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【4周年SP】初夏の一日

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【4周年SP】初夏の一日

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38.向日葵の咲く方に


 初夏のヴァイシャリー。
 白い石畳を、一人の女性が駆け抜けていく。タンタンと小気味よく刻むリズムは、ほんの数年前、少女だった時から変わっていない。
 溌剌とした笑顔、初夏の優しい太陽にきらめくヴァイシャリー湖の流れを青い瞳に映して、前を見ていた。いつだって、彼女は前を向いていた。
 変わったことと言えば、その片手が繋がれていることくらいだろうか。
 左手で彼の手を引っ張り、右手で前方を指さし、
「見てみて博季くん! 大運河だよ!」
 ――不意打ちされたみたいに。
 運河より、夫を振り返ったリンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)の笑顔に博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)の心臓が跳ねる。
 だいぶ慣れたつもりだったのだが、今日が特別な日、だからだろうか。
「……うん、綺麗だね。でもリンネさんの方がもっと綺麗ですよ」
「やだ、何言ってるのかなぁもう、恥ずかしいよ」
 照れたように頬をうっすら赤らめるリンネも可愛らしい。ぷい、と正面に向き直ると、大運河に面した<はばたき広場>に入っていった。
 リンネが急いでいたのには理由がある。はばたき広場名物の時計塔――カチリと針が動いて時刻が十一時を告げると、シンプルな文字盤の上に施された彫刻の扉がゆっくりと開いて、鎧を着込み馬にまたがった騎士達が現れ、くるくるとメリーゴーラウンドのように回り始めたのだ。
「ふぅ、間に合って良かったね。じゃあ今度はクレープ食べて、あれ乗ろ!」
 二人は出ていた屋台でクレープをひとつ買うと、分け合って食べながら、適当に土産物を見て回った。
 その後水上バスに乗り込んだ。博季はヴァイシャリー商工会議所と生徒有志のガイドブックを広げると、次の目的地を確かめる。
 沢山の付箋に書き込み。ヴァイシャリーが迷いやすい街、ということを差し引いても大分下調べに気合が入っていたようだ。
 風光明媚なヴァイシャリーの街を仕事を忘れて、家計も気にせず……奮発してヴァイシャリーの一日デートしよう! と言い出したのは博季だ。
 ……それも当然、今日はアシュリング夫妻の結婚記念日だった。
 計画を立てて良かった、と博季は思う。
 リンネは目を輝かせて水上バスから見える街並みに心奪われているようだった。それだけでも彼には十分すぎるほどの満足だったが、指さしたり、あれ見てこれ見て、と振り返る表情が――振り返ってくれる彼女が嬉しかった。
 水上バスを降り、大きな道でウィンドーショッピングをして、小路に入って知る人ぞ知る店を訪れたり、ちょっとした景色を見て歩く。古い建物が多いからそれだけで絵になるが、住人がちょっとした庭先で育てている花や、窓辺に整えている植木鉢の並びも楽しかった。
 奮発した高級レストランで昼食を終えて、デパートでショッピングを楽しんでいた時だ。
「わぁ、これも可愛いね。あっちも綺麗」
 普段、魔法使いらしいローブや動きやすい服装を好むリンネにとって、デパートの色とりどりのシルクやサテン、レースにリボンの世界は新鮮だったようだ。
 彼女だって女の子なのだ、小さい頃にお姫様になってドレスを着てみたいという夢を一度くらいは抱いたことがある。
「こんなお洋服着てみたいなぁ……」
 でも無理かも、なんて思いかけた時だった。
 お花畑華やかな布地の中から、博季は一枚のドレスを取り出した。
「リンネさんにぴったりだと思うんです」
 リンネの目の前に、薄い向日葵色のドレスがはらりと広がった。
 博季が一目でリンネに似合うと思ったように、リンネ自身も自分に似合うだろう、と感じた。
 素敵なシルエットに滑らかな布地。着てみたいな、と彼女は思ったが、ここはヴァイシャリーのデパートで、彼女たちの他にちらほら見えるお客さんは、上品なワンピース姿のお嬢様。
「いくら、かな?」
 思わず手にとって、値札を確認してしまいそうになるのは、生い立ちが――アシュリング家の実家が落ちぶれていたせいか。
「……今日は気にしない、って伝えたはずですよ」
 博季は遠慮がちにもじもじするリンネに微笑むと、店員に試着を頼んだ。
 リンネが試着室からおずおず顔をのぞかせると、よく似合ってますよ、と博季は頷いて、
「ああ、でも足元とバランスが悪いかな……」
「でしたらこちらのパンプスか、サンダルはいかがでしょうか」
「お願いします。リンネさんはどっちがいい?」
「え? えー……うう、あの、じゃあサンダルの方がいいかな、歩きやすいから」
 博季があまりにもあっさりとことを進めてしまうので、リンネはもう、従うしかなかった。
 そうして向日葵色のドレスと軽いサンダルに着替えたリンネを見て、博季は満足そうに頷く。
「鏡を見てください、リンネさん」
 リンネは姿見をみて、目を丸くした。想像よりも、ドレスはよく似合っていた。自分でそう思うくらいなのだから。
 膝丈のドレスは、快活なリンネにも動きやすかった。
「お友達の多いリンネさんだから、これから着ていくこともあるかな、って」
「……このまま着てってもいいかな? せっかくプレゼントしてくれたんだもん、一番最初に歩くのは、博季くんがいいもん」
 そんなリンネを可愛いと思ったのだろう、店員さんが手を口に当てて、くすくすと笑う。
「可愛らしい方ですね。もしかして、新婚さんですか?」
「い、いえ……新婚じゃなくて……」
 慌てて手を振った博季だったが、笑顔で赤くなりながら、思い直して。
「……はい。ずっと新婚なんです、僕たち」
 会計を済ませて、二人で手を繋いでデパートを出る。
「誰より元気で、かわいらしくて、綺麗なリンネさん。改めて、僕と結婚してくれてありがとう。いつも、笑っていてくれてありがとう。僕に笑顔をくれてありがとう。
 リンネさんと出会ってからの時間は、本当に素敵なことばかり。大変だったこともあったけど、今までの人生の中で、一番充実していたと思います。
 太陽みたいで、暖かいリンネさん。いつも元気で、かわいらしくて、まぶしいリンネさん。
 大好きなリンネさん。よく、似合ってますよ」


