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ホタル舞う河原で

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ホタル舞う河原で
ホタル舞う河原で ホタル舞う河原で

リアクション

「涼司くん、見てくださいっ」
 浴衣のすそをひらめかせて、たたっと駆け出した山葉 加夜(やまは・かや)は道の真ん中で振り返ると、夫の山葉 涼司(やまは・りょうじ)を振り返り、右手を下に向けて振る。
 びゅるると手の中のヨーヨーが下へ向かって威勢よく下りて、地面から20センチほど上の辺りで跳ね返るように今度は逆に加夜の手に向かって上がっていった。加夜がひじを軸に手を上下に振ると、その動きに合わせてヨーヨーは宙で上下に行ったり来たりを繰り返す。
 それを見て、涼司は感心した様子で手をたたいて見せる。手首の下ではぶら下がった加夜のきんちゃく袋が揺れていた。
「おー! すごいぞ、加夜」
 そのヨーヨーは夜祭りの射的で涼司が獲得した物の1つだった。
 特別ほしかったというわけでもなく、目当てのぬいぐるみを落としたあと余ったコルク弾で、比較的落としやすい位置にあったから落としたというだけの景品だった。いかにも子ども用といったメタリックカラーの小さなヨーヨーだったが、加夜はたいそう気に入って、ぬいぐるみよりもそちらに夢中になっていた。
 加夜が夢中になっているからつい、涼司もヨーヨーのパッケージのなかに入ってあった、遊び方の紙を開いて読んで
「ヨーヨーっていろんな技があるんだなあ。俺はこのうちの3つくらいしか知らないぞ」
 と感心することしきりだった。
 加夜はヨーヨーの糸を巻き、何度も下へ下ろした。最初のうちは戻ってくることがなく、下でクルクル回転するだけだったヨーヨーは、何度も繰り返すごとに反復するようになり、今では十数回持続するようになっている。
 その様子を涼司にほめられて、加夜はさらに意気込んだ。
「私、今度は「子犬のさんぽ」に挑戦しますね!」
 加夜がそれを選んだのは難易度からでなく、名前のかわいらしさからだ。
 夢中になって何度も練習する加夜がかわいくて、涼司は笑いを噛み殺しつつ、その様子を見守って歩く。そしてふと、あることに気づいて右手を向いた。
 今とおり過ぎたばかりのそちらは川沿いの遊歩道で、街灯がぽつぽつと立っている以外あかりも人の気配もない。
 涼司は加夜を呼び止め、提案した。
「加夜、こっちを通って帰ろう。いいものを見せてやる」



「きれい……」
 河川敷いっぱいにホタルが飛び交うのを見て、加夜は心の底から感嘆の声を漏らした。
「パラミタホタルを存続させる会、だったかな。地元の人たちが結集して、ここ数年ずっとホタルを増やそうとしてきていたらしい」
 静かに見とれている加夜の横について、涼司が説明をする。
 ホタルを育てるのは大変だ。日照と清流を確保するために、冬でも川のなかにつかって、草刈りをしたりしなくてはならない。増水などで幼虫が流されてしまわないように、川のなかで何か所も石を積み上げたり……その石が流されればまた積み上げる。常に川の様子を見守り、エサを確保して。
 そうして世話をすることの積み重ねが少しずつホタルの数を増やして、これだけの景色を生み出したのだ。
 人々の地道な努力を思って感服するとともに、加夜はうれしくなる。人が努力した結果、報われる話はいつだって心を明るくする。
 そして、それが地元の人々であることに、ちょっぴり誇らしくなるのだった。
 両手を胸にあて、ほうっと息をついた加夜は、その手を涼司へと伸ばす。
「涼司くん。涼司くんの肩にもとまってますよ、ほら」
「んっ? ああ」
 加夜の指の先で、ホタルがふわりと涼司の肩から飛び立った。それを2人、目で追う。そしてどちらともなく手をつないで、川辺りを歩いた。
 今日お互いにあったこと、明日しようと思っていること。
 交代で話して、そして週末に2人ですることの予定を立てる。
 そろそろ秋だから衣替え用の買い物に行こうとか、外で食べるならどこがいいかとか。
 たわいもないことを話しながら、特段先を急ぐこともなく、ことことゆっくり歩いて行く。
 そんななか、1匹のホタルが加夜の袖口から飛び込んだ。
「あ」
「どうした?」
 あわてて袖をぱたぱた振り出した加夜に驚きの目を向ける。
「今ホタルが袖に……あ。脇から……」
 浴衣の前を引っ張って空間をつくろうとしているところから察するに、ホタルが身頃の方へ入ってきてしまったのだろう。
 ホタルは見ている分にはきれいだが、虫である。
「やだ。どうしよう……」
 ひと目はなさそうだが、まさか前をはだけるわけにもいかない。
 でも虫が体を這っていると思うと気持ち悪い。
「涼司くん、取ってください」
「どれ」
 困っている加夜に身を寄せて、土手の方からは見えないようにして、少し胸のあたりをはだけさせた。
 街灯のわずかなあかりも届かなくなってしまうが、慣れれば――……
「って、加夜。おまえノーブ――」
「言わないで!」
 あわてて口を手で覆う。
 ……えーと。
「それで、どのあたりにいるか分かるか」
「は、はい……」
 加夜ははじらいに赤く染めたほおを横に向けて、ホタルの位置を教える。
 涼司は加夜を気遣って、極力肌に触れないように、浴衣も崩さないようにしてくれていたが、男の大きな手を差し込まれればどうしても浴衣の前は広がっていく。
「涼司くん、まだですか……?」
 川を渡る微風はほんの少し冷たい。夜気を感じる胸元に涼司のあたたかくて大きな手が触れていて……加夜は体が熱くなるのを抑えきれなかった。ああ、ふくらんだ胸の手のひらを押し上げる先端に、涼司にも今の状態を見抜かれているかもしれないと思うと、ますます体がほてってきて……。
「ま、まだ……」
「もう少し。ああ、いた」
 涼司の指がかすめるように動いて、ホタルをすくいとった。指先に乗ったそれを宙に持ち上げると、羽を広げてホタルは空へ戻って行った。
「よかった」
 ほっとして見送り、胸元を急いで掻き合わせる。
 前にきた横髪を耳にかけてくれた涼司の指がほおをかすめていった。そちらに顔を向けた加夜の唇に、羽のように軽いキスが触れる。
 しかし今の加夜に、それは飢えたときのスプーンのひと口分にしか感じられなかった。
「続きは家で、だ」
 無言で自分を見つめる加夜から不服を感じ取って、涼司はにやりと笑った。
「涼司くんの……意地悪……」