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【DarkAge】エデンの贄

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【DarkAge】エデンの贄
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リアクション


●それは、咬むように

 ふたたび雨足を増した黒い霧雨、厚いカーテンのような雨にそぼ濡れながら、漆髪 月夜(うるしがみ・つくよ)は隠れ家に戻った。
 すでに夜。だが、この雨模様では昼も夜も大差ない。ただ、黒いだけだ。
 足が棒になったように感じる。髪も衣服も濡れて冷たく、重く、自分が死体になったような気がした。
 しかし月夜は自分のことよりも、同行者のことを考えていた。
「刀真――」
 振り返って呼びかける。
 されど樹月 刀真(きづき・とうま)は黙ったままで、自室に入るや武装を解き、二刀、長銃、それぞれ壁に立てかけて、布を敷いただけの石床にごろりと横になった。
 屋根があるから眠る――そう言っているように見えた。実際は、月夜に返事すらしなかったが。
 彼は顔を壁に向けていた。月夜の場所からは、刀真の背中しか見えない。
 戸を閉めてくれ、とすら刀真は言わなかったが、月夜はかすかな溜息とともにドアを閉ざした。
「お休み、刀真」
 ドアが閉まりきる直前、数センチの隙間に向け、そっと彼女は声をかけた。
 眠っているのかいないのか、刀真はやはり、なにも返さない。
 月夜はしばし、両手で惹いたドアノブを握ったまま立ちつくしていた。
 樹月刀真がこんな風になったのはいつからだろうか。
 ずっとこうだったわけではない。ある日突然、こうなったわけでもない。
 徐々に無口に、戦うことのほかに関心をもたなくなっていったのだ。
 ただ月夜は、そのきっかけだけは理解していた。
 御神楽環菜の、死。
 ――四年前、あの人を護れなかったあの日から、刀真は壊れはじめた。
 白い小さな蝶の羽ばたきのように、月夜は小刻みに肩を震わせていた。
 空京はクランジ戦争以前とはまるで姿を変えてしまっている。異様に清潔で灰色に満ちた街として知られるが、それはあくまで『現在の』空京に限った話だ。都市としての規模は激しく縮小していた。
 現在月夜たちが隠れ家にしているのは、かつては空京の版図だった廃墟の一角だ。中規模のアパートメントの一室で、クランジ戦争の洗礼を受けてなお、窓の一枚も割れていないという希有な部屋だった。これまでクランジに追われ何度も拠点を変えてきた。ここも、そう長くはいられないだろう。
 ――刀真は……もう。
 涙が残っているのであれば声を上げて泣きたかった。しかし月夜の胸にはもう、流す涙など残ってはいない。
 ――もう、人形のよう。毎日毎日敵を殺すためだけに戦って、力を求めて……。
 この四年、彼女は刀真のかたわらを離れず、声をかけ続けた。
 環菜を喪って以後、刀真は徐々に人間性をなくしていった。自棄ともいえる戦い方を好むようになり、ほとんど無計画にクランジの追っ手と戦い、逃亡し、ときとして逆襲してきた。
 それでもかつては、ルカルカ・ルーのレジスタンスに加盟していたこともある。しかしただ死地を求めるような刀真の姿勢は彼らの求めるものと隔たるところがあまりにも大きかった。いつしか刀真は、脱退するとも言わずレジスタンスとは別行動を取るようになった。
 もう彼は死んだものと諦め、自分も無感動な人格になれたら――そう願ったことは一度や二度ではない。それでも月夜はパートナーとして刀真を支え続けた。
 今日もまた、戦うためだけの戦いを繰り広げ、クランジ量産型の数を減らすというだけの戦果を上げて帰ってきたのだ。幸か不幸かイプシロンたちは刀真を脅威とみなしていないらしい。ために、追ってくる敵は多くはなかった。
 ――刀真、あなたはそれで満足なの? それで、命を投げ捨ててしまっていいの……?

