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リアクション
第1章 舞踏会開催前
1年中晴れることはないという、雲海からの霧に包まれた森の中、ゆるやかな坂道を登り詰めた先の開けた場にあるジェイダスの別荘は、別荘と言うよりも館、王城と言うべき佇まいだった。
見晴らしのいい崖の上、霧の中に浮かび上がる岩でできた中世風の城は、堅牢な要塞といった風情だ。おそらくはそれなりに歴史のある王侯貴族の城だったのだろう。それをジェイダスが気に入り、自らの別荘の1つとしたのだ。
そこに、カツカツと馬の蹄の音をたてて、1頭馬が現れた。
正門は閉じられ、人の気配のないことに、馬上の者は首を傾げる。
「時間、間違ったかな…」
確認しようと、手元に出してあった招待状を開いたとき。
「いいえ、時間通りでございます」
そんな返答がした。
弓月のような形で目と口だけが開いている白い仮面をつけたタキシード姿の男がいつの間にか現れ、正門との境で頭を垂れている。
「あ、オレは――」
馬から降り、名乗ろうとした彼に対し、白仮面の男は人差し指を口の高さに上げた。
「お名前は結構でございます。ここは既にお館の敷地内でございますれば。
さあ、手綱をこちらへ。ジェイダスさまがお待ちでございます」
そう告げ、なかば奪い取るように手綱を受け取った白仮面の男は、現れたときと同様に気配を感じさせない動きで、彼の馬を連れて霧の中に消えて行った。
「やぁ、わが別荘にようこそ。われわれはきみを歓迎する」
二十数段ほどもある正面階段を上った先、ゲストの歓待をするホストとして、ジェイダスとルドルフが立っていた。
「ジェイダス校長…!」
まさか本人が出迎えてくれているとは思わず、ぼんやりと歩いていた彼は、あわてて階段を駆け上がる。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。オレは――」
意気込んだ言葉の先を奪うように、ジェイダスはルドルフが持ち上げていたトレイから名刺サイズの紙を1枚取り、差し出した。
「これは…」
「さあ受け取りたまえ。これはきみのルームナンバーと名前を記した物だ。部屋へいけば数枚がテーブルに乗っている。今夜の舞踏会であいさつ用の名刺として使用するもよし、それ以外に使用するのもよし、だ」
含みを持たせた言い方で、目くばせをする。
「分かりました」
本当は分かっていないのだが、期待されているようなのでそう返答することにした。
「あの、でも、ここにあるカトゥルスって…?」
「校長がきみのために考えてくださった名前だよ」
答えたのはルドルフだった。
「今日から2日間、きみはカトゥルスだ。それ以外の名前で呼ばれても決して応じてはならない。いいね?」
「……分かりました」
頷き、ジェイダスに頭を下げて館内へ入っていく。30人は軽く入りそうなホールを所在なげに見渡す彼に、脇に控えていた白仮面の男――館の召使い――が近づき、案内を申し出ていた。
「まさに「カトゥルス(子犬)」ですね」
笑みを抑えてルドルフが呟く。
「きみも、そうそう笑ってはいられないぞ。客は次々と来るからな」
そうたしなめて階下の女性を見るジェイダスの口元にも、楽しげな笑みが浮かんでいた。
「足元を見るんじゃありません。ほら、背中が猫背になっていますよ」
「う、うん…」
青龍に注意され、自分が俯いてしまっていたことに初めて気づき、あわてて吉野は顔を上げた。そのまま、教わった通りに足を出そうとして、青龍の足につまづき、つんのめってしまう。
「うわわっ」
床に顔面から倒れかかったのを、寸前で手をつないでいた青龍が吊り上げることで止めてくれた。
「……あー、駄目だ、もう」
ベッドに仰向け倒れて目を覆う。
「あと数時間で始まるというのに、こんな…」
言葉が続かない。
招待状を受け取った日から毎日練習してきて、ステップは頭に入っていると思うのだが、その通りに手足が動いてくれないのだ。
これで、さらに足に絡むドレスを着たら、ますます動かなくなるんじゃないだろうか?
