音が聞こえはじめていた。
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