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そんな、一日。~二月、某日。~

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そんな、一日。~二月、某日。~

リアクション



18


 特に、用事はなかった。
 仕事が休みだったから工房に来て、お茶をして、家事を手伝って、クロエとお喋りをして、作業しているリンスを見る。
 それが、琳 鳳明(りん・ほうめい)にとってのヴァイシャリーでの過ごし方の恒例となっていた。
 だけど、今日は少しだけ違った。言わなければいけないことがあったから。
「この前ね、地球にいるおじいちゃんが風邪で寝込んじゃったんだ」
 鳳明の祖父は、今まで病気らしい病気にかかったことがなかった。元気な老人というのを体言したような人で、寝込む姿なんて想像もつかなかったのに。
「一週間だって。聞いてびっくりしたよ」
「おじいさん、大丈夫だったの?」
「うん。私のところに連絡が来たときには、もうすっかり元気だったよ。
 リンスくん知ってる? 地球とパラミタって、ネットを使っても一週間のタイムラグがあるんだよ」
 それだけならまだしも、鳳明の生まれ故郷である村には直接回線なんて繋がっていなかった。つまり伝達手段は手紙しかなく、けれど手紙なんて届くまでにどれくらいかかるかなど言わずもがなであり。
 なので、鳳明のところに報せが届いた頃には祖父はもう快復しきっており、村の皆も苦笑いするくらい元気になっていたそうだ。鳳明も皆と同じように苦笑いした。
「けどさ……おじいちゃんもう八十歳越えてるし、離れて暮らすのはお互いに心配かけるだけだし。
 私、教導団卒業したら……その、……地球に帰っちゃうかも……とか」
 別れを予期させる言葉を最後まで言えなくて、声はどんどん小さくなっていった。
 両手の指をぎゅっと組んで、リンスの言葉を待つ。
 心のどこかで、期待していた。少女漫画の世界のように、行くな、と言って引き止めてもらうことを。
 だけどそんなのはリンスのキャラじゃない。ありえない。
 諦観しているのに諦めきれず期待してしまうのは、人間の滑稽はところだと思う。
 リンスは何を考えているのだろう。まだ、何も返答はない。
 チッ、チッ、チッ、という、秒針が時を刻む音がやたらと大きく聞こえた。静寂と緊張に押し潰されそうだ。耐え切れなくなって、鳳明は口を開く。
「い、いや、でも今すぐじゃないし!
 旧正月にも顔見せられなかったからとりあえず近々一度帰っておじいちゃんとか村の皆とも相談してそれから決めようと思ってるよ、それにもしかしたらおじいちゃんがパラミタに来るっていう可能性もなくはないし!」
 私は何を喋っているのだろう。何を伝えたいのだろう。
 引き止めてもらいたかったのではないのか。これでは、「そう」と返されるのが関の山ではないか。ああでも、そんな淡白な答えをさせることでふたりの間の空気が戻るなら、そうした方がいいのかもしれない。
 そうすべきだから。だから。こんな、言い訳じみたことを。
 頭の中でぐちゃぐちゃ考えているにも関わらず、鳳明の舌は滑らかに声を紡いだ。
「それに最近は教導団よりも芸能活動? の方が忙しかったりもするんだよね。教導団卒業してもそっち急がしすぎてそうそう帰れないかもしれないよね、あぁそういえばこの前のデパートのライブさ、実はリンスくん意識しっぱなしですっごい緊張してもー大変だったんだよ!? わかんなかったかもしれないけど!」
 息継ぎの限界まで喋った。まくし立てた。リンスはじっと鳳明を見て、言葉を聞いていた。だけど何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。だとしても、鳳明にはわからない。察することすらできない。
 だって、人の考えていることなんて、わかるはずがない。だから言葉が生まれたのに。
「……止めてくれないと、私行っちゃうよ」
 呟きは、吐息のようにか細く消えた。


 ――同時刻、『Sweet Illusion』にて。
「まぁ色々ありまして、地球に住むことになるかもしれなくなりました」
 店を訪れたセラフィーナ・メルファ(せらふぃーな・めるふぁ)は、ケーキを食べながらフィルに言った。会計近くの席のため、レジに立つフィルと普通に会話することができる。彼女はそれを見越してあの席に座ったようだ。
「ワタシ含め、パートナーは鳳明の決定に従うということで一致しているのですが……」
「結論が出てないんだね」
「ええ。リンスくんのこともあって、決めかねているようです」
 昔から、リンスは大きな変化が起こることを嫌う傾向にあった。そんな彼がこんな場面に出くわしたらどんな風に鳳明へと声をかけるのか。どうせ何も言えないのだろうな、とフィルは思う。
「悔いのない決断を……と言いたいところですが、大きな決断に悔いは付き物ですから。
 せめて、納得いく答えを出して欲しいですね。鳳明も、リンスくんも」
 セラフィーナはそう言うが、正直それすら厳しいのではないかと踏んでいる。決めることはできても、たぶん言えっこない。
 だよねー、と頷きながらも相反する冷たいことを考えていると、再びセラフィーナが口を開いた。
「リンスくんの優柔不断ぷりは周りにはどう感じるのでしょう?」
 思わず鼻で笑いそうになった。こらえて、営業スマイルを浮かべる。
「私はイラッとするけどねー」
 前々からずっと感じていた。
 あの子は何を大事にしているのだろう? と。
 人との関係だろうか。あるいは距離感? それとも自分の気持ち? 心?
 別になんだってフィルには関係ないからいいのだけど、それでもやっぱりあの姿勢は好きじゃない。
 あんな守りに入った体制で、いったい何を得られるというのだろうか。
 失うことを恐れて失うなんて、なんて愚かなのだろう。


 一方工房では。
 フィルが予想した通り、結局リンスは何も言うことができなかった。
 帰ってほしくないけれど、そんなこと言えるはずがなかった。
 だって、自分は彼女に何をしてあげられるのだろう。何ができるのだろう。まして家族の死に目に遭えない辛さなんてそれこそ死にたくなるほどわかっているのに、引き離すなんてできない。
 ――私行っちゃうよ。
 鳳明の声が、頭の中に響く。
 行ってしまうのだろうか。
 ……行ってしまうのだろう。
 だって、リンスには止められないのだから。
 行けとも、行くなとも、そんなことを言う権利なんてあるはずがないのだから。