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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

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【蒼フロ3周年記念】蒼空・零 ~1946年~

リアクション

 
 到着したときと今とでは、村雲庚の状態は異なる。
 少し空腹になった。少し、身なりが汚れた。
 それだけだ。
 いまなお能力(ちから)は戻らない。契約者として本来の力があれば、この時代でも稼ぐ方法はあった。資金を得て、あとは決戦の日まで高いびきしていられた。
 ところが、ご覧の通りだ。
 ほとんど一般人と変わらない運動能力の一方で、庚がこの時代に関して有する知識は限りなくゼロに近いものだった。他の契約者と会うことすらなかった。だからひたすら彼は歩いた。『この時代に来た超人』の目ではなく、『この時代に来てしまった一般人』の目で1946年東京を味わった。不審者呼ばわりされて逃げ、小銭目当てのチンピラと全力でやりあい、傷病者、孤児など、戦争が終わっても拭いきれぬ悲惨さを目の当たりにした。
 ともかく、と、現在、庚は道を急いでる。
 もうじき渋谷で決戦が幕を開ける。渋谷警察署に向かうトラックと、そこで運搬されている筋者たちは彼も見た。だが彼はあえてその方角ではなく、石原肥満の本拠地があるとされる場所へと足を向けていた。自分が新竜組なら、雑魚中心の大軍で陽動をかけ、本命を石原の本拠地にぶつけるだろうから。
 どれくら歩いたか、渋谷であることを忘れるような廃墟立ち並ぶ地帯にさしかかったとき、
「……ッ!!」
 強烈な殺気を感じた。こちらに油断があれば、頭から生皮を剥がしてやろうかとでもいうような。
 伏兵があるとすれば、この辺りだろうという危惧はあった。庚のように石原の元に参じる兵隊を、闇討ちにするには絶好のポイントだ。
 だが殺気を感じるまで、気を抜いていた自分に庚は腹が立った。本来の自分なら殺気の方向もわかっただろう。それがまだわからない。それに、驚いて声まで洩らしてしまったではないか。
 物陰から黒い人影が跳びだした。攻撃が来た。トレンチコートに隠し持ったサバイバルナイフを抜き、庚はこれを迎え撃った。
 火花が、散った。
 金属と金属がぶつかり乾いた音を立てた。
「ほォ……やるじゃねぇか兄ちゃん……」
 そんな声がした。残忍そうな目をした組員風の男が、かがみこむほどに背を丸めて立っていた。その手には鋭いナイフがある(この男は実際に新竜組の構成員で西山という名だが、庚はそのことを知らない)。
「殺し甲斐があるってもんだぜ」
 それにしても奇妙な口調だ。抑揚がまるでない上に声の調子がうわずっている。台詞はこの手のものとして『真っ当』でありむしろ『平凡』といっていいほどのものなのだが、その発言が妙なのだ。インテグラルに力を付与され、操られた人間と見て間違いはないだろう。
 戦いを再開したのはどちらからだったろう。
 壮絶なまでの斬り合いになる。力と力が真っ正面からぶつかるという意味では『打ち合い』のほうが適切な呼び名かもしれない。西山が押す、庚が押し返す。庚が叩きつける、西山がかわす。閃く白刃の軌跡が、色のない花のようだ。
 げっ、というような声を西山が上げた。バックステップするもつまずき、尻もちをついた格好になったのだ。庚はこの機を逃さない。相手に一足飛びで急迫、ナイフを突き立てるべく振り上げた――のだが。
「ッ!?」
 ふたたび、庚の唇より声が漏れていた。
 ――暗殺者は……二人、いた……。
 ナイフ使いばかり警戒したのが仇になったようだ。
 胸部に、火にくべた焼き串を押し当てられたような痛みを庚は感じた。
 落とした視線の先、ぽたぽたと、朱い雫が地面に落ちて血溜まりを作っているのを彼は見た。自分の血だ。この痛みは銃創だろう。急所こそそれたが、超人的肉体の再生能力がないだけに、時間をあければこれが致命傷になってもおかしくない。
 こいつのパートナー、つまり狙撃手は、恐らく正面の廃ビルだろう。(狙撃手の名は沢口だ)
「ざまあないぜ」
 やはり平板な口調。西山の口の端が、糸で引いているかのように斜め上に吊り上がっていた。
 西山はナイフの柄に手を添えた。腰だめの姿勢で飛び込む。刃は柔らかな肉に根本まで突き刺さる……はずだった。
 切っ先が止まっていた。ぴくりとも動かない。
「なんだよ……なんなんだよテメェは!」
 庚が、己に向けられた西山の刃を握りしめていたから。当然のように大量の血が掌からあふれるが、今の庚にそんなものを構う必要はない。
「フ、フフ……ハハハハ!! ……なんだ……簡単な事じゃねぇか」
 狂気の発作のような嗤いだ。かかっていた黒雲が、吹き飛んだような思いがあった。
 パラミタそのものがどうのとかじゃない――庚の頭に浮かんだ思考を、言葉にするとこうなる。
 ここで石原が死ねば友人との記憶が、ハルとヒノエを救った事実が、文字通り『なかったこと』になるだろう。
 そんな事をしようとするこいつらを許せるか?
 否、許せる訳がない。
「がっ」轢き殺されたカエルのような声を西山は上げた。
 庚は左手を放さぬまま、右手で西山の喉をつかんでいた。
「……爆ぜろ」
 零距離からのカタクリズム。
 サイコキネシスの嵐が、サンドバッグよろしく西山を滅多打ちにする。
 戦う理由なんて――もう庚は相手を見ていない――実にシンプルなものだ。
 腹の底からこみ上げてくるこの感情に従えばいい。
 それは、怒りだ。
 ボロ布のようになった西山を庚は投げ捨てた。まだ西山には息がある。こんなやつ、殺すにも値しない。
「ひっ……!?」
 廃ビルで狙撃銃を構えていた沢口は、突然のことに恐慌を来した。
 沢口は知ったのだ。庚の腹部の傷も、手の傷もとうに塞がっていることを。
 乱射気味に狙撃を行うも、無駄に銃弾をバラ撒くだけに終わった。稲妻のように庚が迫っている。逃げようと背を向けたとき、一跳びに跳んだ庚は、沢口の背に追いついていた。
「来るな……来るなぁ!」
 振り向きざまに沢口は引き金を引いた。弾丸はまっすぐに庚の額に向けて飛んだ。
 瞬間、沢口は安堵したかもしれない。だがそれはほんのわずかなことだ。
 庚の念動力は、銃弾をいとも簡単に弾き飛ばしていたのである。
 インテグラルに操られる沢口に、どこまでの判断力があるかは正確にはわからない。ただこのとき、西山同様に庚カクタリズムで痛めつけられる自分の姿は想像できたかもしれない。
 不幸にして、それは現実となった。