 それから二人は散策に戻った。ドレスを着ているリンネは一層可愛くて、博季にはさっきまでの景色も同じ道も、違うように見えた。
 そのうち自然と緑を求めて、ヴァイシャリーの郊外に出た時のことだ。リンネは少し早く咲き始めたひまわり畑を見つけるや否や、
「わぁ、本物の向日葵だよ! もう咲いてるんだねっ」
 ――駆け出した。
「待ってください、リンネさん」
「えへへ、早くおいでよ!」
 手を広げて駆け出すリンネは、楽しそうにドレスの裾をひらめかせ、時折振り返っては笑い声をあげる。
 その笑顔は大輪の花のようで、向日葵ドレスのリンネは、本当に向日葵になってしまったみたいだった。
 博季はそんな彼女を追いかけて、リンネは逃げて、追いかけて……ちょっと本気を出して、捕まえる。
「……きゃっ!」
 背後から抱きすくめられたリンネは嬉しそうな悲鳴をあげる。博季はその耳に優しく囁く。
「愛してます。リンネさん。一緒にいれば一緒にいるほど、愛おしくなるリンネさん。愛しています。リンネさん。ずっとずっと、こうしていたいなぁ、なんて」
「やだ、博季くんったら……」
 身じろぎするリンネの体を、愛おしそうに抱きしめる。
「リンネさんが笑っていてくれてれば、それだけで安心できる。リンネさんが頑張ろうっていってくれたら、それだけでいくらでも頑張れる。リンネさんが愛してくれるのなら、他に何もいらない。素敵な、素敵な僕のお嫁さん」
「……うう、恥ずかしいよ」
「……実はね、向日葵みたいな笑顔の、元気な夏の花みたいなリンネさんにドレスが似合うって思ったけど……。リンネさんは僕には眩しくて……本当は太陽なんじゃないかって思ったんだ。
 どっちかっていうと。僕が向日葵かも知れないなぁ……なんて思ったりして」
 太陽は全てを明るく照らしてくれる。太陽がなければ、花は生きていけない。
 そして向日葵の名が、その名の通り太陽の方を向いて咲くように。
「僕はずっとずっとリンネさんだけを見ていますから……」
 リンネは頬を染めると、博季の顔を見上げた。彼の表情も口調も、いつしかとても優しく甘いものになっていて……。
「……これからもずっと一緒だよ? 来年の結婚記念日も、再来年も、その先も……」
「はい。ずっとずっと、一緒にいましょうね」
 二人は見つめ合い、どちらからともなく顔を寄せると、唇を重ねた。