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東カナンへ行こう! 4

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東カナンへ行こう! 4
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リアクション

 赤嶺 霜月(あかみね・そうげつ)は、カナヅチだ。
 どんな強敵を前にしようとひるむことなく立ち向かってきた霜月だったが、面前に広がる光景には純粋に恐怖を感じずにいられない。
 コップ1杯程度なら何も感じない。
 浴槽に満ちた水でも平気だ。
 しかしプール、湖、海といった場となると……。
 みんな、なぜ平気なんだろう? 霜月は不思議でならない。だって、足元に何があるかも分からない場所へ無防備に素足で入って行くなんて、危険すぎるではないか。もし毒トゲを持つ生物とかが湖底にいて、知らずにそれを踏むなりしてしまったら――
「いつまで固まってるのよ」
 湖に向かい立ったきり、金縛りにあったようにまんじりともしないでいる夫の姿に、クコ・赤嶺(くこ・あかみね)があきれ声を発した。霜月はそろそろと――まるでそうしないとどこかで今しも襲いかかろうと虎視眈々狙っている怪物を刺激してしまうかのように――振り返る。
 緑茂るオアシスの木々を背景に白砂のビーチに立つ黒のビキニを着たクコの姿はとても刺激的で、男たちの目を奪われずにいられないほど魅力的だ。しかしこのときばかりは、そんなクコの姿を見ても目は喜びに輝くことはなく、表情は精彩を欠いていた。
「だって、クコ――」
「「だって」じゃないわ」
 霜月の始めた言い訳を、さわり程度も聞くことなくクコは一蹴する。
「あれを見て」
 クコが指さした先にいたのは2人の娘赤嶺 深優(あかみね・みゆ)セテカ・タイフォン(せてか・たいふぉん)だった。ズボンをひざ上までまくり上げたセテカはひざ近くまで水に入り、浮き輪をつけた深優と水のかけ合いっこをしている。かわいらしい青いワンピースの胸元にクコが縫いつけた、迷子対策の鈴をチリンチリン鳴らしながらモミジのような小さな両手でパシャパシャ水を飛ばしてくる深優に、お返しとばかりにセテカが軽く指先ですくった水をパシャッとかける。それを顔で受けて、深優は「きゃーーーっ」と悲鳴をあげた。もちろん怒っているのではなく、その反対。このやりとりを心から楽しんでいる笑顔だ。負けまいと、さらにセテカに向かって水を飛ばす。それをセテカは声を出して笑いながら手で防いでいた。
「楽しそうですね」
 2人を見つめる霜月の顔にも自然と笑みが浮かぶ。まるで2人の楽しさが空気伝染したように、見ているだけで霜月の胸にも高揚した気持ちが満ちてくるのが分かる。
 水辺は苦手だったが、愛する娘のあの笑顔が見えただけで、ここに来てよかったと思えた。
「前に東カナンを訪れたときはセテカさんに会っても話をするどころではなくて、すっかり機嫌を損ねていましたから」
「ええそうね。そのことについては私も同感よ。でもあなたに見てほしいのは、そこじゃないわ」
 クコの少し不服そうな言葉に「え?」となって、再び彼女の方を向く。クコは腕組みをして霜月を見ていた。
「あんなに小さな深優だって、水を恐れていないのよ? 父親であるあなたが水を怖がっていて、どうするの」
「それは……でも――」
 霜月は言葉を続けられず、視線を足元へ落とし唇を噛んだ。
 クコの言葉は正しい。これではいけないことは自分でも承知しているだけに、なおさら胸にこたえた。しかし無意識にまで深く作用するほどの恐怖を克服するのは難しい。水辺を見るだけで足がすくむ。純粋な恐怖で体が震える。無力感が広がって力を奪っていく。それはこういった場に直面したときに起きる条件反射で、霜月にもどうしようもなかった。しようと思ってしているわけではないのだから。
「もちろん私だって、一朝一夕にどうにかできるものじゃないのは分かってるわ。でもね。考えてみてちょうだい。もし将来海か湖かで深優に何かあったとき、水が怖いから助けられませんでした、と言い訳するつもり?」
 そこまで言って、クコはおもむろに自分の足にたてかけていた浮き輪を持ち上げ、霜月の首にひっかけるとぐいっと引っ張った。
「深優と同じ、浮き輪をあげる。これであの子と条件は同じね。負けてはいられないわよ、お父さん ♪ 」
 鼻先が触れ合うくらいの距離で、茶目っ気たっぷりに言う。そして腕を取ると、有無を言わせない勢いと力で、やおら湖に向かって引っ立てた。
「ちょ!? ま、待ってくださいクコ! 分かります、分かりますけど、心の準備というものが――」
「そんなもの、できるの待ってたら日が暮れちゃうわよ! こういうのはね、当たって砕けろ、実践あるのみ ♪ 」
「って………………うわーーーーーーーーっ!!!
 どん! と突き飛ばされ、霜月は背中から湖水へと倒れ込んでいく。あわてて捕まろうと手を伸ばしたが、そうくると思っていたとばかりにクコはひょいと避けた。
 もはや水に落ちるしかないという、この恐怖を前に、何をとりつくろうこともできない。
 これまで聞いたこともない声で、恐怖の悲鳴が高くあがる。つられてそちらを見た人たちが見た光景は、どぽーーーーーーんと重い物が水面にぶつかるような音とともに飛び散った、派手な水しぶきだった。
「おとーさん?」
 ビーチへ上がり、拾った棒で濡れた砂の上にお絵かきを始めていた深優が振り返り、不思議そうな目をして首を傾げる。事情を知るセテカはくつくつ肩を震わせて失笑するのみだ。
「お父さんのことはお母さんに任せよう。
 それより、教えてくれないか? この丸は何?」
 セテカは深優が描いたばかりの丸と、丸からまっすぐ下へ向かって伸びている棒の絵を指さした。
「これ、おとーさん」
「この丸は?」
 と、そのとなりの丸と棒をさす。
「おかーさん」
 深優の言う「お父さん」と「お母さん」の違いを、セテカは見つけることができなかった。強いて挙げるとすれば「お母さん」の丸と棒が「お父さん」の丸と棒より少し低い位置にあることか。
「とすると、これは深優か」
 少し離れた所にある小さな丸と棒を指さす。てっきり遠近感を出しているのかと思ったが、そうではないらしい。深優は、あたりと言うように、こくっとうなずいた。
「もしかして、耳、かな?」
 と、丸からななめ上にちょこっと伸びている棒について訊く。
 深優はうれしそうにほおを赤らめ、こくっとうなずいた。