 刀真は薄目を開けて壁を眺めていた。
 体を丸めて、胎児のような姿勢で眠りの訪れを待っている。
 あれから四年経つ。あの日以来彼に、安らかな眠りはやってきていない。薄もやのなかを歩むような意識と無意識の境界を、ただ眠りの代用品としているだけだった。
 この部屋は建造途中で放置されたものらしい。ゆえに壁は、塗られていなかった。寒々としたコンクリートの打ちっ放しである。じっと見つめていても、模様のひとつすら浮かんでこなかった。
 ――俺は彼女のそばにいたのに、守れなかった。
 何千回繰り返したかわからないほど繰り返した後悔が、今夜も彼を苛んでいた。
 ――なら、俺は守りたい人のそばにいても守ることができないんだろう。
 無力。無力。無力だ。
 無力感がその柔らかい手で、自分の首を絞めてくる感覚を刀真は味わっていた。
 ――俺は邪魔する全てを剣で斬り払ってきた、なら俺は邪魔な敵を斬る事はできるんだろう。
 生気の失せた刀真の眼は、こう考えるときだけ鈍い光を帯びる。
 それは殺戮、破壊への渇望だ。
 ――だから俺は全ての敵を斬る、全ての敵を殺せば何にも脅かされないから。
 剣が一本じゃ足りない、二本使おう。
 剣だけだと遠くの敵を殺せない、銃も使おう。
 もっと早く、沢山、確実に殺さすために闇の力を使おう。
 ぞわぞわと不快な、それでいてどこか甘美な、黒々とした感覚が刀真の心に湧いてきた。無力感の真綿とちがって、それは傷口に染みる毒液のように強い痛みを伴うものだった。
 ――殺すために剣を振るい、殺すために銃を撃ち、殺すために闇の力を使って邪魔するものをすべて……殺す。
 刀真が斬ってきたのはクランジだけではない。支配層に回った機晶姫、あるいはその契約者(二級市民と呼ばれる者)、そのいずれも血祭りに上げてきた。クランジ戦争以前からの顔見知りであろうと容赦しなかった。むしろ『裏切り者』にたいしては、必要以上に徹底して死を与えてきた。
 ――それでも敵はなくならない、だからまだ殺さないと、もっと殺さないと……。
 頭が真っ白になってくる。
 ――殺さないとどうなるんだっけ……?
 刀真の問いに答は出なかった。
 このときようやく、
 ――誰だ?
 刀真は身を起こした。手に、感触があった。
「刀真……!」
 いつの間にか部屋に、『誰か』が入ってきていた。 
 その『誰か』は刀真の知る者だった。
 ――いつもそばにいる女か……。
 閉じていた扉を開け、月夜が入ってきたのだった。彼女は、刀真の前に両膝をついて、彼の右手を両の手で握っていた。
 だが刀真が感じる言葉は同じだ。
 ――誰だ?
 刀真はすでに、月夜の名前を忘れてしまっていた。それどころか容貌さえ、思い出すことはなかった。ただ、そばにいる女、とだけ記憶していた。
 その、そばにいる女が、彼に。
 キスをした。
 咬むようなキス。彼の後頭部の髪をつかんで。
 ――何を?
 刀真は唇の柔らかな感触と湿り気こそ感じたが、心は動かず、灰色の眼で改めて彼女を見た。
 唇が離れた。
 いつの間にか薄明かりがもたらされていた。彼女が、持ってきたものだろう。
「見て。刀真、見て。私を……私だけを……」
 ほの白い灯の下、月夜は一糸まとわぬ姿だった。
 あちこちに戦闘の傷痕がある。
 それでも、呼吸とともに上下する白い裸身は、心が死んだようになった刀真の目にすら、まぶしく映るものがあった。
「今夜は、決意してきた。私、あなたを愛してる。あなたの求めているものが私でないことは知ってる。でも……想いを受け止めることだけなら……できるから」
 月夜は刀真に覆い被さった。
 しかし直後、彼女を床に組み敷いていたのは刀真だった。
「……殺す」
 この日初めて、刀真が口にした言葉だった。
「……殺して」
 月夜は目を閉じ、刀真の荒々しい衝動に身を任せた。
「……愛してる、私を見て、私に触れて私を感じて、私の所に帰ってきて……刀真……刀真!」
 息も絶え絶えに月夜は囁き続ける。彼の裸の背に腕を回し、彼の耳を噛むようにして。
 それは愛を交わすというよりは、獣が得物を貪り喰らう光景に似ていた。

 封印の巫女 白花(ふういんのみこ・びゃっか)が戻ったのは、それよりさらに後、既に明け方近い頃だった。
 彼女はそれまで、刀真、月夜とは別行動を取っていたのである。戻ってきたのは数日ぶりのことだった。
 ――お二人が無事であればよいのですが……。
 白花も、刀真の変貌には胸を痛めていた。しかし彼女はそれ以上に、そんな刀真に寄り添う月夜のことを心配していた。
 自分に目もくれぬ男性を慕い続けるという苦しみがどれほどのものか、白花にはわからない。ただ、守護天使である彼女は、そうしたいたたまれぬ男女をこれまで数限りなく見ていた。そして知っていた。そうした関係が例外なく、悲劇に終わってきたことを。
 自室の薄明かりをつけたところで、部屋の戸をノックする音が聞こえた。
「起こしてしまいましたか……?」
 開けると、そこには月夜の姿があった。
 髪が乱れている。顔色が蒼白だ。それに、隠しきれぬ血の匂い……。
「刀真に、抱かれたの」
 後ろ手にドアを閉めると、月夜はそれだけ言って簡素な椅子に腰を下ろした。
「それは……!」
 どう声をかけるべきか白花はわからなかった。自分の記憶にある限り、二人がこれまで結ばれたことはなかったはずだ。刀真はあの女性……御神楽環菜……のことしか見ていなかった。
「私から誘った……刀真を、彼の心をつなぎ止めておくにはこの方法しか……」
 顔を覆う月夜に駆け寄り、白花は彼女の肩を抱き寄せた。
「でも彼……一度も、私の名前を呼んでくれなかった……わかってたけど、そうなるって、わかってたけれど……」
「もう、話さなくて結構です……そのことは……」
 今話すべきなのだろうか、白花は迷った。
 考えて、今はやめておくことにした。
 探索が成功したと、報告するつもりだったのだ。
 エデンの囚人(とらわれびと)を拘束する能力制御プレート、これを無効化する方法が判明したのだと。