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リアクション
SCENE 15
あれほど燃えさかっていた太陽が、勢いを弱め西に傾いている。
空も青から、薄い茜色に変化しつつあった。
「少し、泳ぎましょうか」
それまで水につかることのなかった樹月刀真がおもむろに立ち上がった。
「いいわね。最後の一泳ぎかしら」
彼の手をとって御神楽環菜もチェアから身を起こす。
「環菜、あの直線コースで泳ぎの勝負をしませんか?」
「あら、私意外と泳げるのよ? 何か賭けるの?」
ええ、と切れ長の瞳で刀真は環菜を見つめた。
「負けた方が勝った方の言う事を一つ聞く、という賭はどうです?」
「本気?」
環菜はサングラスを外した。
「もちろん」
「俺が勝ったら……」
と言いかけた刀真の口を、空いたほうの手で環菜は押さえた。
「待って。言いたいことは判ってる」
環菜は、感情を押し殺した口調で続けたのである。
「でも、今それを聞いたら、私は『イエス』と言える自信がない」
二人の間に、数秒の時が流れた。
刀真は声を立てず笑った。
「負けました。まだ泳いでないけれど、俺の負けですね……でも最後に、一緒に一泳ぎしたいという願いだけは聞き届けて下さい」
「それなら、良くってよ」
プラチナの髪を躍らせて、環菜はプールに飛び込んだ。
水面も茜色に染まっていた。
黒崎天音はウォータースライダーを滑り降りた。もちろん、ヴァーナー・ヴォネガットと一緒だ。
「すごいスピードだったね。大丈夫かい?」
優しくヴァーナーを抱き起こした。はい! とヴァーナーは元気に答えて空を見上げた。
「あれれ、いつのまにか、夕焼けがでてます」
「そうだね、そろそろ帰ろうか」
そんな天音の胸にヴァーナーは飛びついて、
「天音おにいちゃん、今日は一日ありがとう!」
ハグと頬へのキス……いや、それよりもずっと微笑ましい感じの『ほっぺちゅ〜』で感謝の気持ちを伝えるのであった。
少しだけ離れた場所。同じ水面に浮き沈みしつつ、ブルーズ・アッシュワースは頷いていた。
(「良かったな。二人とも」)
手には愛読書の『孫子の兵法』、実はウォータースライダーの水飛沫を頭から被って本も本人もびしょ濡れなのだが、今日はそんなこと気にしない。
武神 牙竜(たけがみ・がりゅう)と迦具土 赫乃(かぐつち・あかの)は、気の置けない友人同士として一日を共に過ごした。
大いに遊び、食べて笑って、いつの間にか数時間が経っている。
「なぁ、まだ聞いてなかったのじゃが……」
それまではしゃいでいた赫乃なのに、急にしおらしくなったように伏し目がちに問うた。
「牙竜殿、妾の今日の水着、どうじゃったろうか……?」
牙竜は驚いた。実はちょうど、それを言おうと思っていたのだ。
赫乃の水着は、紐で結んで留めるタイプのツーピース、白がベースだが和風の柄がうっすらと描かれており、鋭角のラインもあって、それがなんとも色っぽい。
「最初は、正直なところ似合ってはいるんだけど着られてるような気がした」
「……そ、そうか」
しょげかえる赫乃に急いで言葉を継ぐ。
「違う違う。結論を急がないでくれ。でも、動いてみるとその水着姿、すごく似合っていると気づいた。それで感心したよ。そうか、健康的な赫乃は動いたときのことも考えて水着を選んだのか! ってな。さすがセンスがいいな。よく似合ってるぜ」
「……そ、そうか」
さっきと同じ言葉だが、今度の赫乃の口調は喜色に満ちている。
「なあ、そろそろ日が沈む。最後に行ってみたい場所があるのじゃが」
彼女は彼の手を、胸元に抱くようにして引くのだ。
「ああ、付き合う」
と二つ返事した牙竜であるが、着いた場所にはさすがに息を呑んだ。
「カップル用プール……じゃ。おぬしと、入ってみたい」
だめかの、と上目づかいでお願いされては断れるはずもないだろう。
今日、『友達』と『恋人』の間の見えないラインを赫乃は乗り越えるつもりだった。
けれど牙竜は胸が痛んだ。その意図をほのかに察したためだ。
向かい合ったまま水につかったまではいいが、
「噂に違わぬ小ささじゃ」
と入った赫乃の水着の紐が弛んで、偶然だがブラが取れてしまう。
「お……おい!」
この狭さで気づかぬはずはない。牙竜は仰天して背を向けた。
「は、早く着けるんだ!」
牙竜は紳士なのである。瞬時に反転したので、このハプニングであらわになった部分を目にすることはなかった。
「お主になら見られても平気じゃがの……」
小声で呟いた赫乃は突然、そのまま彼の背を抱きしめたのである。
牙竜は深呼吸した。背を意識しないようにしながら問う。
「もしもさ、好きな相手が他の奴に向いているとき、赫乃ならどーする?」
「そうじゃな。仮に妾の意中の相手がそうであるなら……その者がこちらを振り向くぐらいに魅力ある女性になってみせるのじゃ」
赫乃らしい答だと牙竜は思った。だから胸の痛みはますます鋭くなった。
「妾は……、お主のことが好きじゃ」
背中越しに赫乃は告げた。胸の鼓動が、ダイレクトに伝わってくるのが分かった。
だが牙竜の返事は、彼女の期待したものとは違っていた。
「俺は過去に二度失恋してる。一度目は突然、理由もなく目の前からいなくなった……。二度目は告白したけど振られた。流石に傷つき過ぎたな。だから、恋愛に鈍感になった」
彼女を傷つけたくなかった。だから言葉を選んだつもりだが、それでも残酷なメッセージであるとの自覚はあった。
「今まで気が付かなくて悪かったな」
牙竜は目を閉じる。ここで振り返り、赫乃を抱くことができればどれほどいいだろう。
しかし自分に嘘をつくわけにはいかない。その言葉がナイフになることを承知で、彼は締めくくった。
「でも、今、俺の心には赫乃じゃない女性がいる。……わりぃ、最低な答えだ」
赫乃が水着を直す気配がした。そして、水から上がる音も。
「妾が泣いて逃げていくとでも思ったかえ?」
牙竜は振り向いて見た。赫乃の口元に笑み――寂しげな笑みだが――が浮かんでいるのを。
「感謝するぞ、牙竜殿。偽らぬ心を明かしてくれて。それに、新たな目標をも与えてくれたな」
「目標……?」
「そうとも、妾は決めたぞ。良い女になってお主を振り向かせてみる、と。恋は女子を強くするのじゃよ? 牙竜殿」
またな、と赫乃は手を振って茂みに消えた。
赫乃はまっすぐに歩く。今日は楽しかった。そろそろ帰るとしよう。明日からまた、頑張らなくては。彼に認められる女にならなくては。
毅然とした表情の赫乃だが、出し抜けに右の目からつっ、と雫がこぼれた。これは呼び水に過ぎない。
(「泣きはせんぞ……妾は、こんなことで泣く女ではないのだ……」)
ぼろぼろと溢れてくるものを拭いもせず、赫乃はまっすぐに歩き続けた。
牙竜殿に涙を見せたくなかった。
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