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終わりなき蒼空、涯てることなきフロンティア

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終わりなき蒼空、涯てることなきフロンティア
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リアクション


●イオリ・ウルズアイの『家』
 
 早朝に目を覚ますと、頭上にあるのは見覚えのある天井だった。
 そういえば昨日、約一年ぶりにヨーロッパから帰ってきたのだった。
 どうも慣れない感覚があった。それは昨日までずっと移動ばかりの一年で、毎日のように違う宿に泊まってきたせいだろうか。いまここが家だよ、と言われても、明日はまた違うところで寝ている気がする。
 イオリ・ウルズアイ(いおり・うるずあい)はベッドから降りようとして、布団であることに気がついて苦笑した。
 やっぱり、ここは家だ。ふっと、心の荷物が下りた気がした。
 畳の上で、靴を脱いで上がる家。故郷の家。
 思い出すのは十年前、どうしても馴染めない風習がこれだった。玄関で靴を脱ぐということがどうしてもできず、当初はよくヴェルリア・アルカトル(う゛ぇるりあ・あるかとる)にたしなめられたものだ。ところが一度肌に合ってしまうと、今度はこの風習から離れるのが辛かった。いまでもホテルでは、できるだけ靴を脱いで過ごすようにしている。
 時計を見ると早朝だ。まだ深夜の延長といってもいい時刻。まだ時差ボケなのか、どうしても変な時間に目が覚めてしまう。
 といっても寝直すつもりもなく――。
 真夏ということもあって外は白み始めている。イオリは立ち上がって布団を畳んだ。
 蒼空の絆事件から十年が経過し、イオリの体にも変化が生じている。
 機晶姫といっても、人体がベースのクランジゆえ、彼女の体には成長が訪れていた。
 少年のような容貌は女性らしいものに、
 手足ばかり長くてひょろりとしていた体型は、すらりとした曲線美に、
 背だって随分伸びている。
 髪はやはり短いものの、ほどよく育った胸もあり、イオリを少年かと見紛う者はもういないだろう。
 リビングに顔をだして縁側を見てみると、凜が朝顔の前にしゃがんでいた。
「おはよう……」
 凜というのは柊 凜(ひいらぎ りん)だ。柊 真司(ひいらぎ・しんじ)とヴェルリアの一人娘で、年齢はちょうど十歳。見た目はヴェルリアを一回り小さくした感じだが、瞳の色は真司譲りの漆黒だ。
「おはよう、イオリ姉、昨夜はよく眠れた?」
「よく寝たけど、もう目が覚めてしまった。凜も早いね。観察日記を?」
「うん! イオリ姉のつけていたのを見て、感化されて……」
「あれはリハビリの一環としてやっていたんだ。普通の人間としての生活に慣れるためにも……」
「でも、とっても上手に描けていたよ!」
「ありがとう。まあ、楽しかったのは事実かな……」
 事実、かなりのものであった。色鉛筆だけで描いているのに、写真と見紛うほどに正確に対象をとらえている。それでいて色使いも見事なものだった。
 イオリの絵の才能は、この朝顔観察絵日記で開花したといっていい。さらに技法を磨いて今では、彼女はイラストレーターとしての仕事も受けている。
 凜のノートをのぞいて凜は微笑した。
「凜の絵も上手だよ」
 きゃ、と言って凜はノートを隠した.恥ずかしいようだ。
 このとき、
「おはよ〜、イオリ、調子はどう?」
 ぺたっとイオリの背に覆いかぶさってきた姿がある。リーラ・タイルヒュン(りーら・たいるひゅん)だ。
 もうこういうのは慣れっこになっているので、イオリは特に驚かない。
「リーラ、重いよ」
 とだけ言ってリーラから逃れた。
「ちょっと! レディーに対し『重い』はないんじゃない?」
「じゃあ、旅に出る前より重くなったような気がする、と言い換えておこう。やっぱり外食続きだと太るよね」
「さっきより悪い! ……まったく、イオリも言うようになったわねぇ」
「おかげさまで。なにせリーラとは、旅の間ずっと一緒だったし」
「おはようリラ姉。太ったの?」このとき凜が話に加わってきたので、
「ふ、太ってない太ってない。そもそも私の体重はリンゴ三個分なんだもーん」
 などと鼻歌でも歌うように言って、リーラはするりとその場を逃れてしまった。
 ここ数年、リーラはしばしば、イオリを連れて長期旅行に出ていた。昨日まで約一年の欧州旅行がいまのところ最長だが、数ヶ月単位で地球やパラミタを頻繁に訪れているのだった。
 見聞を広める、という目的の旅であり、これには真司やヴェルリアも賛成し、ふたりの費用まで出してくれている。リーラは旅行費用などには無頓着だが、いつかこの恩は返さなくては――と、真司に対し、イオリは内心思っているのであった。
 朝食が終わってから、イオリは凜に、旅の思い出話をせがまれた。
「ねぇねぇイオリ姉、旅の話を聞かせて〜」
「そうだね。まずはロンドンに行って」
 イオリは話しながら、ペンを走らせて簡単な絵を描いてあげている。決して口達者なほうではないイオリには、このほうが話しやすいらしい。
「中学生になったら私も一緒に旅に行きたいなぁ」
「そうだね。僕も一緒に行きたいよ、凜と」
 
