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第1章 それぞれのクリスマス


幸福と不安


 楽しい日はどうしてあっという間に過ぎていくのだろう。
 時計は午後8時を周ろうとしている。一日は24時間しかないのだから、あと6時間で日が変わる。単純な引き算だ。
 朝から時計塔を見て大運河をゴンドラで観光し、行ってみたいと妻が言っていた店で家具や食器などを探し、露店をひやかし、焼き栗を買い食いし、似顔絵描きに立ち止まり――そんなことをしていたらもう夜になっていた。
 ジェイコブ・バウアー(じぇいこぶ・ばうあー)は妻フィリシア・バウアー(ふぃりしあ・ばうあー)を、普段以上に周囲には気を配って護衛任務のように人混みから守りながら歩いていたが、その妻はそれほど気にした様子もない。ジェイコブはもしものことがあったら、と気が気でないのに。
 ……それも、変だった。
 大体、クリスマス休暇だからといって、身重の妻は年明けにも出産予定で、お腹はだいぶ大きくなっていたのだ。ジェイコブは家で大人しくしている方がいいんじゃないかと思ったのだが、フィリシアが「少しでもパパとママが仲良くしているところを、おなかの赤ちゃんに教えてあげたい」と言ってクリスマスデートをすることになったのだった。
 フィリシアは、気にするどころか、普段は大人しめなのにやたらにはしゃぎ気味だった。買い物の時もそうだし、休憩に入ったカフェでもスイーツを食べまくったし……。
「おいおい、はしゃぎすぎじゃないのか?」
「そうですか?」
 勿論。恐らくこれが二人で行く最後の旅行、最後の二人きりのデートになる。
 年明けには息子か娘――二人は、あえて知らないでおいた――が生まれると、その日を境に「二人の日々」から「三人の日々」になる。
 最後だからはしゃいでいるのだろうか、それは部分的には正しいだろうとも思うがそれだけではないような気がした。が、何も言えない。
 二人はそのまま、八時きっかりに予約しておいた高級レストランに到着すると、個室でクリスマスディナーを楽しんだ。フィリシアは妊娠中ということでノンアルコールだったが、気にせず飽きもせず、食事の味から景色から、食器やら最近のできごとやら、普段しないような話題まで次から次へとぽんぽんと話していく。
 しかしクリスマスのスペシャルデザートを食べ、最後に食後の飲み物が運ばれてくると、フィリシアの口数はめっきり少なくなった。
(やはりな)
 フィリシアの表情に影が差してきたのにジェイコブは気付いた。
(フィリシアの不安は、妊娠している自分の不安定感……より正確に言えば、将来への不安にあるんじゃないか?)
「話をしたら、少しは楽になるんじゃないか?」
 彼は、彼なりにさりげなく思えるような訊ね方をした。
 フィリシアはカップの水面から顔を上げる。はっとしたような表情を一瞬みせると、目を伏せてゆっくりと頷いた。
「出産の日が近付いて、お腹の子が順調に育っていくのが判るにつれて、温かな幸せが自分の内側を満たしていく一方で、幽かな不安が募ってくるのも感じますわ」
「不安……と、いうのは?」
「それは、子供を産んだ後、自分は果たして、この子の母親としてうまくやっていけるかどうか……という不安。生まれてきた子供を無事に育て上げられるのかという不安、それよりも、ちゃんと子供をこの世に送り出せるのか、という……。単なる杞憂なのかもしれないけれど……」
 元々慎重な性格のフィリシアだ、色々と考えてしまうのだろう。
「でも、子供を産む事は途方もない重い責任を伴うということ……自分はそこまで強かった? と思ってしまって……」
 陽気に振る待っていたのは、不安を紛らわす為だったのかもしれない、とフィリシアは続ける。
「母親になるのに、こんなに不安でいいのかしら……」
 ジェイコブはコーヒーのカップを置くと、真っ直ぐに妻を見る。
「俺もはっきり言って不安だよ。……互いに初めてのことだ。フィルが母親になるのも、俺が父親になるのも。別に開き直れとかいうんじゃないが、『考えるな、感じろ』っていうだろ?
 母親として今の幸せな気持ちを感じ、これからの幸せを願う。俺も頼りないけど、この子と三人でやっていくだけだろ? でないと、子供に笑われるぜ」
 ジェイコブが笑う。それは不慣れなせいか少々ぎこちなかったが、フィリシアは夫の優しさに応えて、微かに笑みを見せるのだった。