そっと視線を横にずらす。そこには今夜着るネイビーブルーのドレスが広げられていた。ビスチェ部分には白い刺繍が入っており、肘までの白い手袋が揃えられている。
これを着て踊って、さっきのようになると思うと怖かったが、御園の前でそんな醜態を演じるわけにはいかない。
「やはり練習するしかないか…」
ふと、青龍が何も言わないのに気づいて、身を起こした。
青龍はテーブルの上にあった舞踏会のメニューを手に、考え込んでいる。
「どうしたの?」
問いかけに、青龍は吉野を見て、ぱし、とメニューを弾いた。
「舞踏会は午後9時から午前4時まで続きます。途中、オペラ観劇が1時間半ほどありますが、それ以外はダンスで、30〜40分踊り、数分の休憩を挟むことになります」
「うん。知ってる」
「曲数は8。1番最初はホストのダンス、そして次にくるカドリール・ファーストは全員参加のあいさつのダンスですから、たいして動きは必要ありません。男性パートであれば添え手をしておくだけで、女性が勝手にくるくる回ってくれます」
それは習得済みだから問題はない。ポルカ・フランセーズも遅いダンスだからそう悩むこともない。重要なのは、その後に続くダンスだ。ウィンナワルツは上級者向けで、付け焼刃は全くきかない。
「これは捨てましょう。踊り通すのでなければ食事や歓談が必要です。オペラ鑑賞もあります。その後、ポルカとカドリールが数回あります。カドリールは今程度で十分。ポルカも基本的にステップはあってないようなものですので、あなたであれば数回の練習で対応できるでしょう。そしてラストワルツ。あとはこれさえ習得すれば十分です」
「本当に?」
ぱぁっと吉野の顔が輝くのを見て、青龍は心の中で頷いた。
(さすがジェイダス校長ですね。ダンスを知る者でも知らない者でも楽しめるようにプログラムが組まれています)
「舞踏会が始まるまであと2時間。休んでいる暇はありませんよ」
「分かった」
吉野はベッドをはずませて飛び出した。
(シズルさん、来てくれたでしょうか?)
もうじき始まる舞踏会の準備に腐心する白仮面の使用人たちに混じってグラスの乗ったトレイを運びながら、フォーリーフはぼんやりと思った。
舞踏会の招待状が届いたとき、彼女は真っ先に加能シズルのことを考えた。
(シズルさんは真面目で、いつだって自分に厳しい方ですから。こういう事に参加して、肩の力を抜くことを覚えてもらえましたら、もうちょっと開放的になっていただけるのではないでしょうか…)
そう思い、招待を受諾する返信を出す際、彼女も招待してもらえるようお願いする手紙を添えたのだった。
日程的にも、また多忙なジェイダス校長のことを考えると、返信がもらえなかったのは仕方ない。出迎えていただいたときに訊くのもなんだか気がひけて、結局聞かずじまいだった。
(一応私からもメールを出させていただきましたが、ホストのジェイダスさまからの招待状がいただけないと、応じるとも思えませんし)
ぐろぐろと思い悩む彼女は、彼女の行く先々でちょっとしたどよめきが起きていることに気づいていなかった。
なにしろ裸エプロン姿なのだ。
肌色の全裸スーツの出来はすばらしく、つなぎ目が目立たない編み方で首からつま先まで覆っている。首は髪の毛で隠れ、つま先はパンプスの中だ。ちょっと離れて見ると、全裸でフリフリのメイドエプロンをまとっているだけにしか見えない。
トレイからグラスを下ろし、定位置に並べると、再び回廊を通って厨房へ戻る。その繰り返しをしていたとき、ふと、前方から歩いてくる女性に目を奪われた。
顔の上半分を覆ったドミノマスクは黒い鳥の羽で覆われており、ブラックスワロを用いた飾り刺繍が施された黒ドレスを着ている。ブーツハイヒールも、服も、鳥の羽で飾られている。長い黒髪をなびかせて歩く姿は、まさしくブラックスワンだ。
回廊のシャンデリアからの光を受けてキラキラ輝く彼女とすれ違うまで、いやそれ以降も、フォーリーフは彼女から目が離せなかった。
(あれは、もしかして…?)
確証はない。彼女のことばかり考えていたから、そう見えるだけかもしれない。でも、もしかしたら……!