 霜月がクコの愛あるスパルタな水遊びからようやく解放されて、ほうほうの体でビーチへ戻ってきたとき、深優はセテカのひざに上半身を預けて眠っていた。
「すみません。今受け取ります」
 抱き上げようとして、深優が両手でがっちりセテカの服を握りしめていることに気づく。その健気さにほほ笑み、そっとてのひらに指を入れて開かせ、深優を抱き上げた。
「お相手してくださってありがとうございました」
「いや」
「この子、本当にあなたのことが好きなんです。これで数日は機嫌がいいでしょう」
 娘が寝苦しくならないよう気をつけて添えた指先にまで霜月の父親としての愛情を感じて、セテカは不思議な気持ちにかられる。
 出会ったころの彼は剣士だった。いや、今も剣士だが、自分のあり方に思い悩み、あせり、ギスギスとした危うさが彼を包んでいた。当時を知らなければ、想像もつかないだろう。今の霜月からは豊かで満ち足りた人生を送っている者の持つ確信が感じられる。
「父親なんだな」
 しみじみとしたセテカのつぶやきに、くすりと笑う。
「あなたも、なろうと思えばなれますよ。実際、子どもの1人や2人いておかしくない歳でしょう」
「それはそうなんだが。こればかりはな」
「考えたことはないんですか?」
 その言葉に逡巡する。どう答えたものか……。
 だが相手は霜月だ。セテカは肩から力を抜いて、少し笑った。
「きみだから言うが、おれの相手は少々特殊な環境にいる。きみの言うとおり、考えたことはあるし、深優のような子どもがいたら毎日が楽しいだろう。しかし、彼女はおれよりもずっと覚悟がいる立場だ。決定権は向こうにある。おれはただそれを粛々と受け入れるだけだ」
 それは、もしかすると別れを意味する言葉かもしれない。現実にあるさまざまな障害を考えれば、その可能性は高いだろう。彼女の周囲の者たちも、できれば他国の者ではなく同国人を選んでほしいはずだ。後継問題もある。愛情だけで乗り越えるにはいささか厳しすぎる壁ではないかと思う。
 だからそれが彼女の考え抜いた末の結論であるならば、受け入れるつもりだった。少なくとも、受け入れる努力をしようと。
「そうですか」
「今話したことは、できればきみの胸に閉まっておいてくれ。何かの拍子にでも彼女の耳に入ると厄介だからな。変なプレッシャーを与えたくない。
 娘と遊びたくなったら、きみからまた深優を借りようか。この子はおれにも娘のように思えてかわいい」
 深優の頭をなでようと立ち上がり、尻から砂を払って――セテカはあることに気づいた。
 ポケットに入れておいたデジカメがない。
「え!?」
 それを聞いて、霜月は目を丸くした。
「デジカメ持っていたんですか」
「ああ。さっきリカインから、タイフォン家の騎士になった祝いだともらったんだ。まいったな……」
 もらったばかりでなくしたなどと、リカインに知れたら大目玉だ。
 深優と遊んでいるとき落としたかと周囲を見渡したが、それらしい物は見えなかった。もしや水に入っているときだろうか?
「探しましょう」
 深優を寝かせ、クコを呼んで3人で探す。デジカメは砂に埋もれた状態で見つかった。クコが砂から出ているヒモに気づき、引っ張ると出てきたのだ。あきらかに、自然とそうなったようには見えなかった。
「あの子の仕業ね」
 得物を埋める狐の習性で、つい隠したのだろう。
「きっとこれから家のあちこちでこれをやるわよ」
 その可能性に、クコはやれやれとため息をついた。