 午後になってイオリは、懐かしい顔の集まる席に顔を出した。
 前から約束していたお茶会だった。いわば同窓会だ。
 緑も鮮やかな自然公園に面した屋外の喫茶店に、そうそうたる顔ぶれが集まっている。
 ほんの十年前には、こんな日が来るなどと夢にも思っていなかった。
「イオリ、来たね!」
 と手を振ったのはローラ・ブラウアヒメルクランジ ロー(くらんじ・ろー))で、
「久しぶりじゃない」
 同じ席にはパティ・ブラウアヒメルクランジ パイ(くらんじ・ぱい))の姿もある。
「こんにちは」
 ユマ・ユウヅキ(ゆま・ゆうづき)が柔らかく微笑して、
「……久しいな」
 憮然たる表情で、カーネリアン・パークス(かーねりあん・ぱーくす)も座っていた。顔つきだけ見れば不機嫌そうなカーネリアンだが、実はこれはこういう顔しかできないからであって、むしろ口調にはどこか、親しげなものがうかがわれた。
 そこに、
「お待たせ致しました」
 すっと椅子を引いて、着物姿の結城 霞(ゆうき・かすみ)が腰を下ろした。彼女は目に、白く長い布を巻いている。眼病なのではない。こうやって隠していても、十二分に見えているのだ。
 彼女らにはひとつの共通点がある。
 そう、いずれもクランジの『姉妹(シスター)』なのだ。
 ローラがΡ(ロー)、パティはΠ(パイ)、ユマがΥ(ユプシロン)でカーネリアンがΚ(カッパ)、霞はΜ(ミュー)、そしてイオリがΙ(イオタ)になる。
 所用があって遅れているが、この席には、Ω(オメガ)ことバロウズ・セインゲールマン(ばろうず・せいんげーるまん)とその同型機たる機晶犬も合流することになっている。
 また、コード文字は当てはめられていないものの、クランジすべての原型機……強いて言うならΑ(アルファ)でありΒ(ベータ)、Γ(ガンマ)となる存在だろうか……のアイビス・グラスアイビス・エメラルド(あいびす・えめらるど))ももうじき来る予定だ。
 Δ(デルタ)ことデルタ・ガイザックにも誘いを出したのだが、まだ顔を合わせる自信がないとの理由で、今回も彼女からは丁重な断りの文面が届いた。
「……こうして会うのも久し振りだね」
 イオリは言った。
 何年か前から時々、こうして『姉妹』だけで集まるようにしている。
 実は毎回、皆に招待状を出しているのはイオリだ。孤独な狼のような少女はもういない。リーラと世界各地を見て回るようになった結果彼女は、こういった繋がりを大事にすべきと思うようになったのである。
「パティとローラは、子どもを預けて来たんだ?」
「まあね、こういうときのための旦那だもん。娘も、彼のこと大好きだし」
「うちは学校の用事ね。クラブ活動のサッカーチーム。次は、一緒に来るよ」
 パティには娘が、ローラには息子がふたり、生まれている。
「ユマのところは……?」
「実はうちの子たち、連れだって『もう一度だけデルタさんを説得する』って出て行ったんです。あの子たち三人とも、デルタさんには妙に懐いているから……ひょっとすると、ひょっとするかもしれませんよ」