そう思って、彼女を見送りながらの無理な体勢で歩いていたら、案の定だれかにぶつかってしまった。
「きゃっ…」
「おっと」
体勢を崩した彼女からすばやくトレイを取り上げる。
彼女を受け止めた、がっしりとした温かな体の持ち主は、ジェイダスだった。
「ジェイダスさま! これはご無礼を……あっ」
パッと離れたフォーリーフだったが、少々勢いが強すぎた。つるっとかかとが滑ってそっくり返った彼女がそれ以上倒れるのを防いだのも、やはりジェイダスだった。
「大丈夫かね?」
「あ、ありがとうございます」
ますますジェイダスの腕に抱かれるかたちになったことに、フォーリーフは赤面する。
彼女が立てると判断し、手を離したジェイダスは、1歩後ろに離れて彼女を見た。といっても、決していやらしさはない。
「もうじき舞踏会の始まる時間だ。きみは準備をしなくていいのかい?」
「あの、私はメイドですから。今日はお手伝いをさせていただこうと思ったのです」
フォーリーフからの返答に、ジェイダスは少し困ったように首を傾げた。
「今日のきみは私のゲストなんだよ。ゲストを働かせてしまっては、こちらの歓待に落ち度があると思われてしまう」
「あ…」
そう言われては、フォーリーフも言葉の返しようがなかった。
かといって、メイドをするつもりだった彼女は、ドレスを用意してきていない。
困る彼女を見て、ジェイダスはぱちりと指を鳴らした。
脇に控えていた――おそらくは彼がジェイダスに報告に行ったのだろう――白仮面が進み出て、持っていた服を渡す。
ジェイダスによってふんわりと広げられたそれは、ヴィクトリア時代のメイド服を基調とした紺のレースドレスだった。
「これ…!」
喉から続く一列の真珠の飾りボタン、ふくらんだ肩口、ふくらはぎの中ほどまで落ちた裾。フリルエプロンもあり、なんとブーツやレースのついた飾り帽子までも揃っている。パーティードレスとしては地味かもしれないが、メイドにはたまらないデザインだ。
「きみのために用意したドレスだ。これを着てくれるね?」
そっと手をとられ、一式を渡される。
「ぜひ着させていただきます! ありがとうございます!」
その美しいメイド風ドレスを胸に抱きこんで、フォーリーフは何度も頷いた。
「うーむ、しまったなぁ…」
ホールへ続く回廊の隅で、ノレド・ノレフはひとりごちていた。
黒のネクタイスーツに白シャツ、薔薇のマント、仮面までルドルフそっくりの仮装姿で腕を組んで立っている。
どこか人待ち風情でホールへ向かう人の流れを見ている彼だったが、しかし実はその目は人を人として認識できていなかった。
(ぬかったな。仮面をお願いする際、度入りで頼むんだった)
かといって、メガネの上に仮面をつけるのはいささか間抜けすぎるというものだろう。
舞踏会に仮面は必需品だがメガネは違う。どちらを選択すべきかは決まっている。
仕方なし。仮面をつけて部屋を出たものの、周囲は何もかもがぼやけて距離感が掴めない。とりあえずここまでは壁づたいに来れたからいいとして、この先どうするべきか?
パートナーのリーンと合流したいが、彼女がどんな服装をしているかも分からない。髪飾りを目印に、ということだったが、肝心の髪飾りがこの目では見えないのだ。
「とにかく髪飾りをつけている、小さめな女性を探すか」
(彼女の方から声をかけてくるかもしれないし。壁から離れるのは少々心もとないが、いつまでもこうしていたところで仕方がない)
意を決めて、人の増え始めたホールへ踏み出す。彼はまだ気づいていなかった。自分が見えないということは、同じくメガネっ子であるリーンもまた、見えていないのだということに。
「あれっ?」
部屋に用意されていた、まるで天御柱学院制服を思わせる黒を配した白いドレスをまとって部屋を出た直後。リーンは思わず声を上げてしまった。
「こ、このリスの仮面、度が入っていないの?」
ドミノタイプの仮面をはずして目の所に触れてみる。
度がある・なしどころか、ガラス自体入っていない。
(はわー……スカスカだ…)
度入りを頼んでくれていなかったのか…。いや、念押しはしなかったし、自分だってすっかり忘れきっていたのだけどもっ。
「どうしよう…。もう始まっちゃうよ…」
自分だけだったら、このまますごすご部屋に戻って舞踏会を諦めるという選択もあった。しかしノレドと待ち合わせしているのだ。彼と一緒にダンスを踊れる、このせっかくの機会を逃すのはあまりに惜しい。というか、無理。絶対無理だから。
「とにかくホールへ行かなくちゃ。ホールまでだったら壁に手をあてて行けば、たどり着けるわよね」
気持ちを奮い立たせたリーンは仮面を付け、人の流れる方向に向かって歩き出したのだった。
舞踏会開始10分前。
もうかなり人の集まったホールの前のロビーで、キューティオレンジは会話用スケッチブックを小脇に抱え、目印の芋ケンピ1袋を手に立っていた。
バイト先のヒーロー戦隊ショーで借りてきた全頭着ぐるみは、ものすごく目立つ。一応ゴム製の、顔に密着するフルフェイス型なので、頭でっかちというわけではない。ただ、かなり名の知れた人気子ども番組の変身ヒロインの仮装なので、パーティードレスとは別の意味で格好がド派手なのだ。
だから、かなり目立つ存在であるのは間違いないが、それでも待ち人は現れなかった。
(こちらから捜そうにも、私、彼の名前も、どんな仮装してるのかも知らないのよね。あの人長身だから、どんな格好しててもかなり目立つとは思うんだけど)
ホールへ向かう人の流れをぼんやり見送りながら、そんなことを考えていると。
「キューティオレンジ! ここであなたと会えるなんて、感激です! ぜひ僕とパートナーを組んでいただけませんかっ?」
そんな、申し込みの声がした。
今日、何度目になるか分からない誘い。でも、そのどれもが彼ではない。
だからキューティオレンジは、既に用意してあった「パートナー待ちです。ごめんなさい」と書いたスケッチブックを見せて、ぺこりと頭を下げた。
「早くしないと始まっちゃうのに」
マスクの中で、そっとため息をつく。
舞踏会が始まるまであと10分を切ったとなると、見つけてもらえる望みは薄そうだ。
最初のダンスは、諦めて別の人の誘いを受けるべきかもしれない。踊る機会は1回きりというわけではないし。
次に声をかけられたら、応じることにしよう。でもできれば、それが彼でありますように…!
ポリポリ、芋ケンピを口元のスリットから食べながら、彼女はそうなることを祈っていた。
そして、やはり別の意味で目立つ存在がこの場にもう1人いた。
それは、彼が180センチを軽く越えた長身だということもあったが、一番の理由はこれだろう。60センチはあろうかという赤いトンガリ帽子型の、胸まで覆うマスク! いやこうなると覆面か。そして白いシーツを被ってウエストバンドで止めた姿。胸とマントには真っ赤な十字のマーク。
言わずと知れた、あのアルファベット11番目・11番目・11番目のカルト組織の仮装である。
2メートルをはるかに越えた大男が、回廊の柱に身を隠してホールの入り口方面を伺っているのだ。目立つなというのが無理な話だ。
ざわざわ、ざわざわ。
彼の横を通りすぎるとき、人々の間でちょっとしたざわめきが起きていたが、彼は全く気にしなかった。
何しろ彼の一番気にする存在がすぐ前方にいて、そこでため息をついているのだから。
実は、ククロス――とジェイダスに命名された――はとうに彼女を見つけていた。
ただ、気づいてしまったことがあって、それで出て行けなくなってしまっていたのだ。
それは、部屋を出て、回廊を歩いていたときだった。
彼女を誘って優雅にダンス、おいしく食事、有意義な語らい、そして部屋へ送って行っておやすみを言う「仮面DEデート計画」のおさらいをしていて、はた、とあることに思い当たってしまった。
「ダンス……ダンスか…。そういえば、習ったことなかったですね…」
地球ではダンスは必修科目ではなかったし、教導団に入ってからは、なおさら教わる機会などなく。
(はたして知らなくても踊れるものでしょうか? あれは…)
……。
………。
…………。
(う、うろたえるんじゃあないッ! 教導団員はたとえ何が起きようとも決してうろたえたりしないッ! 教導団員の底力とナイスガイパワーで踊りきってみせる! そうとも! イメージトレーニングならバッチリだ!)