 長男のユージーン、その妹となるユウコとクローディア、いずれも初対面のときからデルタを姉のように慕っているという。とりわけ、激しく人見知りする傾向のあるユージーンがデルタに懐いているのは不思議なことらしい。
「お子さまがデルタに……そうですか」
 霞は静かにうなずいた。
「わたくしもあの人に、また会ってみたいと思いますわ。避けられてはいますけれども……あのときの彼女の気持ちが、今ではわたくしにもわかる気がします」
 霞(ミュー)とデルタの間には、過去の因縁というものがある。しかしそれでも、少なくとも現在の霞にわだかまりはないようだ。
「そうだね。僕も、同じ気持ちだよ」
 と言ってイオリはカーネリアンに水を向けた。
「カーネはアイドルを引退したんだったね。残念だよ」
「じき三十歳になるのにアイドルでもあるまい。それに裏方、つまり後進の育成というのもいいものだ。自分にはこっちのほうが向いているようにも思う。もう『なんてね☆』というような話し方をしなくて良くなったのも楽だしな……」
 楽だ、と言いながらもどこか、その口調に名残惜しさが感じられなくもない。『なんてね☆』のところだけ、ワンオクターブほど声が上がったことからもそれはうかがわれた。
「来たようだぞ」
 カーネリアンが振り返った。
 エメラルド色のあの髪は、アイビスに違いない。スカーフやサングラスで顔を隠しているのは、アイビスが今や、押しも押されぬ有名歌手だからである。
 霞やローラが手を振ると、アイビスも振りかえしてきた。
「あとはバロウズさんだけということになりますが……私はまだ、諦めていません」
 ユマが言った。
「デルタのこと?」
 パティが問う。
「はい」
「僕も、諦めたくないよ」
 イオリが言った。
「僕だって変われた。彼女だって変わったはずだ。なら……と思ってもいいんじゃないかな」
 たとえ今日がダメでも、必ず、いつの日か……。

 茶会が終わり、帰路を歩くイオリをリーラが捕まえていた。待ち伏せしていたようだ。
「待ってたわよん。今日の夕飯は私とイオリと凜しかいないから、私が作らないといけないのよねぇ……でも何を作るか決まらないのよ〜! 凜の好きな物にしようと思ったら昨日食べたって言うし……だから胃お降り、あなたの希望を聞かせてちょうだい」
「ちょっと待って。もしかして、夕飯のメニューが決まらないからって僕が帰ってくるまで待ってたの?」
「そうよ」
 そうしてリーラは言うのであった。
「ねぇイオリ? 夕飯何が食べたい?」
 ……買い物が終って帰路に着く。
 空を見上げたイオリは、そこに夕焼けを見た。。
 段々と暗くなっていく空を見ながら想いを馳せる。
 ――やはり、今の生活なんて十年前には想像もできなかったなぁ。
「イオリ……イオリってば!」
「え?」
「どうしたのよ、黙りこくって?」
 心配そうなリーラに対し、正直に打ち明けるのは気恥ずかしくて、
「……何でもない」
 とイオリは言った。そしてこう言い加えもする。
「さあ帰ろうか、僕たちの家に」