人はそれを妄想と言うのだが。
そうして突き進んできたものの、実際に彼女の姿を前にして、ククロスの意気はぷしゅう〜と空気の抜けた風船のようにしぼんでしまった。
それでもう小半時ばかり、こうして柱の影から彼女の様子を伺っていたわけだったが。
「キューティオレンジ! ここであなたと会えるなんて、感激です! ぜひ僕とパートナーを組んでいただけませんかっ?」
「――ひとの彼女に誘いをかけるとは、いい度胸ですね…」
そう、口をついて出た言葉にハッとする。
そうだ、彼女は自分の相手、パートナーなのだ。あそこで1人、いつまでも待ちぼうけさせていいわけがない。
恥をかくかもしれないのがなんだというか。真のナイスガイというのは、自分がどうなろうと自分の女を決して落胆させないものだ。
「すっかりお待たせしてしまって、すみません」
柱の影から飛び出して、駆け寄るククロス。
彼見て、あきらかにキューティオレンジは喜んでいた。
ぴょんっと壁から跳ねるように離れて、彼の懐へと飛び込む。
「お祈りして、よかった。あなたが来てくれたもの」
マスクのせいでくぐもって、聞き取りづらい分、顔を近づけて耳打ちしてくる。キューティオレンジのその仕草がかわいくて、ククロスはもう少しで思い切り抱き潰してしまうところだった。
「さあ、行きましょう?」
彼の手を取ったキューティオレンジが、率先して引っ張ろうとする。だが彼には、ホールへ入る前にことわっておかなくてはならないことがあった。
「自分は、その……あまり……ダンスが、得意では…」
きまりが悪くて、だんだん声が小さくなってしまう。
キューティオレンジは彼が言いたいことを察して、ぽん、と胸を叩いた。
「そんなことないわ。だってあなたは、踊るために一番必要なものを持っているもの。ううん、何をするにも一番必要なもの」
「それは?」
「ふふっ。それはね、楽しむこと。何だって、楽しんだ者勝ちなのよ。技術とか、ステップとか、そんなの関係なし! 2人で一緒に楽しみましょう! ね?」
そう言って、彼の腕を抱き込んだキューティオレンジから、温かい、わくわくするものが流れ込んできた気がした。
彼女が言うと、本当にそうなんだと思えてくる。
「そう。そうですな」
「気になるんだったら隣をチラ見して、合わせればいいのよ。同じステップの繰り返しなんだから」
「なるほど」
「踊るばかりじゃなくて、休憩だって、食事だってしたいし。あ、それから、一緒の部屋に帰りましょうね」
「なるほ…………えっ?」
「ふふっ」
さっき聞こえた言葉は、聞き間違いか、冗談か。驚くククロスの手を引っ張って、キューティオレンジはホールに入って行った。
袖口のカフスを止めながら、神無月は心持ち歩幅大きめで歩いていた。
燕尾服にシルクハット、金で唐草模様の入った白いドミノマスク。オペラ座の怪人風コスチュームで、人気のない回廊を突き進んでいく。
もう参加者の人影はなく、白仮面をつけた使用人がいるだけだ。
「遅刻しそうなのは俺だけ……ってわけでもないか」
角を曲がった前方に、白いドレス姿の少女を見つける。
その少女は壁に手を添えて、どこか心もとなげにゆっくりとホールに向かって進んでいた。
最初、具合でも悪いのかと思ったが、横についてみて、彼女がよく見えていないのだと気づいた。
「大丈夫ですか? お嬢さん」
驚かせないように、そっと声をかけたつもりだったのだが。前方に進むことにばかり集中していた少女は、突然横から話しかけられたことに飛び上がってしまった。
「あっ、あのっ……はい、大丈夫ですっ」
(って、全然大丈夫そうに見えないんだよなぁ…)
しかも進みがのろい。何かにつまづいたり柱に当たったりしないかビクビクしながら進んでいるので、時間がかかっているのだ。
このままでは大幅な遅刻間違いなしだろう。
神無月は考え、瞬時に決めた。
「ちょっと失礼」
「きゃあっ」
さっと抱き上げられ、少女は驚きの声を上げる。
「首に掴まって。安定するから」
そう言って、ホールに向かって再び歩き出した。
「じゃあ俺、奥さん捜しに行くから。おまえも頑張れ」
ぽん。両肩を叩いて、ウェマーはホールに入る早々いなくなってしまった。
「頑張れって……何を?」
大勢の着飾った人がざわついている大きなホールで、アルスはぽつんと立っていた。
ウェマーが「面白い催しがあるから」と誘ってくれたからついてきたけど、こんな窮屈な服を着せられ、顔には白いマスクを貼りつけられて、これで一体何が面白いんだろう?
知らない人達、知らない場所。
調理された食べ物のにおいと、人工的な花や草の香り。
ここで、何をすればいいんだろう? 俺に何ができる?
正直、途方にくれていた。迷子ではなかったが、置き去りにされて、1人になって、そんな気分だった。
(……部屋に戻ろうかな…)
そう思い、入り口に向かい始めたときだった。
「ク――じゃなかった、アールスくんっ」
どさっ。
全身でもたれかかるように後ろから抱きつかれて、アルスはたたらを踏んだ。
「……あなたは?」
「俺、俺っ」
仮面をチラッと持ち上げて、顔を見せてくる。
「ああ、ヴァ――」
「おっと」
すかさず口を手でふさぐ。
「俺、今日は1日「渡り鳥」だから。よろしく」
「……よろしくお願いします」
ぺこり、頭を下げた。
「あー、やーねーこの子はっ。せっかくの舞踏会だってーのにテンション低いんだからっ」
「渡り鳥さん、酔ってるの?」
「のーんのーん、酔ってなーい。もっとも、これから酔おうとは思ってるけどねっ」
じゃん、とばかりに後ろ手に隠していたシャンパンのボトルを見せた。しかも2本。
「これ、どうしたの?」
「白仮面に言ったらくれた。ほら、壁際のテーブルにバイキングをセッティングしてるだろ?」
と、振り返りもせず単純に後ろを指す。そっちはベランダに通じる窓で、壁は左右だったのだが、細かいことは気にしない。
「グラスも2つ、かっぱってきたし。これ持って、俺の部屋に来ない?」
「え? でも、ウェマーがここに…」
「アルスくん、舞踏会に出たいわけ?」
そう言われると…。
そもそも、舞踏会ってよく分からないし。
でも、ウェマーはここにいるんだから、連れてきてもらった俺もここにいないといけないんじゃないかな。
考え込むアルスを抱き込んで、渡り鳥はそそのかすように耳元で囁いた。
「こんな、人だらけの所にいたってつまんないぜ。それよりか、リラックスできる部屋で2人で酒盛りでもしてた方がマシだって」
「……でも…」
「ウェマーのことなら気にすんな。さっきイアスと会ってたから。それにさ、あいつら今夜は夫婦で過ごしたいわけよ」
「うん。ウェマーも来るときそう言ってた」
いまいち、意味の分かっていないアルスを見て、渡り鳥はチッと舌打ちをもらす。
「つまり、おまえが部屋にいると邪魔なわけ。おまえ、ウェマーと続き部屋だろ?」
パートナーと来た者は、個室でなくコネクティングルームを割りあてられていた。ドアで行き来ができるようになっており、鍵がかけられるようになっているが、隔てているのがドアのため、壁は薄く、プライバシーの確保は難しい。
「おまえが部屋にいると、イアスが緊張するんだよ」
「ああ、そうなんだ。べつに俺は、イアスがウェマーの部屋にいたって気にしないけどなぁ」
……いや、こいつ絶対意味分かってないよ。
ヴァイスはそう確信していたが、あえて誤解を正すまでもない気がした。ようは、部屋換えを納得させればいいのだ。
「で、イアスの部屋があくから、俺とアルスくんがそっちの続き部屋を使うってことになったわけ。了解した?」
「はい」
「じゃあ行こっかー」
グラスを持つ手でアルスの肩を抱きこんで、渡り鳥は回廊に向かって歩き出した。
こんな人だらけの所に1人残ることに価値を見出せないアルスは、促されるまま、渡り鳥とともに部屋へ向かうことにする。
「何かおつまみもらっていった方がよくないですか?」
「そんなの持ってったら、さっさと酔い潰せないじゃん」
「え?」
「いやっ。たしか俺、バッグに夜食用に何か突っ込んできた気がするからさー。それ、食おうぜ」
嘘だけど。
(お互い、夜食食うのは間違いないし。うん)
こうしてヴァイスは早々とアルスのお持ち帰りに成功したのだった。
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